Vol.960-3/3 R巻頭-72。歴史(観て歩き)レポ-西讃編:05<椀貸塚古墳> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.960-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:05<椀貸塚古墳>

<09.椀貸塚古墳 <撮影:2018.05.16>

椀貸塚(わんかしづか)古墳は、6世紀後葉に築造された墳丘直径37.2m、推定墳丘高約10mの円墳です。

墳丘の周囲には二重周濠と周堤が存在し、古墳全体の範囲は直径約70mの広大な面積を占有しています。

また、複室構造である横穴式石室の全長は14.8mを測り四国最大規模です。

特筆すべきは、横穴式石室の中心施設である玄室(玄室長6.8m、玄室最大幅3.6m、玄室高3.9m)の床面積が24.6平方m、空間容積が72.7立方mあり、我が国トップクラスの見瀬丸山古墳、石舞台古墳などに準じる規模を誇っており、被葬者の強大な勢力を反映していると考えられます。大野原八幡神社境内に所在。

国指定史跡(平成27年10月7日指定)(観音寺市大野原町大野原字椀貸塚1913-1ほか)(平成27年10月8日更新)また、昔話、「椀貸塚伝説」の地としても知られています。                      (観音寺市HP)

 

その昔、人々が冠婚葬祭の際に、古墳に向かって「○客分のお椀を貸してください」と、お願いしておけば、翌日にちゃんと準備をしてくれていたことから、椀貸塚と呼ばれたそうだ。

 

<所在地・外観>

▼椀貸塚古墳-観音寺市大野原町大野原

▼椀貸塚古墳-県内を代表する大野原の巨石墳

 

 

JR豊浜駅から国道11号線を北東方向に進み、高松自動車道大野原IC入口を越え2つ目の信号交差点を右折し、高松自動車道を潜り約1kmでJA香川県大野原支店がある交差点に到達する。

その交差点を左折すると、大野原小学校と隣接して大野原八幡神社がある。

 

<概 要>

大野原町は、江戸時代初期、京都の商人平田与一左衛門が井関池を水源として新田を開発し、今日の繁栄の基が築かれた。大野原八幡神社は与一左衛門父子により建設されたもので、神社裏手には、平田家の菩提寺慈雲寺(じうんじ)(日蓮宗)がある。

 

▼JA大野原支店、お宮さんの松並木みち

 

▼大野原八幡神社-1

 

▼大野原八幡神社-2

▼大野原八幡神社-3

 

▼慈雲寺

 

 

<歴史遺産>  

八幡神社の本殿裏から南西一直線上に、岩倉塚・椀貸塚・角塚・平塚と呼ばれる4基の古墳が点在する。なかでも、「椀貸塚・角塚及び平塚」(県史跡)は県内を代表する巨石墳として古くから有名である。

この巨石墳の点在する辺りから少し北へ下ると、大野原扇状地は急激に扇端部に向かって下降し、燧灘に至る。古墳築造当時は、海上からもその雄姿を伺い知る事が出来たであろう。

 

4基の古墳の主体部はいずれも横穴式石室である。八幡神社の本殿裏の椀貸塚古墳は羨道(せんどう)部を含めた墳丘の南西部4分の1を、八幡神社の本殿を建てた際に大きく削り取られているが、直径40mを超えるものと推定される。玄室の奥壁に平行して幅1m、高さ0.3mの棺台と思われる石組があり、鉄製棺金具の破片が出土しているので、木棺が埋納されていたと考えられる。

 

▼椀貸塚古墳-1

▼椀貸塚古墳-2

 

▼椀貸塚古墳-3

 

 

椀貸塚古墳のさらに奥、慈雲寺に抜ける細道沿いに「岩倉塚古墳」がある。

墳丘頂部に岩倉大明神(通称「岩倉さん」)という小さな祠が祀られ、その事から名付けられた。

この古墳の墳丘も各所で大きく削られており、原形を留めないが、少なくとも直径20m以上の大円墳で有った事が推察される。

 

▼岩倉塚古墳

▼岩倉塚古墳-石室

 

 

大原八幡神社の南西約500mの所に、角塚古墳がある。

一辺約43mの方墳(ほうふん)で、かつては周濠(しゅうごう)を巡らしていたらしい。

石室の全長は10m、玄室の長さ5.4m・幅2.5m・高さ2.3mを測る。他の古墳と異なり、石室の奥壁および側壁はほとんど1枚の石から作られており、石は丁寧に平たく加工されている。

4基の古墳の中でも新しい時期の築造と考えられる。

 

▼角塚古墳-1

 

▼角塚古墳-2

 

▼角塚古墳-3

 

▼角塚古墳-4

 

 

角塚古墳の南約200mの所には、平塚古墳がある。直径52m、県内最大の円墳である。

石室の全長は12.4m、玄室の長さ7.2m・幅2.5mを測り、側壁などに巨大な一枚岩を用いている。

 

▼平塚古墳-1

 

▼平塚古墳-2

 

▼平塚古墳-石室

 

▼平塚古墳-墳丘、墳頂

 

 

西讃府誌に寄ると、この一帯には170基以上の古墳が有ったようであるが、近世以降の開拓事業に寄って、ほとんど姿を消してしまったが、前述の4基の古墳は、他の多くの小円墳が姿を消した中でも、手が付けられずに残った巨石墳である。4基の巨石墳の周辺に、先行または後出の大規模古墳は認められない。

従って、古墳時代の大野原地域の開発は、扇状地の扇端部を中心に6世紀末から7世紀中頃までに集中的に行われたと想定される。現在、角塚から平塚にかけての一帯は、大野原中央公園として整備されている。

 

▼大野原中央公園-1

 

▼大野原中央公園-2

 

▼大野原中央公園と平塚古墳、角塚古墳

 

 

<関連遺産>

大野原八幡神社の東方向約2kmの中姫(なかひめ)の赤岡山(あこかやま)には、大野原地域で最古とされる古墳時代中期の「赤岡山古墳」(県史跡)がある。

 

▼赤岡山古墳

 

▼赤岡山古墳-説明板

 

▼赤岡山の西側に上る

 

▼赤岡山の東側に上る

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀