akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記 -27ページ目

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.971-3/4に続けてご覧ください。

 

27.南草木遺跡と小蔦島貝塚 <撮影:2017.11.01>

南草木(みなみくさき)遺跡は、縄文時代から古墳時代にかけての複合遺跡で、この遺跡から発掘された貝塚は、縄文時代前期のものとしては県内で最大規模である。弥生時代末期から古墳時代初頭の竪穴住居跡からは、米を蒸す甑(こしき)や甕(かめ)・鉢・製塩土器などが発見された。住居跡埋没後、造られたと考えられる古墳時代後期の墓も発見された。

小蔦島(こつたじま)貝塚は、大正時代末期に発見されたもので、ハマグリなどの海の貝とシジミなど淡水の貝が見つかっている。無茎(むけい)の石鏃や、山形押型文(おしがたもん)・楕円型押型文の土器と、文様のない砲弾型のいわゆる蔦島式土器が出土した貝塚である。

 

<所在地・外観>

▼南草木遺跡・小蔦島貝塚-三豊市仁尾町仁尾乙上/仁尾町仁尾丁1322-4

▼南草木遺跡・小蔦島貝塚-県内最大規模の貝塚と縄文時代早期の貝塚

 

 

JR詫間駅前から三豊市コミバスで、「新開橋」バス停まで行き、南へ進み、小さな天王川(てんのうがわ)沿いに東へ150mほど上ると、「南草木遺跡」(県史跡)がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼三豊市コミバス「新開橋」停で降車、南草木遺跡へ向かう

 

▼新開地区を南下

 

▼天王川を越え左折、天王川沿いに東へ進む

 

▼南草木遺跡へ:地主の方の案内で、左側の丘陵が南草木遺跡

 

▼南草木遺跡-1

 

▼南草木遺跡の上部へ

 

▼南草木遺跡-2

 

▼南草木遺跡の石標と説明板、南草木遺跡の説明板

 

 

仁尾港の沖合約1kmに、大蔦島と小蔦島がある。

 

▼蔦島の案内板

 

▼大蔦島と小蔦島

 

▼大蔦島、天狗神社

 

▼小蔦島-(web引用-水彩画風変換)

 

▼仁尾港

 

 

仁尾港から南約1kmの沖合にある小蔦島東部に「小蔦島貝塚」(県史跡)がある。

 

▼小蔦島貝塚-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼小蔦島貝塚-2(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

水上展望台から見る宮池のパーゴラ。

水上展望台から見る宮池のパーゴラのズーム景。

爽やかな夕刻の宮池と水上展望台。

宮池の遊歩道の東から見るパーゴラ。

宮池の遊歩道の西から見るパーゴラ。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-082  Orignal掲載日:Vol.122 (2012.06.15)

度量。

内館 牧子氏の著書から「度量」について引用しました。

 

お局さまが発見した男の心理。人間の度量を判定する尺度ってあるのよ。自分のプライドが傷つけられた時にどういう態度を取るか。それでかなりわかる。やっぱり小さい度量の人間の方が騒々しくて必死で、人として何か魅力的でもあるのよ。度量の小さい人のことを、ツバメとススメという小鳥になぞらえて「燕雀(えんじゃく)」と呼ぶ意味がよくわかる。燕のように必死にスイスイと逃げ切ろうとしたり、雀のように口先でピイピイとアピールしたり、それは確かにみっともない。だが、みっともなさに気づかないほど必死な小鳥は、鷹や鷲に生まれつかなかったという哀しみだけでも、十分に魅力的なのかもしれない。「度量とは何か」と言ったら、人の上に立てる資質があるかどうかということよ

 

そ、「手柄は僕のもの、ミスは君のもの」は論外。「私が、私が」はクズ。上司に内緒にしてくれとか上の顔色を伺うヤツハカス。女に向かって「出世払い」なんて自分から言うヤツはゴミ。そんなヤツらは人の上に立とうなんて野望は捨てて、世間様の邪魔にならないようにひっそりと息だけしていりゃいいの。

そういう彼は、上の顔色を伺いまくり、部下や弱い者には露骨に冷淡。その上、一人のスタッフの暴挙を止められない。「できません。僕より年上で、僕より地位が上ですから」と普通は思っていても口に出せないこの答えを、平然と口にするという凄い大物かも知れないと想わせるのだった。

因みに、度量とは他人の言行をよく受けいれる、広くおおらかな心をいうのだ。

 

如何でしたか、貴方の度量は、貴方の上司の…は。

 

 

<高くがる空間>

JR高徳線と琴電琴平線の立体交差地点(藤塚・栗林・桜町の接点地)の上空。

JR高徳線高架(中野町)の上空。

穴吹工務店本社ビル(藤塚町)の上空。

法務少年支援センター高松(高松少年鑑別所)(藤塚町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇我家の庭とNa宅に咲く紫陽花(アジサイ)

6月に入り、アジサイの季節がやって来た。今となっては沢山の人に親しまれているアジサイだが、昔は余り人気は無かったそうだ。

 

<アジサイの歴史と逸話>

・どうして「紫陽花」と書くのか。

日本原産のアジサイが初めて書物に登場したのは、奈良時代で、日本最古の和歌集である『万葉集』に登場している。万葉集には様々な植物が記されているが、アジサイが詠まれている和歌はわずか2首だけだ。
●言(こと)問はぬ木すら味狭藍(あじさい)諸弟(もろと)らが 練(ねり)の村戸(むらと)にあざむかえけり
●安治佐為(あじさい)の八重咲く如くやつ代にをいませわが背子(せこ)見つつ思はむ(しのはむ)

万葉集が作られた時代には「紫陽花」という表記は使われていなく、「紫陽花」という表記になったのは、平安時代のことで、学者であり歌人の源順(みなもとのしたごう)は、中国の白楽天の詩を読んだ際、その詩に記されている『紫陽花』と、日本でよく知られるアジサイが同じものだと考えました(実際は別種の植物だったようですが…)。この事をきっかけに、この漢字があてられるようになったとの事だ。

 

・移り気?浮気?アジサイの花言葉とその由来

この花言葉が付いたのは、アジサイの「色」に理由があり、アジサイは土壌が酸性かアルカリ性かで色が変わると言われていて「同じ場所に植えていても年々花の色が変化していく」ことが起こる。土壌の酸度によって色が変化するアジサイには、「七変化」という別名まで付き、色の変わり易さが人の心の移ろいのように見えた事から、「移り気・浮気」という花言葉が付けられたとされている。アジサイは、ネガティブな花言葉からかつてはお祝い事には避けられていた。しかし「一家団欒」や「元気な女性」「寛容」など、花の色や国によってはポジティブな花言葉も多くあり、現在では結婚式などのお祝いの場でも使われているようだ。

・アジサイの名所と言えば「お寺」、その理由は?

人気が出てきたのは、第二次世界大戦後のことで、アジサイが観光資源として注目されたのがきっかけでした。現在でも、アジサイが咲く季節になるとたくさんの観光客が名所に訪れる。「日本のアジサイの名所」と聞いて、「お寺」を連想する人は多いが、何故、日本のアジサイの名所にお寺が多いのか。実はアジサイの季節である6月は気温の変化が激しく、昔はこの季節に流行病で亡くなる人が沢山いた。そのため、アジサイは死者に手向ける花と考えられていた。この事から、かつて流行病が起こった地域では、お寺に沢山のアジサイを植えるようになった。

 

<アジサイの開花日は>

多くの方が見たことの有る花は「装飾花(そうしょくか)」と云い、装飾花とは、がく片が大きく広がるように生長する花のことで、おしべやめしべが退化していることが特徴である。実は、気象台では「真花(しんか)」と呼ばれる、おしべとめしべを持つ両性花が2~3輪咲いた日を“アジサイの開花日”と定義しています。多くの場合、装飾花の内部に埋もれるようにひっそりと咲いています。

 

 

◇ウォーキングコース奥のⅠ宅のタチアオイ(立葵)

◇ウォーキングコース脇のTa宅に咲くテリハノイバラ

 

◇ウォーキングコース脇の畑に咲くカラー(湿地性)クルクマアイルージュ

 

 

 

 

 

Akijii気ままniフォトsketch<新北町南公園アマンダンカルム新北町公北園> 

新北町南公園は、フリースペースも広く、住宅街にある割にはしっかりとした公園である。

木に囲まれたベンチは癒されるスペースになっていて、遊具が多数設置され砂場も十分な広さと思う。

 

アマンダンカルム(アマンダンカルムHP)

穏やかな凪の海辺に佇む寛ぎのウエディング、島々のグリーンと海のブルーの景色が広がる壮大なロケーション。
穏やかに流れる時が非日常の一日を緩やかに演出するアマンダンカルムは高松駅から車で7分という距離にありながら
太陽と瀬戸内海に開かれたゲストハウス。訪れるゲストは鮮やかな景色を背景にした贅沢な空間で、最上のシーサイドウエディングをお愉しみいただけます。太陽と瀬戸内海に開かれたゲストハウスは、美しい風景を存分に楽しめるよう、建物の海側は全面ガラス張りに。空や海も時間とともに表情を変え、幸せな一日を鮮やかに彩ってくれます。

会場と海が一体になるように考え設計したバンケットからは、直島・女木島・小豆島などを見渡すことができる眺望の良さ。一面の美しい景色とともに、ゲストと豊かな時間をお過ごしください。

 

新北町公北園は、海沿いのバスケットコートがある公園で、海岸からは女木島や屋島が見える。

令和5年5月12日 国土交通省/都市局公園緑地・景観課(香川県HP)

花と緑の愛護に顕著な功績のあった民間の団体に対し、その功績をたたえ、国民的運動としての緑化推進活動の模範として表彰する第34回「みどりの愛護」功労者国土交通大臣表彰について、新北町北公園愛護会の受賞が決定しました。

 

▼所在地、新北町南公園

高松市新北町:〒760-0001

 

▼アマンダンカルム、新北町北公園

 

 

▼バス停「新北町」で降車、新北町南公園へ向かう(約0.1km)

 

▼新北町を西に進む、新北町南公園が見えて来た

 

 

▼新北町南公園に着いた、新北町南公園-1

 

▼新北町南公園-2

 

▼新北町南公園-3

 

▼新北町南公園-4

▼新北町南公園-5

 

▼新北町南公園-6

 

▼新北町南公園-7

 

▼新北町南公園-8

 

 

▼新北町南公園を後にしてアマンダンカルムへ向かう(約0.5km)、新北町を北に進む-1

 

▼後方を振り返る(奥に石清尾山)、新北町を北に進む-2

 

▼後方の新北町南公園を振り返る、新北町を北に進む-3(次のT交点を右折)

▼新北町を東へ進む

 

▼次の交差点を左折、交差点の南方向にバス停「新北町」が見える

 

▼新北町を北方向へ進む-1、右(東)中央奥に高松シンボルタワー-1

 

▼新北町を北方向へ進む-2、右にアマンダンカルム専用駐車場

 

▼右(東)中央奥に高松シンボルタワー-2、新北町を北方向へ進む-3

 

 

▼右奥にアマンダンカルムが見えて来た、アマンダンカルムに着いた

 

▼アマンダンカルム-1

 

▼アマンダンカルム-2

 

▼アマンダンカルム-3

 

▼アマンダンカルム-4

 

▼アマンダンカルム-5

 

▼アマンダンカルム-6

 

▼アマンダンカルム-7、アマンダンカルムから見る瀬戸内海

 

▼アマンダンカルムから見る瀬戸内海のパノラマ景

▼アマンダンカルムから見る女木島のズーム景、屋島と高松シンボルタワーのズーム景

 

▼アマンダンカルムHPより引用-1

 

▼アマンダンカルムHPより引用-2

 

▼アマンダンカルムHPより引用-3

 

 

▼新北町北公園へ進む-1、左側に新北町北公園-1

 

▼新北町北公園へ進む-2、左側に新北町北公園-2

 

▼新北町北公園へ進む-3、新北町北公園の園名板

 

▼新北町北公園へ進む-4、新北町北公園に着いた

 

 

▼新北町北公園-1

▼新北町北公園-2

 

▼新北町北公園-3

 

▼新北町北公園-4

 

▼新北町北公園-5

 

▼新北町北公園-6、新北町北公園を後にして瀬戸内町へ向かう(約0.3km)

 

 

▼瀬戸内町へ進む-1、摺鉢谷川沿いに南に進む

 

▼瀬戸内町へ進む-2、右後方に新北町北公園

 

▼瀬戸内町へ進む-3、瀬戸内町に入る(沙魚川橋を渡る)

 

次報Vol.971に続く

 

 

<akijii展-(527)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-02

今報は「キリン」で、所要時間は230Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.970-2/3をご覧ください。

Vol.970-1/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:15<本篠城・大久保諶之丞翁胸像

24.本篠城(財田城)跡 <撮影:2017.09.26 and 2018.04.27>

本篠城(もとしの)は本篠集落の南東に聳える標高200m程の山に築かれた山城である。

築城年代は定かではないが財田氏によって築かれたと云われる。

南北朝時代の建武4年・延元2年(1337年)には財田合戦があり、南朝方で阿波の小笠原義盛が財田を拠点として北朝方と戦った。天正年間(1573年~1592年)の城主は財田和泉守常久(つねひさ)で、天霧城主の香川氏に属していた。 長宗我部元親は藤目城の斎藤氏を一旦は降したが、十河存保に藤目城を奪い返されてしまう。天正6年(1578年)土佐軍は五千の兵を率いて本篠城を取り囲んだ。籠城する兵は財田常久を始め僅か二百であったと云う。常久は天霧城の香川氏に再三援軍を求めたが、香川氏は援軍を派遣せず、常久は城から打って出て土佐軍の横山源兵衛に討たれた。

その後は長宗我部氏の家臣中内藤左衛門(なかうちとうざえもん)が城主となったが、豊臣秀吉の四国征伐で城を棄てて土佐へ逃れ廃城となった。

 

<所在地・外観>

▼本篠城跡-三豊市財田町財田中本篠

▼本篠城址の石碑と説明板、鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)

 三豊・観音寺地域を代表する中世戦国時代の山城の典型

 

 

三豊市財田町の県道5号線の長瀬交差点(国道377号線交点)から東南から東北方向に3kmほど進み、本篠川沿いの道を東方向に右折し、上流の方へ行くと本篠集落に入る。その更に奥、両側に谷を控えた山は城山(しろやま)と呼ばれ、「本篠城跡」が存在する。

 

<概 要><歴史遺産>

▼城山

 

▼本篠城址へ進む

 

▼目印の橋(本篠川)、橋の元に鎮座している龍王神社と伯母渕

 

▼龍王神社

 

▼伯母渕

 

▼本篠城址への方向案内板、本篠城址の登り口

 

▼本篠城址の説明板、山頂(主郭)へ荒れた登山道を直登

 

城山頂部の主郭は、約15m×52mの楕円状を呈し、東辺には土塁が設けられている。

土塁直下とその下に、細長い郛が配され、頂部の北側にも僅かな段差をもって郭がある。

頂部から北・南に下った所には、それぞれ尾根筋を大きく切断した空堀がある。

 

▼山頂部の様子-1

 

▼山頂部の様子-2

 

▼山頂部の様子-3

 

▼山頂部の様子-4

 

 

城の規模としては決して大きくはないが、戦国時代の山城の典型を見るようである。

南北朝時代の遺構は現存していないが、戦国時代に再構築したと考える事は可能であろう。

城跡に関係して、地元では、城山前方の田畑辺りを「待ちの段」(元親軍に対して、財田勢が陣を構えた所という)、城山の東面を「馬落とし」などと呼んでいる。

 

▼城山前方の「待ちの段」

 

 

「待ちの段」の下方の民家脇に財田常久の墓がある。

 

▼財田和泉守常久の墓の案内板、民家の脇に財田和泉守常久の墓

 

▼財田和泉守常久の墓

 

 

更に400mほど北西の本篠川沿いの山麓には、財田吉宗の墓と伝えられる五輪塔がある。

 

▼財田佐兵衛頭義宗の墓の方向標示板、本篠川の上流の山麓に五輪塔

 

 

<関連遺産>

県道5号線に戻り、北東に約1㎞行くと、左側にかつての郷社・鉾(ほこ)八幡神社の鳥居が見える。

▼鉾八幡神社の鳥居・社号標、古い味わいのある社号石

 

 

現在、鉾八幡神社の裏に運動公園が整備されているが、この運動公園の背後の通称城山には、橘(たちばな)(天皇てんのう)城跡がある。

 

▼橘城址の城山

▼城山中腹の東屋、東屋から見る財田町総合運動公園

 

 

鎌倉時代末期に、土佐からこの地に移住してきた大平氏の城で有ったと伝えられている。

現在、頂部の主郭跡には、田原(俵)神社・須賀神社が合祀されており、大平氏を祀る祠もある。

 

▼橘城址の説明板-財田町総合運動公園の入口、城山中腹の東屋

 

▼俵神社-1

 

▼俵神社-2

 

 

東側は約5mの段差をもった細長い曲輪が主郭を囲み、西側は険しい斜面になっている。

 

▼西側の険しい斜面

 

 

頂上には周囲に土塁の跡が残り、虎口(こぐち)の跡も確認できる。

また、主郭の周囲には、一部空堀の跡も確認でき、中世山城の特徴を良く留めている。

 

▼頂上(主郭)の様子-1

 

▼頂上(主郭)の様子-2

 

▼頂上(主郭)の様子-3

 

 

南西約500mの伊舎那院(いしゃないん)には、大平氏の供養塔と云われている石造宝塔がある。

 

▼伊舎那院-山門(仁王門)と外観、仁王門

 

▼伊舎那院-境内、宝塔群

 

▼伊舎那院-石造宝塔(大平氏の墓)、説明板

 

 

他にも山本町から財田町、更に仲南町に掛けては、多くの中世山城跡が点在している。

 

▼山本町~財田町~仲南町の中世山城跡(web引用)

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.970-3/3をご覧ください。

Vol.970-2/3に続けてご覧ください。

 

25.大久保諶之丞翁胸像 <撮影:2013.11.06 and 2018.05.10>

●大久保諶之丞(じんのじょう)翁と洞爺村の開拓
大久保諶之丞翁は、嘉永2年(1849年)8月16日、265年間に亘る江戸幕府が、黒船の来航、倒幕運動の高まりにより、あと18年で崩壊する世情極めて不安定な時代に、香川県三野郡財田上ノ村奥谷に生まれ、その後、明治維新という日本の政治、経済、社会が激動する中にあって幅広く数多くの業績を残されました。

特に洞爺村の開拓に関わり深い北海道移住については、明治20年北海道移民周旋委員、さらに明治21年県議会議員となり北海道移民奨励会を設立、そして明治23年には移民推進のため北海道に渡り、現地調査と多くの移民者に激励を贈るなど、翁の北海道移住に寄せる情熱は計り知れないものがありました。

明治20年3月29日、三橋政之を団長とし、22戸76人が多度津港を出発、43日を費やし、期待と不安の思いをこめ原始の森「洞爺村」に第一歩を印しましたが、一鍬一鍬血の滲む開墾に精根を傾けた先人達は、冷害、早霜、虫害等、自然条件の厳しい洗礼を受け、開拓に挫折感を抱きました。そんな時、開拓の父、母とも仰ぐ郷里財田村の大久保諶之丞翁より寄せられる財政支援、助言等がどれほど励みになったでしょうか。しかし、なんと言う過酷な運命でしょう。県議会で討議中の翁は、突然倒れ、明治24年12月14日、志半ばで42歳の短い生涯を閉じたのです。粉雪の舞う、とても寒い日だったそうです。時は流れ、開村110年の大きな節目に姉妹町村財田町よりご寄贈頂いた翁像は、洞爺村開拓の縁とも言える老三樹に寄り添うように設置され、洞爺村の限りない発展を見守り続けているのです。

 

●未来を切り開く情熱と夢!! 100年の時を超えて語りかける諶之丞の詩

「笑わしゃんすな百年先は、財田の山から川舟出して、月の世界に往来(ゆきき)する」

吉野川導水を政府に働きかけた年(明治18年)に作った詩であるが、香川用水として89年後に通水(昭和49年5月30日)した。「塩飽ノ諸島ヲ橋台トナシ…架橋連絡セシメレバ常ニ風波ノ憂ヒナク…南来北行・東奔西走瞬時ヲ費サズ其ノ国利民福タル是レヨリ大ナルハ莫シ」

百年後の四国を運命づけた明治22年5月1日のこの言葉は、架橋に寄せる四国島民の永年の悲願を代表するメッセージとして広く知られている。瀬戸大橋は、架橋の提唱以来99年後の昭和63年4月10日、総工費1兆1,200億円、延べ労働者数840万人、9年半の時間を要して完成した。誰しも、人間技で出来るものではないと諦めた「夢」を、現実のものにしようと試みた。わずか42年の短い生涯。されど全力で時代をかけ抜けたその生き方に、敬意と喝采を送りたい。 洞爺村     (現地説明看板)

 

<所在地・外観>

▼大久保諶之丞翁胸像-三豊市財田町財田上戸川

▼大久保諶之丞翁胸像-100年以上前に、瀬戸大橋・香川用水などの構想を披瀝

 

 

鉾八幡神社から県道5号線を北東へ進み、三豊市財田支所前を通り過ぎ、更に東南方向に2.5㎞ほど行くと、国道32号線に合流する。この合流地点に「道の駅たからだの里さいた」がある。

道の駅にの南西に隣接する温泉施設環(たまき)の湯の入口に、「大久保諶之丞胸像」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼道の駅たからだの里さいた、温泉施設環の湯

 

▼胸像

 

 

大久保諶之丞は、1849(嘉永2)年、三野郡財田上ノ村(現、財田町財田上)に生まれた。

1888(明治21)年、愛媛県会議員となり、のち行政区画の変更に伴い、香川県会議員となって県政に携わった。青年の頃から道路の改修や橋梁架設などに尽力し、現在の国道32号線の前身である、全長280㎞におよぶ四国新道は、諶之丞の奔走に依って、1884(明治19)年に着工した。

 

▼四国新道構想の案内板

 

▼四国新道構想の案内板

 

 

新道建設の労苦は大変なものであったが、強い信念と忍耐をもって臨み、途中、多額の予算超過により、工事の継続が困難になった際は、自ら新道工事請負人となり、私財を投じて1890年、四国新道のうち讃岐新道分(丸亀・多度津-猪ノ鼻峠間)を完成させた。

38㎞余りの讃岐新道は、将来の交通量の増加を予想して、道幅は最小で6.3m、最大で12.8mも有り、金蔵寺(現、善通寺市)から琴平(現、琴平町)までの約7㎞を一直線の道路にするなどの特徴をもっている。

 

▼金蔵寺(現、善通寺市)~琴平(現、琴平町)までの一直線の道路(web引用)

 

 

猪ノ鼻峠に隧道を掘り、吉野川に注ぐ伊予川から水路を引いて、西讃一帯に灌漑用水を供給すると云う、現在の香川用水にも繋がる構想を提言した。また、塩飽諸島を橋台として本州との間に橋を架けると云う、まさに現在の瀬戸大橋の構想を披瀝(ひれき)するなど、時代に先駆けた着想の持ち主であった。

 

▼猪ノ鼻峠の隧道

 

▼現在の瀬戸大橋-1

 

▼現在の瀬戸大橋-2

 

▼現在の瀬戸大橋-3

 

 

更には、地域の医師不足を解消するため、育英制度の創設や、農家の2男らに自立を支援する北海道移民の提唱と実現などにも尽力した。

しかし、1891年、議会での演説中に倒れ、42歳の若さで死亡した。

 

現在、町内の香川用水記念公園内の水の資料館に、諶之丞の遺品などが展示されている。

 

▼香川用水記念公園-1

▼香川用水記念公園-2

 

▼水の資料館企画展-吉野川源流域を訪ねて(web引用-水彩画風変換)

 

▼水の資料館企画展-諶之丞パンフレット

 

 

また、顕彰碑が「たからだの里」から南へ約1㎞の国道32号線沿いにあり、琴平町の愛宕山の頂上には銅像が立っている。

 

▼顕彰碑

 

愛宕山の銅像は、もと琴平町公会堂に立っていたが、讃岐平野を一望し、遠く瀬戸大橋も展望できる現在の地に移されたものである。

 

▼愛宕山の銅像

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

遊歩道の南西端から見る宮池のパノラマ景。

水上展望台と満水の宮池。

宮池の土手のチガヤとだんご山3兄弟。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-081  Orignal掲載日:Vol.121 (2012.06.10)

君も誰かに嫌われている。

 

君は、今、自分のまわりに何人、嫌いな人間がいるだろうか?「苦手な人はいるけど…」という程度ならいい。「あの人とは、前世で、きっと、何かあったんだわ」その人の事を考えるだけで、イライラするくらい嫌いな人間もいるだろう。嫌いというのには、理由がある。それは嫉妬と反発である。

 

人間は、自分にないものを持っている人を見ると、嫉妬する。それは物質的なものだけではなく、生き方もそうである。「あんな風には、生きられない」と思うと、悔しさが嫉妬になり、嫌悪に変わるのだ

逆に、自分と同じものを持っている人を見ると、反発する。「自分だけだと思っていたのに…」せこさやずるさまでが、自分と同じだと心の内を見透かされているようで、余計に腹立つのだ。

 

どうだろう。君が嫌いな人というのは、君の性格と全く正反対のタイプか、そう言われてみれば、どことなく、似たタイプかもしれないと思わないか? 嫌いな人というのは、君自身を知るための「合わせ鏡」なのだ。自分が、他人からどう見られているかを知るには、2枚の鏡を使って、背中や頭の後ろを観るように、「嫌いな人を」を観察してみればいい。正反対のタイプとよく似たタイプ。その両極端の間に君はいるのだ。

 

さあ、君が嫌いな人を数人、思い浮かべてみよう。どこが、嫌いなのか?そして、何がきっかけで嫌いになったかを考えるのだ。意地悪だから嫌い、異性に媚びるから嫌い、デリカシーがないから嫌い、何ということはないのに顔を見ただけでムカつく…などなど。世の中にはこれだけ大勢の人がいるのだから、君に嫌いな人がいるのは、仕方がないことだ。その人と関わらないで生きていけばいい。

 

でも、なぜ、その人が嫌いなのかを考えることは、決して無駄ではない。

きっと、自分が見えて来る。

そして、君が自分の性格で直すべきところは直せばいいのだ。

そう、君だって僕だって、きっと、誰かに嫌われているのだから。

と、いうように訊かれると「そのとおりですね」と小生は答えるだろうが、貴方がたは…。

 

 

 <高く広がる空間> 

自宅前から見る北東方向(袋山)の早朝の上空。

沖ノ池(上天神町)の上空。

亀池(通称=沖ノ池)改修記念碑(上天神町)の上空。

三条池(上天神町)の上空。

三条池改修工事記念碑(上天神町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースの新居新池の土手に咲く柳花笠(ヤナギハナガサ)

南アメリカから観賞種として持ち込まれた栽培種が野草化して、各地の野山に見られる。
柳花笠(ヤナギハナガサ)は、三尺バーベナとも呼ばれるクマツヅラ科クマツヅラ属の多年草である。

柳花笠の名は、葉が柳のように細長く、小さな花が集まって咲く様子が花笠に似ていた事から付けられた。

 
柳花笠は、丈夫な園芸品種として知られる宿根バーベナとよく似た花だが、宿根バーベナよりも草丈が高いのが特徴で、60〜150cmほどの高さにまで生長する。三尺バーベナ(三尺は約90cm)という名前は、その高い草丈から来ている。

 

◇ウォーキングコースのka宅の畑に咲くカラー・レッドセントレア

 

 

◇町並巡りで出会ったタチアオイ(立葵)

 

◇ウォーキングコース脇の畑に咲くユリアストロメリア

 

 

◇ウォーキングコースに咲くキンシバイ

 

◇新居宮池の土手のチガヤ

 

 

 

Akijii気ままniフォトsketch<池田合子神社池田城跡  

合子神社(ごうしじんじゃ)は、上佐山(うわさやま)の東麓、西植田町に通ずる道の西側小丘上に鎮座する。旧村社。池田八幡宮・上佐明神とも称し、祭神誉田別尊。寛永一九年(1642)写の国中寺社領高書上(覚城院文書)に池田八幡とあり社領一石五斗。「讃岐国名勝図会」によれば初め三谷弥七郎が鎮守として宇朝山(上佐山)上に奉祀していた。

 

光専寺は、真宗興正派の寺院です。

 

池田城跡、池田城は池田長本村公民館の北東辺りにあった「城屋敷」と呼ばれる地に築かれていたという。

方形の区画で四方に堀が巡らされていたと思われるが、遺構は残っていない。

詳細不明だが、城主は植田氏の一族池田遠江守景光、溝口飛騨などが伝えられる。北にある池田山城と同名の城主が伝わっており、深い関係があったものと思われる。

 

▼所在地、合子神社の参道口

高松市池田町:〒761-0444

 

▼合子神社の神殿と奥に上佐山、光専寺

 

▼池田城跡、光専寺山遺跡

 

 

▼バス停「池田」で降車、県道156線を北に戻る-1(合子神社の鳥居へ向かう:約0.2km)

 

▼県道156線を北に戻る-2、右に「池田農道碑」

 

▼県道156号線を西へ横断し合子神社の参道口へ、参道舗装ガードレール碑

 

 

▼合子神社の参道口-1

 

▼合子神社の参道口-2

 

▼おかげ坂を上る-1

 

▼おかげ坂を上る-2(左は県道からの参道石階段)、道156号線からの参道石階段

 

▼通行止めの御旅所への石階段、おかげ坂を上る-3

 

▼おかげ坂を上る-4(鳥居が見えて来た)、合子神社の鳥居に着いた-1

 

▼合子神社の鳥居に着いた-2、御旅所へ進む

 

▼合子神社-朝日のスポット(朝日⇒鳥居⇒神殿⇒上佐山)、後方を振り返る(右奥の御旅所へ進む)

 

▼合子神社-御旅所

 

▼合子神社-カナメモチ、天の恵み(雨水)&心の錨(社の心)

 

▼合子神社-鳥居に戻る

 

▼合子神社-鳥居に戻った、鳥居から見る参道

 

▼池田合子神社碑、整備記念之碑

 

▼合子神社-神殿へ進む-1、天神社(学問の神様)

 

▼合子神社-神殿へ進む-2、上佐山の説明

上佐山の説明(上佐山-王佐山城跡-頂上約256m・360度の眺望)(登山口へ徒歩約15分・登山口までに複数本の巨木あり・登山口から頂上へ約30分・頂上から日の出・神社を参拝)☞☞☞⇒

 

▼合子神社-左側の石灯籠・狛犬、右側の石灯籠・狛犬

 

▼合子神社-手水舎、神殿に着いた

 

▼合子神社-社務所-1、神殿-1

 

▼合子神社-神殿-2、幸福の錨

 

▼合子神社-神殿-3

 

▼合子神社-神殿-4

 

▼合子神社-神殿-5

 

▼合子神社-神殿-6

 

▼合子神社-神殿から見る参道

 

▼合子神社-社務所-2、上佐山の東麓を通り光専寺へ向かう(約0.6Km)

 

 

▼合子神社の南側を西に進む、上佐山の東麓へ進む-1

 

▼右に合子神社の神殿、上佐山の東麓へ進む-2

 

▼合子神社(学問の神・天神社有)の標識板、上佐山の東麓へ進む-3

 

▼上佐山の東麓へ進む-4、後方の合子神社の杜を振り返る-1

 

▼上佐山の東麓へ進む-5、上佐山の東麓に着いた

 

▼後方の合子神社の杜を振り返る-2、上佐山の東麓を右(北)に進む-1

 

▼上佐山の東麓を右(北)に進む-2

 

▼四差交点に着いた(正面に案内板)、案内板「上佐山登山道入口へ👈徒歩約10分・登山道入口から頂上へ約30分」

 

▼上佐山登山道入口の方向、光専寺へ小径を東北方向へ進む-1

 

Vol.969-2/3に続く

 

 

<akijii展-(526)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-02

今報は「鳩a」で、所要時間は150Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.969-2/3をご覧ください。

Vol.969-1/3に続けてご覧ください。

 

▼光専寺へ小径を東北方向へ進む-2

 

▼右(東南)方向に合子神社、合子神社の神殿ズーム景

▼光専寺へ小径を東北方向へ進む-3

 

▼光専寺へ小径を東北方向へ進む-4

 

▼右(南)に合子神社の杜、光専寺へ小径を東北方向へ進む-5

 

▼光専寺へ小径を東北方向へ進む-6

 

 

▼光専寺が見えて来た、光専寺に着いた

 

▼光専寺-1

 

▼光専寺-2

 

▼県道156号線の右(南)方向に合子神社の参道口が見える、県道156号線を東へ横断

▼県道156号線を東側から光専寺を振り返る(奥に上佐山と案内板)、案内板「上佐山登山口(井口川口)」

 

 

▼池田町を東方向に進み池田城跡へ向かう(約0.3km)、池田町を東方向に進む-1

 

▼名家T

 

▼池田町を東方向に進む-2(次のT交点を左折)、池田町を北方向に進む-1

 

▼名家M

 

 

▼池田町を北方向に進む-2(右奥に池田城跡が見えて来た)、池田城跡に着いた

 

▼池田城跡-1

 

▼池田城跡-2

 

 

▼池田城跡を後にして帰路のバス停「川島」へ向かう(約2.4km)、県道156号線の交点へ進む-1

 

▼左(西南)方向に上佐山、県道156号線の交点へ進む-2

 

▼県道156号線の交点へ進む-3

 

▼県道156号線の交点へ進む-4

 

▼県道156号線の交点へ進む-5、県道156号線の交点に着いた

 

▼県道156号線を北方向に進む-1

 

▼右(北東)方向に五剣山・前田山、左(西南)方向に上佐山・日妻山

 

 

▼前方右の光専寺山遺跡に寄る、光専寺山遺跡の散策-1

 

▼光専寺山遺跡の散策-2

 

▼光専寺山遺跡の散策-3

 

▼光専寺山遺跡の散策-4

 

▼光専寺山遺跡の散策-5

 

▼光専寺山遺跡の散策-6

 

▼奥に由良山・屋島・五剣山、光専寺山遺跡の散策-7

▼光専寺山遺跡の散策を終え元の位置に戻る、左奥に光専寺山遺跡の石標

 

 

▼県道156号線に戻った、県道156号線を北方向に進む-2

 

▼県道156号線を北方向に進む-3、光専寺山遺跡の森を振り返る

 

▼県道156号線を北方向に進む-4、バス停「市場」を通過(残り1.5km)

 

▼右奥に川島東町市営住宅、県道156号線を北方向に進む-5

 

▼県道156号線を北方向に進む-6

 

▼池田町下代交差点が見えて来た、県道156号線の左道を北方向に進む-1

 

▼左(西)奥に日妻山・日山、県道156号線の左道を北方向に進む-2(川島本町に入る)

▼バス停「川西」を通過(残り0.9km)、県道156号線の左道を北方向に進む-3

 

▼正面奥に由良山、県道156号線の左道を北方向に進む-4

 

▼県道156号線の左道を北方向に進む-5、県道12号線との交差点

 

▼県道12号線との交差点の右(東)方向、左(西)方向

 

▼県道12号線との交差点を著進横断(後-0.2km)、バス停「川島」へ進む-1

 

▼バス停「川島」へ進む-2、バス停「川島」が見えて来た

 

▼バス停「川島」に着き帰宅の途に就いた、バス停「川島」から見る由良山・屋島・五剣山

 

 

今報で「郊外:東西」を終え、次報から「中心部:西北」へ進みます。

 

引き続き、Vol.969-2/3をご覧ください。

Vol.969-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:14大興寺・菅生神社

22.大興寺(小松尾寺) <撮影:2015.10.20 and 2019.05.30>

一般に「小松尾寺」として親しまれている大興寺(だいこうじ)は、四国八十八ヶ所霊場第67番札所として多くのお遍路さんが訪れています。弘仁13年(822年)弘法大師空海が建立したのが始まりとされていますが、境内からはそれより古い時代の瓦などが発掘されており、草創は奈良時代とも考えられています。

現在の大興寺は戦国時代に兵火に焼け、慶長年間(1596~1615年)に再建されたものです。弘法大師がこの寺での修行中に植えられたと伝えられるクスやカヤも、県の自然記念物・保存木に指定されています。木造金剛力士立像の高さは2体とも3.14mあり、檜材寄せ木造で彩色されています。また鎌倉期の秀作とされる扁額には中央に大きく「大興寺」と彫られ、裏面には平安期3蹟の一人藤原経朝のよって書かれたことがわかる陰刻もあります。この扁額も県最古と言われています。   (三豊市HP)

 

<所在地・外観>

▼大興寺-三豊市山本町辻4209

▼大興寺-多くの文化財が残る四国霊場67番札所、大辻集落の鋳物師集団

 

 

国道377号線の三豊市コミバス停「大興寺口」(山本町辻)の西角を、南方向に約1km行くと小松尾山「大興寺」(小松尾寺、真言宗)の門前に着く。

 

<概 要><歴史遺産>

▼三豊市コミバス「三谷(現在は大興寺口)」バス停、大興寺への案内板

 

▼大興寺へ向かう-1

▼大興寺へ向かう-2、窯跡群

 

▼大興寺へ向かう-3、大興寺に到着

 

▼大興寺の門前、山門(仁王門)

 

 

往時は、36坊の僧坊が甍(いらか)を並べ、盛大を究めていたが、1578(天正6)~83年に讃岐に侵攻してきた長宗我部元親の兵火により、本堂を残して堂塔はことごとく焼失した。

 

長崎生まれの廻国聖(かいこくひじり)(諸国札所を巡り歩く巡礼聖・六部衆ろくぶしゅう)大助らが、1789(寛政元)年に再興した山門を潜り石段を上ると、入母屋造の本堂があり、本尊の「木造薬師如来坐像」(県文化)が祀られている。

 

▼仁王門の扁額と金剛力士立像、小松尾寺のカヤ(県指定木)

 

▼小松尾寺のクス(県保存木)

 

▼大興寺-石段、手水舎

 

▼本堂、木造薬師如来坐像(web引用-水彩画風変換)

 

 

本堂の右は天台(てんだい)大師堂で、「木造天台大師坐像」(県文化)を祀り、左に弘法大師堂がある。

 

▼天台大師堂、木造天台大師坐像(web引用-水彩画風変換)

 

▼弘法大師堂、寺務所

 

 

大興寺には「木造金剛力士立像」(県文化)や、書道世尊寺(せそんじ)流の第9代、従三位(じゅさんみ)(のち正しょう三位)藤原経朝が1267(文永4)年に奉納した、寺号「大興寺」を刻む「木造大興寺扁額」(県文化)がある。

 

▼木造金剛力士立像、木造大興寺扁額(web引用-水彩画風変換)

 

 

鐘楼の梵鐘は、元は1685(貞享2)年に原吉兵衛(きちべえ)が菅生神社(山本町辻)に寄進したものである。

 

▼鐘楼、梵鐘

 

原吉兵衛は、大辻東の鋳物師(いもじ)集落が形成され始めた頃の鋳物師集団の宗家である。

また刻まれた銘文から、この梵鐘が、原字右衛門(じえもん)の作と解るが、これ以外にも原字右衛門の銘のある作品として、大法寺(山本町辻)の鉄灯籠、菅生神社の大水鉢、善通寺(善通寺市)五重塔の水煙などが現存している。(探索したが、大法寺の鉄灯籠、菅生神社の大水鉢は既に現地から姿を消していた。)

 

▼大法寺

 

▼菅生神社-(現)拝殿、(旧)拝殿と大水鉢(web引用)

 

▼善通寺-五重塔、水煙

 

 

大辻の鋳物業は現在も受け継がれており、その内の1軒である原鋳造所には1850(嘉永3)・59(安政6)年の「勅許(ちょっきょ)状」が、もう1軒の金安鋳造には、1851(嘉永4)年の「掟書」が伝えられており、当時の鋳物師が朝廷から特別な待遇を受けると同時に、職業上の厳しい規制を受けていた事が解る。

 

▼大辻の鋳物業の位置図(web引用) 、原鋳造所

 

▼金安鋳造㈱

 

▼大興寺-境内、七日燈明

 

▼大興寺-三鈷松、水子地蔵

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

23.菅生神社 <撮影:2015.10.20 and 2019.05.30>

鎌倉時代前期の嘉永2年(1226年)の創建と伝えられる菅生(すがお)神社。3月には戦国時代の名残を残す古式ゆかしい「百々手祭り」が、10月には時代絵巻さながらの奴行列が繰り出す秋祭りなどが行われます。境内地のうち6,070坪(20,112㎡)の社叢は、国指定の天然記念物に指定されています。古い時代の植生を残しており、学術的にもきわめて貴重な樹林として保護されています。本殿の裏には石塔群が・・・・。    (三豊市HP)

 

<所在地・外観>

▼菅生神社-三豊市山本町辻1433

▼菅生神社-天然記念物に指定された貴重な自然林が残るかつての郷社

 

 

大興寺から国道377号線に戻って北東へ進み、直ぐの三谷交差点のY字路を左に進むと、400mほどで道の左側に「菅生神社社叢」(国天然)が見えてくる。

 

<概 要><歴史遺産>

▼菅生神社へ向かう-1

 

▼菅生神社へ向かう-2

 

▼菅生神社が見えて来た、菅生神社に着いた

 

 

菅生神社は、讃岐国山本郷7カ村の鎮守として、氏子の信仰と生活の中心を成していた。

1.8haの社叢は、長い間、神域として保護された事も有って、古い時代の植生、原始林相を残している。植物の種類も木本・竹本類、シダ・コケ類など36科104類が確認されており、ミミガバイ・ツブラジイ・モッコク・カクレミノなど珍しい種類が多く、特にカンザブロウノキは、県内唯一の生育地となっている。

 

▼菅生神社-鳥居、参道1

 

▼菅生神社-参道2、社殿

 

▼菅生神社-拝殿、本殿

 

▼菅生神社-本殿裏の石塔群

 

▼菅生神社-天然記念物の案内板、天然記念物の社叢1

▼天然記念物の社叢-2

 

▼天然記念物の社叢-3

 

 

<関連遺産>

菅生神社から国道377号線に戻り東へ約2km行き、三豊警察署・長瀬駐在所の横の信号交差点を右折して300m進むと「木造帝釈天立像」(県文化)のある宗運寺(真言宗)がある。

昭和44年(1969年)、に指定された木造帝釈天立像は、11世紀頃の藤原時代に製作されたと推定されているが、和風の親しみのある面相を持ち、香川県にある天部像の中では最も優れた仏像と云われている。

 

▼宗蓮寺-山門、境内

 

▼宗蓮寺-十三重の塔、木造帝釈天立像(Web引用-水彩画風変換)

 

木造帝釈天立像は桧の一本造りで造高109.7cm、腹前の衣文は太い襞の間に二条の細い襞が有り珍しい。県下の天部形の中で異色像と云われる。

当寺では本尊・聖観世音菩薩が帝釈天に化身した姿と伝えられ信仰を集めている。

 

 

 

また、菅生神社の西約500mの所には本県では数少ない中広形銅矛(どうほこ)(豊浜町国祐寺蔵)の出土地である「辻西(つじにし)遺跡」がある。

 

▼辻西遺跡の位置図、辻西遺跡-中広形銅矛(Web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

北の遊歩道から宮池の水上展望台のパノラマ景。

水上展望台から見る宮池の南方向パノラマ景。

宮池の東側の遊歩道から見る水上展望台。

南の遊歩道から宮池のパーゴラのパノラマ景。

パーゴラから見る宮池の北方向パノラマ景。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-080  Orignal掲載日:Vol.119 (2012.05.30)

「してよかった」と考える…。

 

世の中には、大きく分けて四種類の人間がいる。

出来ない理由を考えて行動を起こそうとしない「それは無理だ」と考えるタイプ。

こうすればよかったと悔やむばかりで、行動を起こさない「すればよかった」と考えるタイプ。

機会があればやってみようと考えるが、結局なにもしない「そのうちする」と考えるタイプ。

すべきことをし、次から次へと業績を上げる「してよかった」と考えるタイプ。

 

物事を成し遂げる人は、積極的に行動をする。すぐに課題に取り掛かり、それが出来る事を証明する。成功する人は、自分の持っている能力や才能、技能、知性を最大限に発揮する。
彼らは成功とは一夜にして手に入るものではなく、目標に向かって着実に前進し、さらに努力する事によって手に入るものだと理解している。

 

あなたの目標達成を阻んでいるのは何か? それは怠慢の場合もあれば、失敗への恐怖の場合もある。しかし、ほとんどの場合は、業績を上げるうえで障害になっているのは、言い訳をする癖なのだ。あなたは、障害を乗り越える能力を持っている。今日から課題に取り掛かって、それを最後までやり遂げよう。

 

最高の自分になるように努力しよう。あなたは「してよかった」と満足するはずだ。

 

 

<高くがる空間>

奥の池取水施設(西春日町)の上空。

奥の池調整池(西春日町)の上空。

鶴尾神社(西春日町)の上空。

鶴尾神社御旅所(西春日町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースの山間に群生するヤマハギ

 

 

 

 

◇ウォーキングコースの道端・空地に咲き誇るヒメジョオン

 

◇ウォーキングコースの畑に咲くジャガイモの花

 

◇我家に咲くクレマチス

 

◇宮池親水公園に咲くシロツメクサ

 

◇ウォーキングコースのYo宅に咲くアジサイママン

 

 

 

Akijii気ままniフォトsketch<鰹宇神社・西尾天神社古墳・光清寺>

鰹宇(かつう)神社

この社は、大化年中(645~649)摂津の國守口に鎮座していたが、森口帯刀が夢に感じて十河の里に一社を建てた。

その後、南百メートルの所に霊地があるから、それに移せよと神のお告げが有ったので、今の地に移した。
鰹宇と称されるのは、はじめ神を奉じて此の地に来るとき、土佐の国から、朝廷に鰹魚を奉って帰る船に便乗したので、鰹宇と称された。(境内由緒書き)

西尾天神社古墳

西尾天神社があり、ここは学問の神様といわれる菅原道真を祭ったもので、古墳の上に杜が建てられているようである。

西尾天神が祭られている高さ3m、直径15m余りの土盛りが古墳で円墳と推定されている。
北に延びた尾根中央にある古墳で、神社建築や三角点設置のため、一部破損を受けているものの全体として良好に残っている。墳丘上に散乱している石材は、石室に使用されていたものと思われ、そのことから、石室は既に破壊されている可能性が高い。出土遺物が明らかでないため、築造時期等の詳細は不明だが、墳丘の特色等から5世紀ごろの古墳と考えられる。高松最大規模の円墳として知られる川島本町高野に所在する高野丸山古墳とともに、高松市を代表する巨大な円墳として貴重である。

光清寺は、真宗興正派の寺院です。

 

▼所在地、鰹宇神社

高松市十川西町:〒761-0433

 

▼西尾天神社古墳、光清寺

 

▼西尾のいぼ石さん、吉田神社

 

 

▼十川西町に入り鰹宇神社へ進む、前方(北東)奥に前田山

▼右(東)奥に白山、前方に鰹宇神社が見えて来た

 

▼左側に鰹宇神社の御旅所、鰹宇神社へ進む-1

 

▼右(東北)にフジグラン十川-奥に前田山や東讃の山々、フジグラン十川のズーム景

 

▼鰹宇神社へ進む-2

 

▼鰹宇神社に着いた、鰹宇神社-1

 

▼鰹宇神社-2

 

▼鰹宇神社-3

 

▼鰹宇神社-4

 

▼鰹宇神社-5

 

▼鰹宇神社-6

 

▼鰹宇神社-7

 

▼鰹宇神社-8

 

▼鰹宇神社-9

 

▼鰹宇神社-10

 

▼鰹宇神社-11

 

▼鰹宇神社-12

 

▼鰹宇神社-13、鰹宇神社を後にして西尾天神社古墳へ向かう(約0.5km)

 

(Vol.968-2/に続く)

 

 

<akijii展-(525)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-02

今報は「猫」で、所要時間は120Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.968-2/4をご覧ください。

Vol.968-1/4に続けてご覧ください。

 

▼十川西町を西に進む、十川西町を西から西北方向に進む

 

▼十川西町を西北方向に進む-1、左(西南)奥に上佐山

 

▼十川西町を西北方向に進む-2(正面奥に石燈籠が見える)、こんぴら燈籠(おばけ燈籠)

 

▼十川西町を北方向に進む、次のT交点を左折

 

▼西尾天神社古墳へ進む-1、右の小径へ入る

 

▼西尾天神社古墳へ進む-2

 

 

▼西尾天神社古墳に着いた、西尾天神社古墳-1

 

▼西尾天神社古墳-2

 

▼西尾天神社古墳-3

 

▼西尾天神社古墳-4

 

▼西尾天神社古墳-5

 

▼西尾天神社古墳-6

 

 

▼西尾天神社古墳を後にして光清寺へ向かう(約0.5km)、T交点に戻る-1

 

▼T交点に戻る-2、T交点に戻った

 

▼十川西町を北方向へ進む-1

 

▼左(西)奥に西尾天神社古墳、十川西町を北方向へ進む-2

 

▼十川西町を北方向へ進む-3、前方左に光清寺の鐘楼が見えて来た

 

 

▼光清寺に着いた、光清寺-1

 

▼光清寺-2

 

▼光清寺-3

 

▼光清寺-4

 

▼光清寺-5

 

▼光清寺-6

 

 

▼光清寺を後にして吉田神社へ向かう(約0.5km)、十川西町を北方向へ進む-4

 

 

▼右側の「西尾のいぼ石さん」に寄る、西尾のいぼ石さん-1

 

▼西尾のいぼ石さん-2

 

 

▼十川西町を北方向へ進む-5

 

▼右奥中央に白山、十川西町を北方向へ進む-6

 

▼十川西町を北方向へ進む-7、右は高松十川郵便局

 

 

▼右奥に吉田神社の杜が見えて来た、吉田神社に着いた

 

▼吉田神社-1

▼吉田神社-2

 

▼吉田神社-3

 

 

▼吉田神社を後にして帰路のバス停「十河小学校前」へ向かう(約0.3km)、十川西町を北方向へ進む-8

 

▼吉田神社を振り返る、右側は十河小学校

▼右側の十河小学校-1

 

▼右側の十河小学校-2

 

▼県道12号線交点を左折、県道12号線の歩道橋

 

▼県道12号線を西方向に進む、バス停が見えて来た

 

▼バス停「十河小学校前」に着いた、帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.968-3/4をご覧ください。

Vol.968-2/4に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:13<本門寺>

21.本門寺 <撮影:2016.06.08 and 2018.04.17>

鎌倉時代の正中2年(1325)に地頭秋山泰忠が建立し、日仙上人を招いて開いた日蓮正宗の本山。

境内の開山堂は日仙上人を祀ったもので、元禄10年(1697)に建造され、ほぼ当時の姿を残しています。

現在の境内には、開山堂(町指定有形文化財)をはじめ県保存木の楠や本堂・精霊殿・西門などが立ち並び、歴史ある重厚な佇まいをみせています。毎年11月22日~25日の4日間、境内で開かれる大坊市は別名「くいもん市」とも言われ、江戸時代から続く初冬の風物詩として市民に親しまれています。   (三豊市HP)

 

<所在地・外観>

▼本門寺(ほんもんじ)-三豊市三野町下高瀬1916

▼本門寺-大坊市で賑わう宗吉瓦窯跡-近くには藤原京の瓦を焼いた窯跡

 

 

JRみの駅の西南約300mに、高瀬大坊の名で知られる「本門寺」(日蓮正宗)がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼本門寺-標柱、山門

 

▼本門寺-案内図、境内

 

▼本門寺-本堂、開山堂

 

▼本門寺-客殿、大坊

 

▼本門寺-鐘楼

 

▼本門寺-妙鍾庵、大楠

 

▼本門寺-西門入口、法善坊

 

▼本門寺-泉要坊、奥之坊

 

▼本門寺-西門、広布松

 

▼本門寺-山門、外壁

 

鎌倉時代の弘安年間(1278~88)に、甲斐国(現、山梨県)から讃岐に移住したと伝えられる武士秋山氏ゆかりの寺で、初めは那珂郡に法華堂(丸亀市田村町)を建立した。

1325(正中2)年に秋山泰忠(やすただ)が高瀬郷に御堂(現在の中之坊)を建立し、日蓮宗富士門流の祖で大石寺(たいせきじ)(静岡県富士宮市)開山の日興上人の弟子日仙上人を招き、寺は発展した。

日仙上人の墓は、中之坊にある。

 

11月22~25日は日蓮上人の御会式(おえしき)で、この期間には本門寺境内で大坊市が開かれる。

農機具・金物・瀬戸物・植木などの店が立ち並び、多くの人で賑わう。

 

▼大坊市-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼大坊市-2(web引用-水彩画風変換)

 

▼大坊市-3-島田新盛堂のドーナツ(揚げたて食べられるのはこの時だけ) (web引用-水彩画風変換)

 

▼大坊市-4(web引用-水彩画風変換)

 

▼大坊市-5-張子虎、御正当(web引用-水彩画風変換)

 

 

秋山泰忠およびその子孫の関係文書が残る「秋山家文書」(県文化)は、讃岐の中世史を知る上で、欠かす事の出来ない史料である。

 

▼秋山家文書-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼秋山家文書-2(web引用-水彩画風変換)

 

▼秋山家文書-3(web引用-水彩画風変換)

 

 

<関連遺産>

本門寺から西南方向2km程の老人福祉センターには、「西行上人歌碑」がある。

西行が1167(仁安2)年、四国行脚の折に、三野津(現、三野町吉津)に立ち寄った際に詠んだ「しきわたす月乃氷をうたかひてひびのてまはる味のむら島」という歌が刻まれている。

 

▼三野町公民館吉津分館(老人福祉センター)、西行上人歌碑

 

 

吉津には、「吉津夫婦獅子舞」(県民俗)が伝えられる。

獅子舞は、狛犬の舞としてわが国に伝来し、種々の変遷を経て、現在に受け継がれた。

毎年10月第1日曜日の秋祭りに、五穀豊穣を祈って奉納される。

雄雌獅子の2頭が、太鼓に合わせて戯れ睦み合いながら獅子の一生を共演すると云うものである。

 

▼吉津夫婦獅子舞-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼吉津夫婦獅子舞-2(web引用-水彩画風変換)

 

▼吉津夫婦獅子舞-3(web引用-水彩画風変換)

 

 

引き続き、Vol.968-4/4をご覧ください。