akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記 -26ページ目

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.974-2/3に続けてご覧ください

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:02<高松(玉藻)城跡>

02.高松(玉藻)城跡 <撮影:2011.07.14 and 2018.06.21>

国の指定史跡。「玉藻」の呼び名は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因んで、このあたりの海が「玉藻の浦」と呼ばれていたことによるといわれています。

玉藻公園は讃岐国領主・生駒家、高松藩主・松平家の居城だった高松城跡を整備した公園です。

瀬戸内海の海水をお堀に引き込んだ城は日本三大水城として知られ、園内には国の重要文化財に指定されている艮櫓、月見櫓、水手御門、渡櫓、披雲閣があるほか、国の名勝に指定されている披雲閣の庭園があります。春は桜見物、植木市、秋は菊花展など多彩な催しも開催されています。映画「シベリア超特急3」「春の雪」「椿三十郎」「ドリーム・ピッチャー」「めおん」のロケ地にもなりました。  (香川県観光協会HP)

 

<所在地・外観>

高松城跡-高松市玉藻町2-1

▼高松城跡-生駒氏・松平氏の城、海水で囲む水城

 

 

戦国時代までの高松は、箆原(のはら)(野原)荘(しょう)と呼ばれていたが、無量寿院随願寺(すいがんじ)の門前に、廻船が出入りする港町として開けていた事が、最近の寿町1丁目地区発掘調査における寺名入りの瓦の出土から明らか成って来ている。

 

<概 要><歴史遺産>

本格的な高松の発展は、「高松(玉藻)城」(国重文。高松城跡として国史跡)が築かれてからの事である。

 

▼高松城跡-鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)

▼高松城-艮櫓(旧太鼓櫓跡)、玉藻公園地図(web引用)

 

 

1587(天正15)年に、豊臣秀吉から讃岐1国17万6000石を与えられ、引田城(現、東かがわ市)に入った生駒親正(ちかまさ)が、翌年、この地に城を築き、屋島の南にあって、源平合戦以来有名であった高松郷の名に因んで高松城とした。直接海に面し、海水が堀の中に入ってくる水城(みずしろ)としたのは、黒田孝高(よしたか)・細川忠興(ただおき)の指導によると云われている。

水軍の城造りに倣ったとも考えられ、日本三大水城の1つである。

 

▼高松城(香川県-生駒 親正)-石碑、高松城縄張図(web引用)

 

▼今治城(愛媛県-藤堂 高虎)-今治城-1、今治城縄張図(web引用)

 

▼今治城(愛媛県-藤堂 高虎)-今治城-2

 

▼中津城(大分県-黒田 官兵衛)-中津城、中津城縄張図(web引用-水彩画風変換)

 

 

城跡の東に隣接して県民ホール(レグザムホール)が建てられた際、生駒時代のものと考えられる石垣が発見され、現在は県民ホールの地下に復元されている。

 

 

 

 

最近の天守台の発掘で、秀吉の朝鮮出兵(1592・97)以降、使用されたとされる生駒氏の家紋(波引車はびきぐるま)入りの瓦が発見され、築城は慶長年間(1596~1615)に及んだと考えられるようになった。無量寿院随願寺は、築城のとき西の丸に位置したため、移転される事に成り、最終的に現在地の御坊町に移った。

 

▼無量寿院随願寺(御坊町)

 

 

城下町が本格的に発展し始めたのは、1610(慶長15)年、生駒親正の孫正俊(まさとし)が3代藩主となって丸亀から高松に移った時、丸亀の商人を高松へ招いてからである。

こうして誕生した丸亀町は、今も高松の中心商店街として市民に親しまれている。

 

▼丸亀町商店街-高松丸亀町商店街MAP、ドーム広場

 

▼丸亀町商店街-ドーム、店舗

 

▼丸亀町商店街-新アーケード

 

▼丸亀町商店街-丸亀町グリーン

 

 

しかし1640(寛永17)年、生駒騒動が起こった為、4代藩主高俊(たかとし)は出羽(現、秋田県)矢島1万石に移され、その後に水戸徳川光圀の兄松平頼重(よりしげ)が、中・東讃12万石を治める初代高松藩主として入部した。以降、明治時代の版籍奉還まで、11代にわたって松平氏の居城となった。

 

現在、見る事の出来る城跡や建造物は、ほとんど松平氏によって整備されたものである。フェリー利用の車などが行き交う城の北側は、元は海なので、城は南を大手とし、かつては海水を引き入れた3重の堀を巡らしていた。現在あるのは、内堀と中堀の一部だけである。外堀は1900(明治33)年に埋め立てられた。

 

▼中堀、内堀

 

 

現在の兵庫町・片原町の北側に面する商店の並びは、外堀の跡地である。

 

▼兵庫町・片原町の北側に面する商店街の並び

 

 

現在の高松三越付近で、外堀に架かっていた常盤橋は移築され、栗林公園の入口の石橋として使われている。

 

▼栗林公園の入口の常盤橋

 

昔、城の石垣が直接海に面していた頃の面影を実感して貰うため、石垣の北側に海水を取り入れた散策路が造られている。

 

▼石垣の北側の散策路

 

かつて藩主が御座船に乗るために出入りしていた、いわば海への大手門にあたる「北之丸(きたのまる)水手御門(みずてごもん)・北之丸月見櫓(つきみやぐら)・北之丸渡(わたり)櫓」(いずれも高松城として国重文)を、城の外から見る事が出来る。城内(玉藻公園内)に入って、中から見る事も出来、渡櫓の約4分の1は生駒時代の古いものを残している。

 

▼水手御門・月見櫓・渡櫓(城外から)

 

▼月見櫓、水手御門(城内から)

 

城内南東隅(太鼓櫓跡)にある「旧東之丸艮(うしとら)櫓」(高松城として国重文)は、もと城の東北(うしとら)の隅に有ったものを現在地に移築したので、場所と向きが本来とは異なっている。

天守閣は1884(明治17)年に取り壊された。

 

▼旧東之丸艮櫓

 

 

城内には、藩政を執り行う藩主の住居として使われてきた、披雲閣(ひうんかく)という大規模な建物があった。今ある披雲閣は、1917(大正6)年に建て替えられたものである。

 

▼披雲閣、庭園

 

 

陳列館には、城の歴史や領内の地図などが展示されている。

 

▼陳列館-玉藻公園陳列館、ジオラマ

 

▼陳列館-古写真、保存整備基本計画図(web引用)

 

▼陳列館-艮櫓・右:今はない鹿櫓、昭和初年の天守閣の写真(web引用)

 

▼陳列館-高松候と水戸候との系属、御座船用船箪笥(web引用)

 

▼陳列館-天守閣の模型、高松城天守閣鯱(複製)(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

宮池の南側の遊歩道から見る北方向のパノラマ景。

梅雨の合間の好天に恵まれた宮池。

宮池の南側の遊歩道から見る南方向のパノラマ景。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-085  Orignal掲載日:Vol.128 (2012.07.15)

苦を我慢…。

昔は日本も貧しかったせいもあるが、子供が何かをせがんでも親がすぐ買い与えることはなかった。私たちの年代はその体験は嫌というほどした。

のどが渇いた、腹が空いたと、子供が訴えても、今の若い母親のようにすぐ缶ジュースを買い与えたり、ファーストフード店に連れて行ったりはしてくれなかった。

 

そういうとき昔の母親の言うせりふはただ一つ、「我慢おし」に決まっていた。

家に帰るまで、食事の時間まで我慢しなさい、の一言で子供は欲望を抑えさせられたのだった。

また、我慢は次のような使い方もされたと聞く。

 

戦前の日本では、12~14歳でもう働きに出るのだから、今から見たら実に過酷な社会だった。

その仕事はむろんいいものである訳がない。給料は恐ろしく安く、辛い労働条件で我慢しきれず逃げ出す者もいたが、その時の母親が子に言うのは「我慢おし。我慢すればそのうち必ず酬いられるから」であったという。

 

我慢とは辛く苦しい条件にいる者に対して発せられる言葉だったのである。辛さに耐えよ…と。

「若者はなぜ3年で辞めるのか?」という本に、「わがまま」「忍耐不足」という二語が、若者たちが企業から途中下車する理由を説明するキーワードになる、と記述されている。

誰だって苦より楽を求めぬ者はいないが、楽ばかりしていては自分を人間へと鍛える事ができない。

 

「苦あれば楽あり」というが、

この言葉は「苦がなければ楽はない」、「苦を我慢する」が人をつくるということなのだが…???

 

 

<高くがる空間>

新居新池から見る西(城山・大禿山・蓮光寺山)方向の上空。

琴電長尾線の花園第一踏切(観光通2丁目)の上空。

花園第一公園(多賀町)の上空。

多賀神社(多賀町)の鳥居の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースの山裾に咲くネムノキ(合歓木)

河原や山裾、人家の庭先などでよく見掛ける。

名前の由来は夕方や曇天など暗くなると葉をたたんで垂れ下がり「眠る」ことに由来する。

 

その名のとおり、暗くなると眠る就眠運動(一日の中で葉が開閉したり、上下に動いたりすることをいう)と花の美しさからよく詩歌の題材とされる。 

特に有名なのは芭蕉の「奥の細道」にある名句「象潟や雨に西施(せいし)がねむの花」である。

「西施」とは、中国古代四大美女の一人で、中国の越の国の貧しい家の娘であったが、美人の誉れ高く、越王は呉王のフサに献上した。フサは西施を愛し、ついには国を傾けるに至った話は有名である。芭蕉は、雨に煙る美しいネムの花と、当時の知識人に有名な絶世の美女西施を結び付けて詠った。

 

漢字は「歓びが合わさるのでめでたい木」という中国名「合歓」に由来し、その読みから「コウカ」とも呼ばれる。

花は枝先に10~20個の花が集まった頭状花序を総状につけ、淡い紅白色の花を夕方、開花させる。

花弁は長さ7~9mmで下部が合着し、短毛がある。 

 

◇ウォーキングコースの畑に咲く百日草ジニア

 

 

 

◇ウォーキングコースに咲くルリマツリ

 

◇ウォーキングコースの(黄褐色・光沢化した)小判草-2024.05.10(Vol.964)掲載

 

◇新居宮池の土手に咲くランタナ

 

 

 

Akijii気ままniフォトsketch<JR四高松運 

JR四国高松運転所

予讃線(高松-香西)間に位置する四国旅客鉄道(JR四国)の車輛基地で、列車乗務員(運停士)も所属している。

また、敷地内にはJR四国バス高松支店が併設されている。

日経新聞(2018年9月19日記事)

JR四国は車両基地として同社最大規模の高松運転所(高松市)を刷新する。60の建屋や設備が点在し、多くが耐用年数を上回って老朽化し、運用コストがかさんでいた。施設を集約し、設備も入れ替えて作業の効率性や安全性を高める。

また、研修センターも移設し、乗務員教育を充実させる狙いだ。

約5年間の総事業費は約40億円、2021年3月の完成を見込む。

 

香東川

「こうとうがわ」「ごうとうがわ」ともいう。香川県の代表的河川で、塩江町・香南町・香川町・高松市を貫流する。本流の延長33km、主な支流に内場川と小出川、西谷川などがある。上流の塩江町に1953年内場ダムが完成し、農業用ダムの貯水量においては満濃池に次ぐが、堤高50m・灌漑面積4725haは県下一である。これによって香東川の洪水は止まり、高松平野の日照りの害や高松市の水不足はほぼ解決された。近世以前、香東川は現香川町大野付近で二つに分流し洪水が続発していたのを、寛永(1624‐44)頃に土木事業家:西島八兵衛が、東の分流をせき止めて現流路に固定したといわれるが正確には解らない。

 

▼所在地、JR四国高松運転所

高松市西町:〒760-0003

 

▼JR四国研修センター(動力車操縦車養成所)、香東川と郷東大橋

 

▼香東川とJR予讃線香東架道橋、JR予讃線・瀬戸大橋線の下り/奥の上り架橋線

 

 

▼県道16号線を西に進む(次の交点を左折)、西町に入った-JR四国高松運転所へ向かう(約0.5km)

▼西町を南方向へ進む-1

 

▼西町を南方向へ進む-2

 

▼JR四国高松運転所が見えて来た、西町を南方向へ進む-3(次のT交点を右折)

 

▼西町を西方向に進む-1(左上がJR四国高松運転所)、西町を西方向に進む-2

 

▼西町を西方向に進む-3、左上にJR四国研修センター(動力車操縦車養成所)

 

 

▼一般道からJR四国高松運転所内に入る、JR四国高松運転所内スケッチ-1

 

▼JR四国高松運転所内スケッチ-2

 

▼JR四国高松運転所内スケッチ-3

 

▼JR四国高松運転所内スケッチ-4

 

▼JR四国高松運転所内スケッチ-5

 

▼JR四国高松運転所内スケッチ-6、JR四国高松運転所内から一般道に戻る

 

 

▼西町を西方向に進む-4

 

▼後方のJR四国研修センターを振り返る、西町を西方向に進む-5(正面の堤防に上がる)

 

 

▼堤防から見る香東川と郷東大橋、香東川と郷東町

 

▼堤防から見る香東川とJR予讃線香東架道橋、香東川の堤防から下りた(前方にJR四国研修センター)

 

▼香東川沿いの車道を南西方向に進む-1、JR予讃線・瀬戸大橋線の上り高架橋を潜る

 

 

▼香東川沿いの車道を南西方向に進む-2(左側にJR四国高松運転所)、西側から見るJR四国高松運転所-1

 

▼西側から見るJR四国高松運転所-2

 

▼西側から見るJR四国高松運転所-3

 

 

▼香東川沿いの車道を南西方向に進む-4(JR予讃線・瀬戸大橋線の下り高架橋を潜る-西宝町に入る)、後方のJR予讃線・瀬戸大橋線上下線の高架橋を振り返る

▼香東川沿いの車道を南西方向に進む-5(左の高台に上がる)、高台から見る手前の下り/奥の上り架橋線

 

▼香東川沿いの車道を南西方向に進む-6(右奥に郷東橋)、郷東橋(香東川)-県道33号線

 

▼JR予讃線・瀬戸大橋線の下り/上り架橋線、JR四国高松運転所の給水塔

 

▼郷東橋を潜る-1(歩行者用の横断路が無い)、郷東橋を潜る-2

 

▼郷東橋を潜る-3

 

▼後方にJR予讃線・瀬戸大橋線の下り/上り架橋線、郷東橋を潜る-4

 

▼郷東橋を潜る-5

 

▼郷東橋を潜る-6、郷東橋を潜った(香東川の水面が綺麗!!)

 

▼後方の郷東橋、元の地点に戻る-1

 

▼元の地点に戻る-2

 

▼元の地点に戻った、県道33号線交差点を左折

 

(Vol.973-2に続く)

 

 

<akijii展-(530)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-02

今報は「熱で、所要時間は260Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.973-2/3をご覧ください。

Vol.973-1/3に続けてご覧ください。

 

▼県道33号線を東方向に進む-1、次の交点を左折

 

▼琴平神社に寄る、琴平神社-1

 

▼琴平神社-2

 

▼琴平神社-3

 

▼琴平神社-4

 

▼琴平神社から見るJR四国高松運転所の給水塔、JR四国研修センター

 

▼県道33号線に戻る(正面奥にアナザースタイル)、県道33号線を東方向に進む-2

 

▼県道33号線を東方向に進む-3(次の交点を左折)、左奥の空地から見るJR四国研修センター

 

▼県道33号線を東方向に進む-4

 

▼左奥にJR四国高松運転所、県道33号線を東方向に進む-5

 

▼左にJR四国高松運転所-1、県道33号線を東方向に進む-6

 

▼左にJR四国高松運転所-2、県道33号線を東方向に進む-7(右に西方寺の参道・奥に花樹海)

 

▼左にJR四国高松運転所-3(パノラマ景)

▼左にJR四国高松運転所-4

 

▼左にJR四国高松運転所-5

 

▼県道33号線を東方向に進む-8、左にJR四国高松運転所-6

 

▼左にJR四国高松運転所-7

 

▼左にJR四国高松運転所-8

 

▼左にJR四国高松運転所-9

 

▼県道33号線を東方向に進む-9、左にJR四国高松運転所-10

 

▼左にJR四国高松運転所-11

 

▼県道33号線を東方向に進む-10、左にJR四国高松運転所と奥にダイヤパレス茜町インタースクエア

▼県道33号線を東方向に進む-11(バス停「西宝町一丁目」へ)、バス停「西宝町一丁目」に着いた

時間待ちが多いのでJR高松駅へ向かう(約2.7km)。

 

▼西宝町を東方向へ進む-1、左側の道へ入る

 

▼西宝町を東方向へ進む-2、水門が見えて来た:扇町に入る

 

▼扇町の水門、高橋(擂鉢谷川)を渡り左折

▼高橋(擂鉢谷川)の上流方向、下流(JR四国高松運転所)方向

 

▼JR四国高松運転所の東端へ進む、JRの踏切から見る高松駅方向

 

 

Webを引用して上り列車の運転席から(北側)見るJR四国高松運転所をスケッチします。

JR予讃線香東架道橋をスタートして、当踏切までの期間です。

▼西方寺から見るJR四国高松運転所

運転席から見るJR四国高松運転所-1

 

▼運転席から見るJR四国高松運転所-2

 

▼運転席から見るJR四国高松運転所-3

 

▼運転席から見るJR四国高松運転所-4

▼運転席から見るJR四国高松運転所-5

 

▼運転席から見るJR四国高松運転所-6

 

▼運転席から見るJR四国高松運転所-7

 

▼運転席から見るJR四国高松運転所-8

 

▼運転席から見るJR四国高松運転所-9

 

当踏切までです。

 

▼JRの踏切から見るJR四国高松運転所方向、JR四国高松運転所のズーム景

 

▼JRの踏切から見る擂鉢谷川と扇町の水門、扇町を東方向に進みJR高徳線の踏切に向かう(約0.3km)

 

▼JR高徳線の扇町の踏切に着いた、JR高徳線の扇町の踏切の右(徳島)方向

 

▼JR高徳線の扇町の踏切の左(高松)方向、扇町を東方向に進み大学通りの交差点へ向かう(約0.6km)

 

▼大学通り交差点が見えて来た、大学通り交差点に着いた(錦町に入った)

 

▼錦町を東方向に進み県道173号線交差点へ向かう(約0.6km)、県道173号線交差点が見えて来た(交差点を左折)

 

▼県道173号線(錦町)を北へ進み瀬戸大橋通りの交差点へ向かう(約0.3km)、瀬戸大橋通りの交差点に着いた

 

▼JR高松駅へ向かう(約0.4km)、高松シンボルタワーが見えて来た

 

▼JR高松駅へ進む、JR高松駅に着き帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.973-3/3をご覧ください。

Vol.973-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:01<サンポ(高松港頭地)

01.サンポート(高松港頭地区) <撮影:2016.04.14 and 2018.06.21>

「サンポート高松」エリアは、海陸交通のターミナルから、ホテル、公園、ホールなどが建ち並び、香川観光のスタート地にふさわしいエリアです。ここにある四国最大の高層タワー「高松シンボルタワー」は、国際会議場などの公共施設と民間の商業施設が共存し、和洋中といった「天空のレストラン」や、個性的なラーメン店が集結した「ラーメンポート」など、グルメスポットが自慢です。映画「シベリア超特急3」「ドリーム・ピッチャー」「めおん」「猫と電車」のロケ地にもなりました。         (香川県環境協会HP)

年間では、県立アリーナなどの新たな施設整備が進むサンポート高松地区のより一層のにぎわいを創出するため、人が安全で快適に歩ける都市空間づくり(プロムナード化)の検討を進めています。

(令和6年6月香川県)

 

当ブログで、2024年7~8月の予定で県立アリーナを中心に新たなサンポート高松地区の紹介をします。

(akijiiより)

 

<所在地・外観>

サンポート(高松港頭地区)-高松市浜ノ町

▼サンポート(高松港頭地区)-瀬戸の海のターミナル--香川県の顔

 

 

JR高松駅の改札を抜けて真っ直ぐに進み、駅ビルを出ると、左側(北)前方に「サンポートホール高松」やシンボルタワーが見える。道1つ北へ渡ると「サンポート(高松港頭地区)」である。

 

▼JR高松駅ビル、駅前広場

 

▼高松港頭地区-1

 

▼高松港頭地区-2

 

 

<概 要><歴史遺産>

かつて、宇高連絡船が着く四国の入口として栄えた高松港、今はシンボルタワーを中心に、装いもあらたに港町高松の存在感を示している。

 

▼高松港-赤燈台から、フェリーから

▼高松港-船乗り桟橋から、せとしるべと港-フェリーから

 

▼高松港-高松コリドー

 

▼高松港-ハーバープロムナード、 2万トン岸壁に停泊中の青雲丸

 

▼高松港-上空から(web引用-水彩画風変換)、屋島山頂から

 

▼高松港-サンポートホール高松8階上広場から

 

▼せとシ―パレット-1

 

▼せとシ―パレット-2

 

 

▼シンボルタワー-1

 

▼シンボルタワー-2

 

▼シンボルタワーの8階からの眺望

 

 

シンボルタワーの30階に上がると、遠く岡山の山並みも見え、多島海の瀬戸内海における高松の立地条件がよく解る。

 

▼シンボルタワーの30階からの眺望

 

 

サンポートホールの東に続く高松港旅客ターミナルビルの場所は、もと宇高連絡船の発着地であり、中に入ると当時の位置に鉄道のレールが敷かれている。

 

▼高松港旅客ターミナルビルの外観

 

▼高松港旅客ターミナルビルの標示板

 

▼宇高連絡船当時の位置に鉄道レールモニュメント-1

 

▼宇高連絡船当時の位置に鉄道レールモニュメント-2

 

 

3階には宇高連絡船記念展示場があり、連絡船に関する資料や復元模型などが展示されている。

下記は、高松港旅客ターミナルビル3階に設営されていた当時の内容の一部である。

 

▼宇高連絡船記念-讃岐丸(web引用-水彩画風変換)

 

▼宇高連絡船記念-伊予丸、コンテナの積込み(web引用-水彩画風変換)

 

▼宇高連絡船記念-讃岐丸の錨、連絡船うどん(2021年11月閉店)

 

▼宇高連絡船記念-眉山丸の木製ステアリングホイール、土佐丸の鐘(連絡船うどん店内)

 

▼宇高連絡船記念展示-案内カウンター、展示パネル

 

▼宇高連絡船記念展示-模型、伊予丸客室案内図

 

▼宇高連絡船記念展示- 讃岐丸救命具、紫雲丸の船体の一部

 

 

現在は高松港旅客ターミナルビル1階ロビーに規模縮小(半減)して移転した後、再度の大幅な規模縮小をして「かがわプラザ」に移設しているが、見る影もないと感じる規模である。

 

▼シンボルタワータワー棟3階「かがわプラザ」、宇高連絡船記念展示-1

 

▼宇高連絡船記念展示-2

 

▼宇高連絡船記念展示-3

 

 

JR高松駅改札口近くの「連絡船うどん店」(2021年11月閉店)に下記を現物展示していた。

 

▼高松駅構内の「連絡船うどん」、連絡船「土佐丸・阿波丸・讃岐丸・伊予丸」の看板写真

 

▼店頭に展示している「眉山丸の舵輪」、店内掲示の「救命浮環(ふかん)

 

 

駅前広場には海水の池が造られているが、この場所は江戸時代前半の石垣が見つかった所で、当時の高松城中堀と海との接点であったと考えられる。

 

▼駅前広場には海水の池-1

 

 

JR高松駅周辺の整備に伴って発掘調査が行われ、駅近くの線路沿い(浜ノ町遺跡)から鎌倉時代の港の跡が見つかった。この事から、単なる漁村では無く、出船・入船で賑わった中世の高松港の姿が明らかに成ってきた。

 

▼高松港発祥の地-東浜港

 

▼浜ノ町遺跡の調査-区調査状況、輪状植物製品出土状況-北東から(web引用-水彩画風変換)

 

▼浜ノ町遺跡の調査-輪状植物製品出土状況-南東から、輪状植物製品出土状況-南から

(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

爽やかな青空を映す宮池の水面-1。

夕刻の陽光を受ける宮池の水上展望台と桜の葉の間から射し込む太陽の光。

爽やかな青空を映す宮池の水面-2。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-084  Orignal掲載日:Vol.126 (2012.07.05)

貰う(もらう)。

日常の言葉づかいに首をかしげることがありはしないか。その一つに「もらう」がある。

行ってもらう、来てもらう、嫁にもらう、病院でクスリをもらう、給料をもらう、年金をもらう、年金がもらえない。いずれも自分の意思なり希望なりを前提にして言えば、「行かせる」「来させる」「嫁を取る」であり、病院でクスリを「受け取る」であり、給与や年金は権利として受け取るもので、それ以上でも以下でもないのだ。処方箋によって用意されたクスリに対して、きちんと代価を支払っているのに、別に頭を下げていただくものではないだろうが、クスリを「もらう」には、「病院の先生」といったエライ人にペコペコしてきた卑屈な伝統が残っているのではないだろうか。

 

権利は主張して、はじめて権利となる。一人の国民として、組織人として「義務と責任」を果たす事に傾注してきたが、権利について考え直さないといけないと思う。組織を効果的に運営していく上に「三面等価の原則(責任・権限・義務の3つは等価の関係)」があるが、この等価の考え方と言動が必要と思うのである。

 

国民&組織人の「責任と義務」を完遂させて、「もらう」という思考にキリをつけようではないか。

そして、強く権利を主張する事は、義務と責任を連続させる事に繋げようではないか。

まさか、小生のブログにお付き合いをしてくれている諸君は、今のどっちもつかずの方が楽だとは言わないでしょうね。

因みに国語辞書には「おもらい」は「乞食(こじき)」とある。

 

 

 <高く広がる空間> 

ウォーキングコースから見るだんご山3兄弟など山々の上空。

アルファステイツ栗林駅南(楠上町)の上空。

ダイヤパレス楠上とアルファステイツ栗林(楠上町)の上空。

フジ楠上店(楠上町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースのⅠ宅と近所のA宅のノウゼンカズラ(凌霄花)

暑い盛りに、ひときわ目を引く濃いオレンジ色の花を咲かせる。古くから庭木として親しまれてきた、つる植物で、気根を出して木や壁などを這い登り、夏の間じゅう、花を咲かせる。

 

中国原産で、平安時代の本草書『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年)に「乃宇世宇(のうせう)」の名が見られるほど、古くに渡来したといわれている。

また、石川県金沢市の玉泉園には、豊臣秀吉が朝鮮出兵の折に持ち帰ったとされる樹齢400年になるノウゼンカズラの古木がある。

 

古来より寺社などで栽培され、近年は庭園樹として重要な位置を占めている。栽培は容易で、濃紅、黄などの花色の品種が流通している。

 

◇ウォーキングコースの山間のアカメガシワ

 

◇ウォーキングコースの山間の道端に咲くアザミヒメジョオン

 

 

◇ウォーキングコースの脇に咲くカンナ

 

◇ウォーキングコースの脇のS宅のチロリアンランプ

 

◇ウォーキングコースの畑に咲くワルナスビ(悪茄子)

 

 

 

Akijii気ままniフォトsketch<あかね高松春ゴルフセンター・ダイヤパレス茜町  

あかね温泉

出張や旅行で高松に来たけど、ゆったりリフレッシュできるお風呂に入りたい!マッサージで疲れを取りたい!

家のお風呂もいいけど、たまには家族で広いお風呂につかりたい! そんな時には『あかね温泉』。

ジェットバスや薬用露天風呂などたくさんのお風呂が楽しめる!さらに入泉料にプラスすれば、ちょっとリッチにスーパージェットバスや塩サウナなどが利用可能です! また、入浴料が含まれたお得な料金で受けられる人気のマッサージ(オイル・タイ古式マッサージ)もおすすめです。ぜひお試し下さい!

お得な銭湯手ぶらセットや手ぶらサウナコースもご用意しておりますので、タオルやシャンプーが無くてもOK。

お気軽に利用できる、あかね温泉で湯あそびしながら健康づくりをしませんか? (あかね温泉HP)

 

高松青春ゴルフセンター

ゴルフがもっと上手くなりたい方や集中して練習したい方。ドライバーが曲がったり、飛距離が伸びない方、アプローチが苦手等の悩みがある方に専属コーチやプロによるレッスンプログラムをご用意しております。(高松青春ゴルフセンターHP)

 

ダイアパレス茜町インタースクエア(壱〜参番館)

香川県高松市茜町に位置する分譲マンションで、総戸数227戸で15階建ての大規模マンションです。最寄駅はJR高徳線の昭和町駅で徒歩14分、近隣の生活環境も良好です。香西駅から徒歩25分、高松駅から徒歩29分と複数の駅も利用できます。また、1990年築ですので新耐震基準で建てられているマンションです。

 

▼所在地、スーパー銭湯「あかね温泉」

高松市茜町:〒760-0002

 

▼高松青春ゴルフセンター、ダイヤパレス茜町インタースクエア

 

 

▼バス停「新北町」で降車、スーパー銭湯「あかね温泉」へ向かう(約0.3km)

 

▼新北町南公園を通り抜ける-1

 

▼新北町南公園を通り抜ける-2、次の交点を左折

 

▼新北町を南へ進む

 

▼あかね温泉を着いた、あかね温泉の駐車場側(➡IN)

▼あかね温泉の西側へ廻る-1、左に香川県生コン会館

 

▼あかね温泉の西側へ廻る-2、左側に「ベルビー」

 

 

▼左にあかね温泉の温泉タンク

 

▼あかね温泉の西側に着いた(正面南に高松青春ゴルフセンター)、あかね温泉の玄関へ進む

 

▼スーパー銭湯「あかね温泉」の全景

 

▼スーパー銭湯「あかね温泉」の正(南)面

 

▼スーパー銭湯「あかね温泉」の駐車場、隣の高松青春ゴルフセンター-1

 

▼隣の高松青春ゴルフセンター-2

 

 

▼あかね温泉を後にして高松青春ゴルフセンターへ向かう(約0.3Km)、新北町を西に進み香東川堤防のT交点を左折

 

▼香東川の西岸を南方向に進む

 

▼香東川の上流方向(奥に郷東大橋)、香東川の河口方向(対岸に高松市食肉センター)

 

 

▼前方に高松青春ゴルフセンターが見えて来た、北西端に着いた

 

▼北から見る高松青春ゴルフセンターのフィールド

 

▼高松青春ゴルフセンターの西側を南に進む-1

 

▼西側から見る高松青春ゴルフセンターのフィールド-1、高松青春ゴルフセンターの西側を南に進む-2

 

▼西側から見る高松青春ゴルフセンターのフィールド-2、北側から見るロビー・フロント

 

▼高松青春ゴルフセンターの玄関入口に着いた、玄関入口

 

▼高松青春ゴルフセンターの南側へ進む、南側を東に進む-1

 

▼南から見る高松青春ゴルフセンターのフィールド-1

 

▼高松青春ゴルフセンターの南側を東に進む-2、高松青春ゴルフセンターの南から見るあかね温泉

 

▼南から見る高松青春ゴルフセンターのフィールド-2

 

▼高松青春ゴルフセンターの南側を東に進む-3(右側にダイヤパレス茜町インタースクエア)、右側のダイヤパレス茜町インタースクエア

 

▼高松青春ゴルフセンターの南側を東に進む-4、右(南)奥に石清尾山と花樹海

 

▼南から見る高松青春ゴルフセンターのフィールド-3(パノラマ景)

▼南から見る高松青春ゴルフセンターのフィールド-4、高松青春ゴルフセンターを後にしてダイヤパレス茜町インタースクエアの東門へ向かう(約0.3km)

 

 

▼茜町を東方向に進む-1、右奥にダイヤパレス茜町インタースクエア壱番館

 

▼茜町を東方向に進む-2、右奥にダイヤパレス茜町インタースクエア参・弐番館-1

 

▼茜町を東方向に進む-3、正面奥はアーバン茜

 

▼右奥にダイヤパレス茜町インタースクエア参・弐番館-2、右奥にダイヤパレス茜町インタースクエア弐・壱番館

 

▼右奥にダイヤパレス茜町インタースクエア参・弐・壱番館-1、ダイヤパレス茜町インタースクエアの東門へ進む-1

 

▼ダイヤパレス茜町インタースクエアの東門へ進む-2、右奥にダイヤパレス茜町インタースクエア参・弐・壱番館-2

 

▼ダイヤパレス茜町インタースクエアの東門に着いた、ダイヤパレス茜町インタースクエアの東門

▼ダイヤパレス茜町インタースクエア-1

 

▼ダイヤパレス茜町インタースクエア-2

 

 

▼県道16号線へ進む、県道16号線の交差点を渡る

 

▼県道16号線から見るダイヤパレス茜町インタースクエア-1、県道16号線を西に進む-1

 

▼県道16号線を西に進む-2、県道16号線から見るダイヤパレス茜町インタースクエア-2

 

▼県道16号線を西に進む-3(あかね温泉⇒北へ300m)、建物の間に高松青春ゴルフセンターのフェンスが見える

 

▼ダイヤパレス茜町インタースクエアを後にして西町へ進む、県道16号線を西に進む-4

 

(次報Vol.973に続く)

 

 

<akijii展-(529)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-02

今報は「豚」で、所要時間は345Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.972-2/3をご覧ください。

Vol.972-1/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:17<常・覚城院・賀茂神社

仁尾は、瀬戸内海に面し江戸時代には丸亀藩から酒・醤油醸造の特権を認められると共に、茶の輸送や砂糖の積み出しなどで栄えた。「千石船をみたけりゃ仁尾へ行け」と唄われ謳われ、多くの商家が軒を並べていた。その名残りは、仁尾町仁尾中津賀(なかつが)・境目(さかいめ)・中ノ丁(なかのちょう)の土蔵や木造民家に残っている。

 

▼仁尾町中の丁地区

 

▼仁尾町中津賀地区

 

▼仁尾町境目地区

 

 

<28.常徳寺 <撮影:2020.09.02>

南北朝時代末期の明徳2年(1391年)ころの創建といわれている常徳寺(じょうとくじ)。応永8年(1401年)には、本尊が安置されている円通殿が建立されました。円通殿は入母屋造り・本瓦葺きで、四国では数少ない中世の禅宗様式仏堂として国の重要文化財に指定されています。(三豊市HP)

 

<所在地・外観>

常徳寺-三豊市仁尾町仁尾丁931-1

▼常徳寺-四国では珍しい禅宗様(ぜんしゅうよう)の円通殿(えんつうでん)

 

 

JR詫間駅から三豊市コミバス(仁尾線)で20分弱行ったバス停「仁尾町文化会館」で降車し、直ぐ北にある普門院(ふもんいん)(真言宗)前には、「辻の札場」(県史跡)がある。江戸時代の触書(ふれがき)などを掲示した高札場(こうさつば)である。

第二次世界大戦後、しばらくの間、旧仁尾町の公示や告示を掲示していた事もある。

 

▼三豊市役所仁尾支所・仁尾町総合文化会館、普門院-1

 

▼普門院-2

 

▼辻の札場

 

辻の札場から北に80m行き、仁尾町境目交差点を渡って100m先を右折し、東へ約100m行くと「常徳寺」(臨済宗)がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼常徳寺-1

 

▼常徳寺-2

 

 

明徳年間(1390~94)の創建と云われ、四国では珍しい禅宗様の「円通殿」(国重文)がある。

 

▼常徳寺-円通殿(説明板)、円通殿-1

 

 

1401(応永8)年の建立で、間口3間・奥行3間の入母屋造の本瓦葺きで、花頭窓(かとうまど)、扉の桟唐戸(さんからど)など、禅宗様の様式をよく伝えている。

建物の内部は、床をはらず瓦敷きで、天井の中央部は鏡天井になっていて、堂内には須弥壇(しゅみだん)があり、上に厨子(ずし)が安置されている。

 

▼常徳寺(円通殿)-2

 

▼常徳寺(円通殿)-3、須弥壇と厨子

 

 

室町時代前期は、幕府の保護する臨済禅が、地方の土豪層にも受容されていった時期で、土豪層の寄進状が7通「常徳寺文書」に伝わっている。

寺宝の「絹本着色八相涅槃図」(県文化)は、朝鮮の高麗王朝末期のものである。

 

▼常徳寺(絹本著色八相涅槃図所蔵)説明板、絹本著色八相涅槃図所蔵

 

▼絹本著色八相涅槃図-長崎最教寺蔵、広島耕三寺蔵(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

29.覚城院 <撮影:2020.09.02 and 2020.11.01>

弘仁十年(819)弘法大師により七宝山の麓に創建された古刹である。

本尊は千手観音立像で県指定文化財である。また、ここは天正7年3月3日に長曽我部元親の侵入を受け、落城した細川頼弘居城の仁尾城跡でもある。

境内には桃山時代初期の建築様式による建造物で国の重要文化財に指定さている鐘楼か有名で、この他毎年春に行われる「山寺市」や、みごとに咲き誇るツツジでも知られる。

讃岐三十三観音霊場・第十九番札所である。 (三豊市HP)

 

<所在地・外観>

▼覚城院(かくじょういん)-三豊市仁尾町仁尾丁845

▼覚城院-仁尾城跡の高台にある鐘楼は国指定重要文化財

 

 

常徳寺から仁尾町境目交差点に戻り、県道21号線を東方向に約170m行くと「覚城院」(真言宗)の上り口に着く。

 

<概 要><歴史遺産>

▼県道21号線、覚城院に着いた

 

 

覚城院に上がる石段の脇に「仁尾城跡」の石碑がある。

 

▼仁尾城跡の石碑、覚城院の石碑

 

 

この城は、儒学者中山城山(じょうざん)が1828(文政11)年に著した「全讃史」によると、細川頼弘が城主で有ったと云う。1578(天正6)年、土佐(現、高知県)の長宗我部軍が讃岐に侵攻し、翌年には九十九山城(現、観音寺市)を落とし、仁尾城を攻め、3月3日に仁尾城は落城したと云われる。

城主の細川頼弘はこの時、討死し金光寺(こんこうじ)に埋葬された。

 

それ以来、城主の命日でもある3月3日には雛まつりは行わず、八朔(はっさく)の日(旧暦8月1日)に男子の節句と一緒に女子の雛節句も祝うようになった。店舗や座敷に舞台を設け、石・砂・苔・草木などで箱庭風の山川渓谷を作り、人々に広く知られている歴史上の物語や、おとぎ話の名場面を再現するという全国的にも例を見ない独特な人形飾りが「仁尾八朔人形まつり」である。

 

▼仁尾八朔人形まつり-見物風景(web引用-水彩画風変換)

 

▼仁尾八朔人形まつり-展示場の風景、御殿飾り:雛人形(web引用-水彩画風変換)

 

▼仁尾八朔人形まつり-浦島太郎、曽我兄弟(富士の仇討ち)(web引用-水彩画風変換)

 

 

城主の細川頼弘が埋葬された常徳寺の南隣の金光寺。

 

▼金光寺-山門前、山門と寺標

 

▼金光寺-本堂と境内、細川頼弘の墓所

 

覚城院へ白壁沿いの石段を上り、山門を潜ると、本堂や「鐘楼」(国重文)がある。

 

▼覚城院-山門、参道1

▼覚城院-参道2、社務所の前

 

▼覚城院-階段横の由緒石標、最後の石階段

 

▼覚城院-本堂、木造千手観音立像と木造毘沙門天立像の説明板

 

▼覚城院-鐘楼(重要文化財)

 

 

鐘楼は、間口3間・奥行2間の入母屋造で、桃山時代の様式である上層に勾欄(こうらん)が巡らされ、下層には袴腰(はかまごし)が付けられている。蟇股(かえるまた)には、ボタンとキリの彫刻がある。

鐘楼は、仁尾の賀茂神社のものであったが、明治時代初期の神仏分離令により覚城院に移された。

 

▼覚城院-鐘楼:勾欄と袴腰、蟇股のボタンとキリの彫刻

 

▼覚城院-梵鐘(仁尾町指定有形文化財)

 

▼覚城院-境内1

 

▼覚城院-境内2

 

▼覚城院-大聖歓喜天堂、金毘羅大権現

 

▼覚城院-大聖歓喜天堂、歓喜堂

 

▼覚城院-大聖歓喜天堂から境内、境内と鐘楼

 

▼覚城院-軍人墓地

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.972-3/3をご覧ください。

Vol.972-2/3に続けてご覧ください。

 

30.賀茂神社 <撮影:2020.09.02 and ..>

応徳元年(1084年)に、京都・山城の賀茂大社の分霊を祀ったのが始まりとされる「賀茂(かも)神社」。

拝殿前にある大きな2つの自然石は注連石(しめいし)と呼ばれ、元は詫間の鴨の越の海中にあったものを、仁尾まで運んだと云われています。 (三豊市HP)

 

<所在地・外観>

賀茂神社-三豊市仁尾町仁尾丁1044

▼賀茂神社-京都加茂神社の御厨(みくりや)の1つ、「お船さん」がめぐる秋の大会

 

 

覚城院から県道21号線を西に戻り、仁尾町境目交差点の80m先の交差点を右折して、北へ240mほど行くと、「賀茂神社」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼賀茂神社-神社前、社号標

 

▼賀茂神社-境内

 

 

1084(応徳元)年、京都上賀茂神社を仁尾港沖合の蔦島に勧請(かんじょう)した事に始まり、1090(寛治4)年、堀河天皇が京都の賀茂神社に与えた御厨(みくりや)の1つに、蔦島の地があった。その後、南北朝時代には、仁尾の地に遷されていた。神殿前にある高さ7mの1対の注連石(しめいし)は、旧詫間町鴨の越(現、三豊市詫間町大浜)の入江にあった石で、漁船の通行の邪魔になるため、氏子らが引き上げたものと云われている。

 

▼賀茂神社-随神門、注連石

 

 

神社の所蔵する「賀茂神社文書」の中に、1415(応永22)年、讃岐守護細川満元が、仁尾浦に対する京都加茂神社の課役(かやく)を停止し、細川氏に対する海上諸役を務めるよう命じているものがある。この頃、仁尾は京都加茂神社の支配から離れ、細川氏の直轄領化したものと考えられる。

 

▼賀茂神社-拝殿、本殿

 

▼賀茂神社-井戸、本殿脇の透かし塀

 

▼賀茂神社-羽衣の松、狛犬

 

▼賀茂神社-人形芝居発祥地・叶座跡にある高灯籠

 

 

毎年10月第2日曜日の大祭の時に、神社の長床殿(ながとこでん)で行われる「長床神事」(県民俗)は、守護細川氏の使者を歓待した時の儀礼と言い伝えられ、京都の賀茂神社の御厨であった時代の遺風が伺える。

 

▼賀茂神社-長床神事を催す場所かな、長床神事の由緒(web引用-水彩画風変換)

 

▼賀茂神社-長床神事の見所、長床神事の昔の様子(web引用-水彩画風変換)

 

▼賀茂神社-長床神事の今の様子(web引用-水彩画風変換)

 

 

また、「賀茂神社文書」には、生活苦から幼いわが子を売り渡した文書、1441(嘉吉元)年、室町幕府重臣の赤松満祐(みつすけ)が、6代将軍足利義教(よしのり)を暗殺して興った嘉吉の変における、仁尾を含む讃岐の動向を伝える文書など、興味深いものが多くある。

「お船さん」と呼ばれる車の付いた船に神体を移し、氏子が船歌を歌いながら船を曳き、町中を巡る。

 

▼お船さん-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼お船さん-2(web引用-水彩画風変換)

 

 

<関連遺産>

賀茂神社から、海岸沿い(県道234号線)を北に2.5㎞ほど行くと、家の浦に出る。

ここには、「家浦(いえのうら)二頭獅子舞」(県民俗)が伝えられている。

太鼓打ちが中国風の衣装を身につける珍しいもので、300年ほど前に始められたと云われている。

 

▼家浦二頭獅子舞-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼家浦二頭獅子舞-2(web引用-水彩画風変換)

 

▼家浦二頭獅子舞-3(web引用-水彩画風変換)

 

▼家浦二頭獅子舞-4(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

転落防止柵越しに見る宮池5景。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-083  Orignal掲載日:Vol.125 (2012.06.30)

まず動く、始めてみて解かる事が…。

 

昔から「案ずるより産むが易し」と言われるが、あれこれためらっているより、やってみると案外上手くいくものだの格言である。ものの考え方の二つのタイプを言い表した中に「フランス人は走る前に考え、スペイン人は走ってから考える」というのがあるが、走る前でも、走った後でもなく「走りながら考える」が実際的であるように思うし、特に私たち年齢者には求められる考え方であろう。

 

フランスの哲学者ビュリダンの寓話に、ひどく空腹で、しかもとても喉の渇いたロバがいた。そのロバの目の前にエサと水を差し出したところ、空腹と喉の渇きのどちらを先に満たすか焦り、迷っているうちに、飢えと渇きで死んでしまったというのである。これは笑い事ではなく、何もしないうちに考え込み、あれこれ逡巡しているうちに、タイミングを失してしまう事は大いにあり得ることなのだ。

 

また、まず始めてみる事にことによって、始める前には解らなかった事が、色々と解かってくるという事があるのだ。計画倒れになってはいけない、慎重に色々調べてから、と言いながら、実は始める前には重要な事は何一つ解からないのだ。「始めてみて、初めて解かる事がある」という事なのだ。

始めてみたとたん、さまざまな問題が現実に目の前に出て来て、なるほどこんな事が必要なのかと、次々に新しい事に目覚めて行く。そして場合によっては、結果としてこれは無理だと言う事になっても、そこで得られたものは、後に大きく活きてくるだろう。それは、計画倒れを恐れるどころか、大いに計画倒れを楽しむ事になるだろう。

 

さぁ~、「まず動く」そして、「始めてみて、初めて解かる事がある」を悟る自分になろう。

 

 

<高くがる空間>

フローレンス花園公園グランドアーク(花園町)の上空。

花園公園(花園町)の上空。

花園社宅(花園町)の上空。

花園小学校(花園町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇我家の庭に咲くギボウシ(擬宝珠)

 

◇ウォーキングコースに咲いていたアリウムウスベニアオイ

 

 

 

◇町並巡りで出会ったカラ

◇ウォーキングコースのYo宅の畑に咲くザクロ

 

◇ウォーキングコースのFu宅の畑に咲くメド

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<瀬戸内海浜中央卸市場・瀬戸内緑  

瀬戸内海浜緑地(せとうちかいひんりょくち)は、高松市立の都市緑地公園で、面積は0.22ha、開設日は1986年(昭和61年)4月1日ある。

 

高松港8号防波提灯台は、灯質:単閃赤光 毎3秒に1閃光、灯高:11m、光達距離:5miles、構造:赤塔形、高さ:9mで初点は昭和45年11月である。

 

高松市中央卸売市場

<高松市中央卸売市場による説明>

瀬戸内海に面した海辺の市場、高松市中央卸売市場・高松市公設花き地方卸売市場には全国から四季折々の新鮮な魚介、青果、花が集まります。なかでも天然の生簀と言われるほど少量多品種で必ず旬の魚がいる瀬戸内海の地魚、温暖少雨な瀬戸内式気候で太陽の恵みをたっぷりうけたフレッシュな郷土野菜や香川オリジナル品種の青果、花を愛でる習慣が根付く高松ならではの切花が自慢です。一般公開されている「うみまち商店街」(関連商品売場棟・加工水産物棟)には瀬戸内海の地魚、香川の青果が楽しめる飲食店をはじめ果物たっぷりのスイーツやこだわりのコーヒー店、韓国惣菜のお店や昔ながらの理容室、問屋専門店など個性豊かなお店が集まっており、無料駐車場も約100区画あります。「瀬戸内海のおいしいとたのしいが集まる市場」を目指してつくっていくこれからの市場ブランドTakamatsu Sea & Sun Marketとしてコンテンツ開発、webサイト・SNSなどで情報発信も行なっています。

<高松市HP>

現在、高松市では、市場施設の老朽化に伴う市場の再整備を検討しています。

市市場青果棟の移転候補地として高松市朝日町三丁目用地を選定しました。

新水産物棟及び現市場エリアについては、PPP/PFIによる整備手法の導入を前提として、民間のノウハウやアイデアを取り入れながら、新たな水産物棟を中核に据え、市場や食、漁業、瀬戸内海などを生かした本市の観光・交流の拠点・入口として整備することを目指します。

 

瀬戸内緑地は、細長い三角形の敷地の緑地帯で、西側の端に「糸より濱の大漁」の笑顔が素敵な恵比寿像が堂々と鎮座しています。散歩の途中で一休みするには良いかも知れません。

 

▼所在地、瀬戸内海浜緑地

高松市瀬戸内町:〒760-0012

 

▼高松港8号防波堤灯台、高松市卸売市場青果棟

 

▼高松市卸売市場水産物棟、瀬戸内緑地

 

 

▼沙魚川橋(摺鉢谷川)を渡る

 

▼沙魚川橋(摺鉢谷川)の右(南-上流)方向、左(北-河口)方向

 

▼瀬戸内町に入った(次の交点を左折)、瀬戸内海浜緑地へ向かう(約0.3km)

 

▼摺鉢谷川沿いに北方向に進む-1、後方奥に石清尾山

 

▼摺鉢谷川沿いに北方向に進む-2(右にカーブ)、瀬戸内海浜緑地へ進む

 

 

▼瀬戸内海浜緑地に着いた、瀬戸内海浜緑地-1

 

▼瀬戸内海浜緑地-2

 

▼瀬戸内海浜緑地の防波堤から見る瀬戸内町のパノラマ景

▼瀬戸内海浜緑地の防波堤から見る女木島、女木島の白灯台のズーム景

 

▼瀬戸内海浜緑地の防波堤から見る屋島と高松シンボルタワー、屋島の長崎ノ鼻のズーム景

▼高松シンボルタワーのズーム景、瀬戸内海浜緑地-3

 

▼瀬戸内海浜緑地-4

 

▼瀬戸内海浜緑地-5

 

▼瀬戸内海浜緑地-6、瀬戸内海浜緑地の防波堤から見る高松港8号防波堤灯台-1

 

▼瀬戸内海浜緑地-7、瀬戸内海浜緑地の防波堤から見る高松港8号防波堤灯台-2

 

▼瀬戸内海浜緑地の防波堤から見る高松港8号防波堤灯台のパノラマ景

 

▼高松港8号防波堤灯台へ進む-1

 

▼高松港8号防波堤灯台へ進む-2、高松港8号防波堤灯台に着いた

 

▼高松港8号防波堤灯台

 

▼高松港8号防波堤灯台から見る屋島と高松シンボルタワー、屋島の長崎ノ鼻のズーム景

 

▼高松シンボルタワーのズーム景、高松漁港と奥に石清尾山

 

▼瀬戸内海浜緑地に戻る、西北方向に大崎の鼻と小槌島・大槌島と奥に岡山市

 

▼瀬戸内海浜緑地に戻った、瀬戸内海浜緑地の西方向

 

Vol.971-2/に続く

 

 

<akijii展-(528)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-02

今報は「ニワトリ」で、所要時間は180Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.971-2/4をご覧ください。

Vol.971-1/4に続けてご覧ください。

 

▼高松市中央卸売市場青果部へ向かう(約0.5km)、瀬戸内町を南方向に進む-1

 

▼左方向の高松漁港と奥に高松シンボルタワー、瀬戸内町を南方向に進む-2

 

▼次の交点を右折、瀬戸内町を西へ進む-1

 

▼瀬戸内町を西へ進む-2、次の交差点を左折

 

 

▼右奥に卸売市場青果棟が見えて来た、卸売市場青果棟の東側➡南側へ進む-1

 

▼左に「おさかなシャトルⅡ」、卸売市場青果棟の東側➡南側へ進む-2

 

▼卸売市場青果棟の東側➡南側へ進む-3

 

▼卸売市場青果棟の東側➡南側へ進む-4

 

▼卸売市場青果棟の東側➡南側へ進む-5

 

▼卸売市場青果棟の東側➡南側へ進む-6

 

▼卸売市場青果棟の東側➡南側へ進む-7

 

▼うみまち商店街-1

 

▼左(東)方向は高松漁港、うみまち商店街-2

 

▼正面に高松市卸売市場水産物棟、右(東)奥にアーバン茜とダイヤパレス茜町が見える

 

▼高松市卸売市場水産物棟-1

 

▼高松市卸売市場水産物棟-2

 

▼高松市卸売市場水産物棟-3

 

▼高松市卸売市場水産物棟-4

 

▼うみまち商店街の看板、瀬戸内緑地へ向かう(約0.8km)

 

▼左(北)方向に高松漁港、瀬戸内町を東方向に進む-1(左に縫いぐるみ人形)

 

▼縫いぐるみ人形、瀬戸内町を東方向に進む-2

 

▼左奥に高松港8号防波堤灯台と女木島が見える、高松港8号防波堤灯台と女木島のズーム景

 

▼瀬戸内町を東方向に進む-3

 

▼瀬戸内町を東方向に進む-4

 

 

▼正面にシーサイドボウル高松・左にイトーピア高松・奥に高松シンボルタワー、瀬戸内緑地に着いた

 

▼瀬戸内緑地-1

 

▼瀬戸内緑地-2

 

▼瀬戸内緑地-3

 

 

▼瀬戸内緑地を後にして帰路のJR高松駅へ向かう(約1.0km)、瀬戸大橋通りを東北に進む-1

 

▼瀬戸大橋通りを東北に進む-2

 

▼瀬戸大橋通りを東北に進む-3、浜ノ町へ入った

 

▼瀬戸大橋通りを東北に進む-4、浜ノ町を東方向に進む-1

 

▼浜ノ町を東方向に進む-2

 

▼浜ノ町を東方向に進む-3、右にJR四国本社ビル

 

▼左に香川医師会館、浜ノ町を東方向に進む-4

 

▼浜ノ町を東方向に進む-5、左奥に高松シンボルタワー

 

▼右にJR高松駅ビル「オルネ」と奥にJRクレメントホテル高松、JR高松駅へ進む

 

▼JR高松駅ビル「タカマツオルネ」の名称表示、JR高松駅に着き帰宅の途に就いた

 

引き続き、Vol.971-3/4をご覧ください。

Vol.971-2/4に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:16<紫雲出山遺跡・南草木遺跡と小蔦島貝塚

26.紫雲出山遺跡 <撮影:2012.05.22 and 2013.10.04>

三豊市の荘内半島に位置する紫雲出山(しうでやま)(標高352m)。山頂展望台からは、瀬戸内海の多島美が見渡せます。また、春には桜、初夏にはアジサイと四季折々の花が美しく山を彩ります。近年、Yahoo!JAPANの「日本が誇る桜の絶景15選」や「死ぬまでに行きたい!世界の絶景 日本編(詩歩著書)」に選ばれたことで注目を集めています。

紫雲出山は浦島伝説が息づく荘内半島に位置しています。浦島太郎が玉手箱を開け、出た白煙が紫色の雲になって山にたなびいたため、名付けられたといわれています。紫雲出山は、弥生時代の高地性集落遺跡で、山頂にはその出土品を展示する遺跡館があります。館内には、喫茶コーナーもあり、その窓からは瀬戸の島々が一望でき、時間が経つのを忘れさせてくれます。  (三豊市観光交流局HP)

 

<所在地・外観>

▼紫雲出山遺跡-三豊市詫間町大浜

▼紫雲出山遺跡-瀬戸内地方を代表する高地性集落

 

 

荘内半島には、浦島太郎の生家が有ったと伝えられる生里(なまり)など、浦島太郎にまつわる地名が残っている。

 

▼紫雲出山の全景

 

 

JR詫間駅前広場には、浦島太郎と5人の子どもたちの像があり、駅前から半島へ向かうと、高瀬川に架かる詫間大橋に浦島太郎の銅像がある。

 

▼JR詫間駅前広場の像、三豊市の案内板

 

▼詫間大橋(浦島太郎銅像)

 

 

<概 要><歴史遺産>

JR詫間駅から、三豊市コミバスで県道232号線を荘内半島中央部の大浜方面へ向かい、大浜バス停で乗り換え再び県道232号線を北西へ進み、バス停「箱」で降車して、そこから紫雲出山遺跡へ向かった。

 

▼三豊市コミバスの大浜バス停、箱バス停

 

▼コース案内板とakjjii、紫雲出山遺跡向かう-1

 

▼紫雲出山遺跡向かう-2、生里漁港の付近

 

▼新田の城跡、紫雲出山遺跡向かう-3

 

▼紫雲出山遺跡向かう-4

 

▼展望台から北西方向、粟島の方向

 

 

柴雲出山山頂一帯に「柴雲出山遺跡」がある。

「柴雲出山遺跡館」は、竪穴(たてあな)住居と高床(たてゆか)倉庫を復元したものである。

この遺跡は、1951(昭和26)年、前田雄三により発見され、1955年から3回にわたり京都大学の小林行雄や地元の人びとの手で発掘された。弥生時代中期の瀬戸内地方を代表する高地性集落(山頂・丘陵・山の尾根などにある弥生時代の集落)で有る事が解り、県指定の史跡となった。出土品は高松市の香川県歴史博物館・瀬戸内海歴史民俗資料館、三豊市詫間町民俗資料館・考古館に展示・保管されている。

 

▼紫雲出山遺跡館-1

 

▼紫雲出山遺跡館-2(模型展示)

 

▼紫雲出山遺跡館-3(遺跡あらまし) 、竪穴住居・高床倉庫の説明

 

▼紫雲出山遺跡館-4(高床倉庫)

 

▼紫雲出山遺跡館-5(竪穴住居-1)

 

▼紫雲出山遺跡館-6(竪穴住居-2) 、遺跡発掘の作業風景

 

 

<関連遺産>

紫雲出山遺跡から県道232号線を4km下り、紫雲出山出入口に出て南東に1.5kmほど行ったバス停「荘内大浜」の角を左折して、約1km進むと市立大浜小学校前に「船越八幡神社」がある。

かつては郷社で、旧荘内村(現、三豊市詫間町)の総産土社(うぶすなしゃ)であった。

 

▼県道登山口へ下る-1

 

▼燧灘と丸山島、県道登山口へ下る-2

 

▼県道登山口へ下る-3、県道登山口へ降りた

 

▼船越八幡神社へ-1、大浜漁港の付近

 

▼船越八幡神社へ-2、大浜バス停が見えて来た

 

▼大浜小学校、船越八幡神社

 

▼船越八幡神社-1(鳥居)、参道

 

▼船越八幡神社-2(随神門)、参道と拝殿

 

▼船越八幡神社-3(拝殿) 、社殿

 

▼船越八幡神社-4(太鼓橋) 、-5

 

▼船越八幡神社-6、境内

 

 

1455(康正元)年、丸部康家(まるべやすいえ)が奉納した懸仏(かけぼとけ)(円明院<仁尾町家の浦>所蔵)や「生里・大浜・粟島ももて祭」(県民俗)が有名である。

 

▼円明院-1

▼円明院-2、パコダ

 

▼百手祭-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼百手祭-2(web引用-水彩画風変換)

 

 

船越八幡神社の向かいの大浜小学校校庭の船越遺跡からは、縄文時代後期の中津式土器や石錘(せきすい)・土偶が出土し、これらは三豊市詫間町民俗資料館・考古館に展示されている。

また神社には、幕末から昭和時代初期にかけて製作された歌仙(かせん)絵馬・歴史絵馬・船絵馬・芝居絵馬など76面が奉納・保存され、これらは、神社境内にある絵馬堂に古文書などと共に展示されている。

 

▼船越八幡神社-絵馬堂

 

「三豊市詫間町民俗資料館・考古館」は、三豊市役所詫間支所の隣にある。

 

▼三豊市役所詫間支所、三豊市詫間町民俗資料館・考古館

 

 

民俗資料館の常設展示場には、詫間にゆかりの深い製塩・漁業・農業を中心にした生活用具が展示され、塩の町として知られた詫間の塩田の模型や道具により、塩作りの様子が説明されている。

また、竈(かまど)で炊いた米飯に臼(うす)でひいた黄な粉をまぶして食べたり、藁(わら)で縄を作ったりする、昔の生活を体験学習する事が出来る。

考古館には、紫雲出山遺跡や船越遺跡、縄文時代後期の蟻の首(ありのくび)遺跡の出土品が展示されている。

 

▼体験学習-「なわない機」を使って縄づくり体験、昔の道具でミニ農業体験(web引用-水彩画風変換)

 

▼体験学習-紫雲出山で古代の暮らしを体験、考古学入門講座(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.971-4/4をご覧ください。