Vol.974-2/3に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-県都編:02<高松(玉藻)城跡>
<02.高松(玉藻)城跡> <撮影:2011.07.14 and 2018.06.21>
国の指定史跡。「玉藻」の呼び名は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因んで、このあたりの海が「玉藻の浦」と呼ばれていたことによるといわれています。
玉藻公園は讃岐国領主・生駒家、高松藩主・松平家の居城だった高松城跡を整備した公園です。
瀬戸内海の海水をお堀に引き込んだ城は日本三大水城として知られ、園内には国の重要文化財に指定されている艮櫓、月見櫓、水手御門、渡櫓、披雲閣があるほか、国の名勝に指定されている披雲閣の庭園があります。春は桜見物、植木市、秋は菊花展など多彩な催しも開催されています。映画「シベリア超特急3」「春の雪」「椿三十郎」「ドリーム・ピッチャー」「めおん」のロケ地にもなりました。 (香川県観光協会HP)
<所在地・外観>
▼高松城跡-高松市玉藻町2-1
▼高松城跡-生駒氏・松平氏の城、海水で囲む水城
戦国時代までの高松は、箆原(のはら)(野原)荘(しょう)と呼ばれていたが、無量寿院随願寺(すいがんじ)の門前に、廻船が出入りする港町として開けていた事が、最近の寿町1丁目地区発掘調査における寺名入りの瓦の出土から明らか成って来ている。
<概 要><歴史遺産>
本格的な高松の発展は、「高松(玉藻)城」(国重文。高松城跡として国史跡)が築かれてからの事である。
▼高松城跡-鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)
▼高松城-艮櫓(旧太鼓櫓跡)、玉藻公園地図(web引用)
1587(天正15)年に、豊臣秀吉から讃岐1国17万6000石を与えられ、引田城(現、東かがわ市)に入った生駒親正(ちかまさ)が、翌年、この地に城を築き、屋島の南にあって、源平合戦以来有名であった高松郷の名に因んで高松城とした。直接海に面し、海水が堀の中に入ってくる水城(みずしろ)としたのは、黒田孝高(よしたか)・細川忠興(ただおき)の指導によると云われている。
水軍の城造りに倣ったとも考えられ、日本三大水城の1つである。
▼高松城(香川県-生駒 親正)-石碑、高松城縄張図(web引用)
▼今治城(愛媛県-藤堂 高虎)-今治城-1、今治城縄張図(web引用)
▼今治城(愛媛県-藤堂 高虎)-今治城-2
▼中津城(大分県-黒田 官兵衛)-中津城、中津城縄張図(web引用-水彩画風変換)
城跡の東に隣接して県民ホール(レグザムホール)が建てられた際、生駒時代のものと考えられる石垣が発見され、現在は県民ホールの地下に復元されている。
最近の天守台の発掘で、秀吉の朝鮮出兵(1592・97)以降、使用されたとされる生駒氏の家紋(波引車はびきぐるま)入りの瓦が発見され、築城は慶長年間(1596~1615)に及んだと考えられるようになった。無量寿院随願寺は、築城のとき西の丸に位置したため、移転される事に成り、最終的に現在地の御坊町に移った。
▼無量寿院随願寺(御坊町)
城下町が本格的に発展し始めたのは、1610(慶長15)年、生駒親正の孫正俊(まさとし)が3代藩主となって丸亀から高松に移った時、丸亀の商人を高松へ招いてからである。
こうして誕生した丸亀町は、今も高松の中心商店街として市民に親しまれている。
▼丸亀町商店街-高松丸亀町商店街MAP、ドーム広場
▼丸亀町商店街-ドーム、店舗
▼丸亀町商店街-新アーケード
▼丸亀町商店街-丸亀町グリーン
しかし1640(寛永17)年、生駒騒動が起こった為、4代藩主高俊(たかとし)は出羽(現、秋田県)矢島1万石に移され、その後に水戸徳川光圀の兄松平頼重(よりしげ)が、中・東讃12万石を治める初代高松藩主として入部した。以降、明治時代の版籍奉還まで、11代にわたって松平氏の居城となった。
現在、見る事の出来る城跡や建造物は、ほとんど松平氏によって整備されたものである。フェリー利用の車などが行き交う城の北側は、元は海なので、城は南を大手とし、かつては海水を引き入れた3重の堀を巡らしていた。現在あるのは、内堀と中堀の一部だけである。外堀は1900(明治33)年に埋め立てられた。
▼中堀、内堀
現在の兵庫町・片原町の北側に面する商店の並びは、外堀の跡地である。
▼兵庫町・片原町の北側に面する商店街の並び
現在の高松三越付近で、外堀に架かっていた常盤橋は移築され、栗林公園の入口の石橋として使われている。
▼栗林公園の入口の常盤橋
昔、城の石垣が直接海に面していた頃の面影を実感して貰うため、石垣の北側に海水を取り入れた散策路が造られている。
▼石垣の北側の散策路
かつて藩主が御座船に乗るために出入りしていた、いわば海への大手門にあたる「北之丸(きたのまる)水手御門(みずてごもん)・北之丸月見櫓(つきみやぐら)・北之丸渡(わたり)櫓」(いずれも高松城として国重文)を、城の外から見る事が出来る。城内(玉藻公園内)に入って、中から見る事も出来、渡櫓の約4分の1は生駒時代の古いものを残している。
▼水手御門・月見櫓・渡櫓(城外から)
▼月見櫓、水手御門(城内から)
城内南東隅(太鼓櫓跡)にある「旧東之丸艮(うしとら)櫓」(高松城として国重文)は、もと城の東北(うしとら)の隅に有ったものを現在地に移築したので、場所と向きが本来とは異なっている。
天守閣は1884(明治17)年に取り壊された。
▼旧東之丸艮櫓
城内には、藩政を執り行う藩主の住居として使われてきた、披雲閣(ひうんかく)という大規模な建物があった。今ある披雲閣は、1917(大正6)年に建て替えられたものである。
▼披雲閣、庭園
陳列館には、城の歴史や領内の地図などが展示されている。
▼陳列館-玉藻公園陳列館、ジオラマ
▼陳列館-古写真、保存整備基本計画図(web引用)
▼陳列館-艮櫓・右:今はない鹿櫓、昭和初年の天守閣の写真(web引用)
▼陳列館-高松候と水戸候との系属、御座船用船箪笥(web引用)
▼陳列館-天守閣の模型、高松城天守閣鯱(複製)(web引用-水彩画風変換)
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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