Vol.972-3/3 R巻頭-84。歴史(観て歩き)レポ-西讃編:17<常徳寺・覚城院-他1> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.972-2/3に続けてご覧ください。

 

30.賀茂神社 <撮影:2020.09.02 and ..>

応徳元年(1084年)に、京都・山城の賀茂大社の分霊を祀ったのが始まりとされる「賀茂(かも)神社」。

拝殿前にある大きな2つの自然石は注連石(しめいし)と呼ばれ、元は詫間の鴨の越の海中にあったものを、仁尾まで運んだと云われています。 (三豊市HP)

 

<所在地・外観>

賀茂神社-三豊市仁尾町仁尾丁1044

▼賀茂神社-京都加茂神社の御厨(みくりや)の1つ、「お船さん」がめぐる秋の大会

 

 

覚城院から県道21号線を西に戻り、仁尾町境目交差点の80m先の交差点を右折して、北へ240mほど行くと、「賀茂神社」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼賀茂神社-神社前、社号標

 

▼賀茂神社-境内

 

 

1084(応徳元)年、京都上賀茂神社を仁尾港沖合の蔦島に勧請(かんじょう)した事に始まり、1090(寛治4)年、堀河天皇が京都の賀茂神社に与えた御厨(みくりや)の1つに、蔦島の地があった。その後、南北朝時代には、仁尾の地に遷されていた。神殿前にある高さ7mの1対の注連石(しめいし)は、旧詫間町鴨の越(現、三豊市詫間町大浜)の入江にあった石で、漁船の通行の邪魔になるため、氏子らが引き上げたものと云われている。

 

▼賀茂神社-随神門、注連石

 

 

神社の所蔵する「賀茂神社文書」の中に、1415(応永22)年、讃岐守護細川満元が、仁尾浦に対する京都加茂神社の課役(かやく)を停止し、細川氏に対する海上諸役を務めるよう命じているものがある。この頃、仁尾は京都加茂神社の支配から離れ、細川氏の直轄領化したものと考えられる。

 

▼賀茂神社-拝殿、本殿

 

▼賀茂神社-井戸、本殿脇の透かし塀

 

▼賀茂神社-羽衣の松、狛犬

 

▼賀茂神社-人形芝居発祥地・叶座跡にある高灯籠

 

 

毎年10月第2日曜日の大祭の時に、神社の長床殿(ながとこでん)で行われる「長床神事」(県民俗)は、守護細川氏の使者を歓待した時の儀礼と言い伝えられ、京都の賀茂神社の御厨であった時代の遺風が伺える。

 

▼賀茂神社-長床神事を催す場所かな、長床神事の由緒(web引用-水彩画風変換)

 

▼賀茂神社-長床神事の見所、長床神事の昔の様子(web引用-水彩画風変換)

 

▼賀茂神社-長床神事の今の様子(web引用-水彩画風変換)

 

 

また、「賀茂神社文書」には、生活苦から幼いわが子を売り渡した文書、1441(嘉吉元)年、室町幕府重臣の赤松満祐(みつすけ)が、6代将軍足利義教(よしのり)を暗殺して興った嘉吉の変における、仁尾を含む讃岐の動向を伝える文書など、興味深いものが多くある。

「お船さん」と呼ばれる車の付いた船に神体を移し、氏子が船歌を歌いながら船を曳き、町中を巡る。

 

▼お船さん-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼お船さん-2(web引用-水彩画風変換)

 

 

<関連遺産>

賀茂神社から、海岸沿い(県道234号線)を北に2.5㎞ほど行くと、家の浦に出る。

ここには、「家浦(いえのうら)二頭獅子舞」(県民俗)が伝えられている。

太鼓打ちが中国風の衣装を身につける珍しいもので、300年ほど前に始められたと云われている。

 

▼家浦二頭獅子舞-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼家浦二頭獅子舞-2(web引用-水彩画風変換)

 

▼家浦二頭獅子舞-3(web引用-水彩画風変換)

 

▼家浦二頭獅子舞-4(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀