Vol.972-2/3 R巻頭-84。歴史(観て歩き)レポ-西讃編:17<常徳寺・覚城院-他1> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.972-1/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:17<常・覚城院・賀茂神社

仁尾は、瀬戸内海に面し江戸時代には丸亀藩から酒・醤油醸造の特権を認められると共に、茶の輸送や砂糖の積み出しなどで栄えた。「千石船をみたけりゃ仁尾へ行け」と唄われ謳われ、多くの商家が軒を並べていた。その名残りは、仁尾町仁尾中津賀(なかつが)・境目(さかいめ)・中ノ丁(なかのちょう)の土蔵や木造民家に残っている。

 

▼仁尾町中の丁地区

 

▼仁尾町中津賀地区

 

▼仁尾町境目地区

 

 

<28.常徳寺 <撮影:2020.09.02>

南北朝時代末期の明徳2年(1391年)ころの創建といわれている常徳寺(じょうとくじ)。応永8年(1401年)には、本尊が安置されている円通殿が建立されました。円通殿は入母屋造り・本瓦葺きで、四国では数少ない中世の禅宗様式仏堂として国の重要文化財に指定されています。(三豊市HP)

 

<所在地・外観>

常徳寺-三豊市仁尾町仁尾丁931-1

▼常徳寺-四国では珍しい禅宗様(ぜんしゅうよう)の円通殿(えんつうでん)

 

 

JR詫間駅から三豊市コミバス(仁尾線)で20分弱行ったバス停「仁尾町文化会館」で降車し、直ぐ北にある普門院(ふもんいん)(真言宗)前には、「辻の札場」(県史跡)がある。江戸時代の触書(ふれがき)などを掲示した高札場(こうさつば)である。

第二次世界大戦後、しばらくの間、旧仁尾町の公示や告示を掲示していた事もある。

 

▼三豊市役所仁尾支所・仁尾町総合文化会館、普門院-1

 

▼普門院-2

 

▼辻の札場

 

辻の札場から北に80m行き、仁尾町境目交差点を渡って100m先を右折し、東へ約100m行くと「常徳寺」(臨済宗)がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼常徳寺-1

 

▼常徳寺-2

 

 

明徳年間(1390~94)の創建と云われ、四国では珍しい禅宗様の「円通殿」(国重文)がある。

 

▼常徳寺-円通殿(説明板)、円通殿-1

 

 

1401(応永8)年の建立で、間口3間・奥行3間の入母屋造の本瓦葺きで、花頭窓(かとうまど)、扉の桟唐戸(さんからど)など、禅宗様の様式をよく伝えている。

建物の内部は、床をはらず瓦敷きで、天井の中央部は鏡天井になっていて、堂内には須弥壇(しゅみだん)があり、上に厨子(ずし)が安置されている。

 

▼常徳寺(円通殿)-2

 

▼常徳寺(円通殿)-3、須弥壇と厨子

 

 

室町時代前期は、幕府の保護する臨済禅が、地方の土豪層にも受容されていった時期で、土豪層の寄進状が7通「常徳寺文書」に伝わっている。

寺宝の「絹本着色八相涅槃図」(県文化)は、朝鮮の高麗王朝末期のものである。

 

▼常徳寺(絹本著色八相涅槃図所蔵)説明板、絹本著色八相涅槃図所蔵

 

▼絹本著色八相涅槃図-長崎最教寺蔵、広島耕三寺蔵(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

29.覚城院 <撮影:2020.09.02 and 2020.11.01>

弘仁十年(819)弘法大師により七宝山の麓に創建された古刹である。

本尊は千手観音立像で県指定文化財である。また、ここは天正7年3月3日に長曽我部元親の侵入を受け、落城した細川頼弘居城の仁尾城跡でもある。

境内には桃山時代初期の建築様式による建造物で国の重要文化財に指定さている鐘楼か有名で、この他毎年春に行われる「山寺市」や、みごとに咲き誇るツツジでも知られる。

讃岐三十三観音霊場・第十九番札所である。 (三豊市HP)

 

<所在地・外観>

▼覚城院(かくじょういん)-三豊市仁尾町仁尾丁845

▼覚城院-仁尾城跡の高台にある鐘楼は国指定重要文化財

 

 

常徳寺から仁尾町境目交差点に戻り、県道21号線を東方向に約170m行くと「覚城院」(真言宗)の上り口に着く。

 

<概 要><歴史遺産>

▼県道21号線、覚城院に着いた

 

 

覚城院に上がる石段の脇に「仁尾城跡」の石碑がある。

 

▼仁尾城跡の石碑、覚城院の石碑

 

 

この城は、儒学者中山城山(じょうざん)が1828(文政11)年に著した「全讃史」によると、細川頼弘が城主で有ったと云う。1578(天正6)年、土佐(現、高知県)の長宗我部軍が讃岐に侵攻し、翌年には九十九山城(現、観音寺市)を落とし、仁尾城を攻め、3月3日に仁尾城は落城したと云われる。

城主の細川頼弘はこの時、討死し金光寺(こんこうじ)に埋葬された。

 

それ以来、城主の命日でもある3月3日には雛まつりは行わず、八朔(はっさく)の日(旧暦8月1日)に男子の節句と一緒に女子の雛節句も祝うようになった。店舗や座敷に舞台を設け、石・砂・苔・草木などで箱庭風の山川渓谷を作り、人々に広く知られている歴史上の物語や、おとぎ話の名場面を再現するという全国的にも例を見ない独特な人形飾りが「仁尾八朔人形まつり」である。

 

▼仁尾八朔人形まつり-見物風景(web引用-水彩画風変換)

 

▼仁尾八朔人形まつり-展示場の風景、御殿飾り:雛人形(web引用-水彩画風変換)

 

▼仁尾八朔人形まつり-浦島太郎、曽我兄弟(富士の仇討ち)(web引用-水彩画風変換)

 

 

城主の細川頼弘が埋葬された常徳寺の南隣の金光寺。

 

▼金光寺-山門前、山門と寺標

 

▼金光寺-本堂と境内、細川頼弘の墓所

 

覚城院へ白壁沿いの石段を上り、山門を潜ると、本堂や「鐘楼」(国重文)がある。

 

▼覚城院-山門、参道1

▼覚城院-参道2、社務所の前

 

▼覚城院-階段横の由緒石標、最後の石階段

 

▼覚城院-本堂、木造千手観音立像と木造毘沙門天立像の説明板

 

▼覚城院-鐘楼(重要文化財)

 

 

鐘楼は、間口3間・奥行2間の入母屋造で、桃山時代の様式である上層に勾欄(こうらん)が巡らされ、下層には袴腰(はかまごし)が付けられている。蟇股(かえるまた)には、ボタンとキリの彫刻がある。

鐘楼は、仁尾の賀茂神社のものであったが、明治時代初期の神仏分離令により覚城院に移された。

 

▼覚城院-鐘楼:勾欄と袴腰、蟇股のボタンとキリの彫刻

 

▼覚城院-梵鐘(仁尾町指定有形文化財)

 

▼覚城院-境内1

 

▼覚城院-境内2

 

▼覚城院-大聖歓喜天堂、金毘羅大権現

 

▼覚城院-大聖歓喜天堂、歓喜堂

 

▼覚城院-大聖歓喜天堂から境内、境内と鐘楼

 

▼覚城院-軍人墓地

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.972-3/3をご覧ください。