Vol.970-3/3 R巻頭-82。歴史(観て歩き)レポ-西讃編:15<本篠城・諶之丞翁胸像> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.970-2/3に続けてご覧ください。

 

25.大久保諶之丞翁胸像 <撮影:2013.11.06 and 2018.05.10>

●大久保諶之丞(じんのじょう)翁と洞爺村の開拓
大久保諶之丞翁は、嘉永2年(1849年)8月16日、265年間に亘る江戸幕府が、黒船の来航、倒幕運動の高まりにより、あと18年で崩壊する世情極めて不安定な時代に、香川県三野郡財田上ノ村奥谷に生まれ、その後、明治維新という日本の政治、経済、社会が激動する中にあって幅広く数多くの業績を残されました。

特に洞爺村の開拓に関わり深い北海道移住については、明治20年北海道移民周旋委員、さらに明治21年県議会議員となり北海道移民奨励会を設立、そして明治23年には移民推進のため北海道に渡り、現地調査と多くの移民者に激励を贈るなど、翁の北海道移住に寄せる情熱は計り知れないものがありました。

明治20年3月29日、三橋政之を団長とし、22戸76人が多度津港を出発、43日を費やし、期待と不安の思いをこめ原始の森「洞爺村」に第一歩を印しましたが、一鍬一鍬血の滲む開墾に精根を傾けた先人達は、冷害、早霜、虫害等、自然条件の厳しい洗礼を受け、開拓に挫折感を抱きました。そんな時、開拓の父、母とも仰ぐ郷里財田村の大久保諶之丞翁より寄せられる財政支援、助言等がどれほど励みになったでしょうか。しかし、なんと言う過酷な運命でしょう。県議会で討議中の翁は、突然倒れ、明治24年12月14日、志半ばで42歳の短い生涯を閉じたのです。粉雪の舞う、とても寒い日だったそうです。時は流れ、開村110年の大きな節目に姉妹町村財田町よりご寄贈頂いた翁像は、洞爺村開拓の縁とも言える老三樹に寄り添うように設置され、洞爺村の限りない発展を見守り続けているのです。

 

●未来を切り開く情熱と夢!! 100年の時を超えて語りかける諶之丞の詩

「笑わしゃんすな百年先は、財田の山から川舟出して、月の世界に往来(ゆきき)する」

吉野川導水を政府に働きかけた年(明治18年)に作った詩であるが、香川用水として89年後に通水(昭和49年5月30日)した。「塩飽ノ諸島ヲ橋台トナシ…架橋連絡セシメレバ常ニ風波ノ憂ヒナク…南来北行・東奔西走瞬時ヲ費サズ其ノ国利民福タル是レヨリ大ナルハ莫シ」

百年後の四国を運命づけた明治22年5月1日のこの言葉は、架橋に寄せる四国島民の永年の悲願を代表するメッセージとして広く知られている。瀬戸大橋は、架橋の提唱以来99年後の昭和63年4月10日、総工費1兆1,200億円、延べ労働者数840万人、9年半の時間を要して完成した。誰しも、人間技で出来るものではないと諦めた「夢」を、現実のものにしようと試みた。わずか42年の短い生涯。されど全力で時代をかけ抜けたその生き方に、敬意と喝采を送りたい。 洞爺村     (現地説明看板)

 

<所在地・外観>

▼大久保諶之丞翁胸像-三豊市財田町財田上戸川

▼大久保諶之丞翁胸像-100年以上前に、瀬戸大橋・香川用水などの構想を披瀝

 

 

鉾八幡神社から県道5号線を北東へ進み、三豊市財田支所前を通り過ぎ、更に東南方向に2.5㎞ほど行くと、国道32号線に合流する。この合流地点に「道の駅たからだの里さいた」がある。

道の駅にの南西に隣接する温泉施設環(たまき)の湯の入口に、「大久保諶之丞胸像」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼道の駅たからだの里さいた、温泉施設環の湯

 

▼胸像

 

 

大久保諶之丞は、1849(嘉永2)年、三野郡財田上ノ村(現、財田町財田上)に生まれた。

1888(明治21)年、愛媛県会議員となり、のち行政区画の変更に伴い、香川県会議員となって県政に携わった。青年の頃から道路の改修や橋梁架設などに尽力し、現在の国道32号線の前身である、全長280㎞におよぶ四国新道は、諶之丞の奔走に依って、1884(明治19)年に着工した。

 

▼四国新道構想の案内板

 

▼四国新道構想の案内板

 

 

新道建設の労苦は大変なものであったが、強い信念と忍耐をもって臨み、途中、多額の予算超過により、工事の継続が困難になった際は、自ら新道工事請負人となり、私財を投じて1890年、四国新道のうち讃岐新道分(丸亀・多度津-猪ノ鼻峠間)を完成させた。

38㎞余りの讃岐新道は、将来の交通量の増加を予想して、道幅は最小で6.3m、最大で12.8mも有り、金蔵寺(現、善通寺市)から琴平(現、琴平町)までの約7㎞を一直線の道路にするなどの特徴をもっている。

 

▼金蔵寺(現、善通寺市)~琴平(現、琴平町)までの一直線の道路(web引用)

 

 

猪ノ鼻峠に隧道を掘り、吉野川に注ぐ伊予川から水路を引いて、西讃一帯に灌漑用水を供給すると云う、現在の香川用水にも繋がる構想を提言した。また、塩飽諸島を橋台として本州との間に橋を架けると云う、まさに現在の瀬戸大橋の構想を披瀝(ひれき)するなど、時代に先駆けた着想の持ち主であった。

 

▼猪ノ鼻峠の隧道

 

▼現在の瀬戸大橋-1

 

▼現在の瀬戸大橋-2

 

▼現在の瀬戸大橋-3

 

 

更には、地域の医師不足を解消するため、育英制度の創設や、農家の2男らに自立を支援する北海道移民の提唱と実現などにも尽力した。

しかし、1891年、議会での演説中に倒れ、42歳の若さで死亡した。

 

現在、町内の香川用水記念公園内の水の資料館に、諶之丞の遺品などが展示されている。

 

▼香川用水記念公園-1

▼香川用水記念公園-2

 

▼水の資料館企画展-吉野川源流域を訪ねて(web引用-水彩画風変換)

 

▼水の資料館企画展-諶之丞パンフレット

 

 

また、顕彰碑が「たからだの里」から南へ約1㎞の国道32号線沿いにあり、琴平町の愛宕山の頂上には銅像が立っている。

 

▼顕彰碑

 

愛宕山の銅像は、もと琴平町公会堂に立っていたが、讃岐平野を一望し、遠く瀬戸大橋も展望できる現在の地に移されたものである。

 

▼愛宕山の銅像

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

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