SNSには、個人の意見を書き込める場がたくさんある。ルールを決めないと、すぐに誹謗中傷合戦、口喧嘩になる。「誹謗中傷を書き込むのはやめましょう」などといった注意喚起で止まるような性質のものではない。

 柔道の安部詩選手が試合後に号泣した姿を放送するのはよくない、いやオリンピックらしくていいとさっそく盛り上がり、次第に口喧嘩になってきた。自然の流れである。自分の意見を否定したりバカにしたりする相手を直接殴れないから、実際にやらないとしても犯罪行為をにおわせるなど、最大限の悪口を書き込むしかない。相手も対抗してくる。最後はどうなるか想像に難くない。世の中の全ての事柄について一人一人が意見を持ち、SNS上に書き込むので、SNS上での口喧嘩、誹謗中傷合戦の量も膨大となる。

 当然、このままではよくないだろう。SNS上での秩序を維持するためには、お願いや注意などではなく、物理的な対応とその法的保証が必要である。例えば個人が意見を持ち、それを書き込むのは個人のHPやブログ、ツイッターなどに限り、それを読んだ人がコメントできない仕様にする(コメント欄を設けない)。それを読んで賛成できない人、自分の意に反するから不快になる人は黙って退出すればよい。要は、対立する場を作らないことが重要である。だから、運営会社やサーバーの管理者は、誰でもが自由に意見を書き込めるような掲示板は削除し(意見無しの連絡用限定で可)、今後作らないようにする。違反者は、法的に罰することにすればよい。

 また、個人のブログに「このような意見があった」、「情報番組で○○がこのようなことを言っていた」という個人(三流芸能人たちの意見や自称専門家など)の意見の紹介を、ヤフーニュースやネット新聞、ネット雑誌でコメント欄を設けてずっとやっているが、これらがネット上での対立を作り、誹謗中傷合戦に発展するまで煽り続け(紹介し続け)るなど、拡大させる中心的な役割を担っている。したがって、誰かの意見を単に紹介するだけの記事やサイトをネット上にあげることを法的に禁止にする。ネット上にあげた会社や、あがっている記事をすぐ削除しなかったサイトの管理者は、法的に罰することにする。

 まずは上の2つをやってみて、たりない対応を後で付けたしてやっていくことがよいだろう。安部詩選手が泣いた場面を放送したこと1つについても、さっそくネット上ではすでに口喧嘩状態になっている。私の知る限りでは、号泣場面の放映について最初に石原良純氏が情報番組で賛成したことをヤフーニュースが広く紹介し、次にそのまんま東氏が自身のSNSに書いた反対意見をヤフーニュースだったかネット雑誌が紹介して広め、あとは三流芸能人たちが中心となって全員参加のお祭り状態だ。今は、どうでもいいような出来事一つ一つについて、社会(ネット上)がすぐにこうなるようになっている。変える必要があるだろう。ちなみに安部選手の号泣場面の放映は、テレビ局が事実として1回だけ放送すればよく、興味本位であの場面を何度も何度も流す必要はない。自然に流れた涙は、まわりも自然にしておく(いじったり騒いだりせず、そのままにしておく)のがよいのである。

 SNS上ですぐに意見が対立し、誹謗中傷合戦になっていくのは、意見を持つ人や書き込む人、国民に問題があるのではない。それは当然の流れである。問題は、喧嘩の場を設定したり煽ったりする人たちや会社が存在していることである。個人の意見を個人のツール(ブログやツイッター、インスタ等)に書き込むのは自由だが、それをやりあう場(コメント欄や連絡以外の掲示板など)を作ったり、第三者があえて個人のツールから多くの反感を得られるような意見を探し出して広く紹介したりする行為の禁止に向けて、ルール作り(法制化)を早急に行う必要があるだろう。

 スポーツ競技において、実力のある選手、強い選手というのは、技能だけが優れているのではない。

 体力や反射神経、試合中における対応力・想像力・思考力、健康管理、相手の分析や勝つための作戦、勝利を引き込む運(試合の流れの作り方)、セルフコントロール(集中力や平常心の維持等)等々、多くの点において優れている選手を、「実力のある選手」というのだと思う。試合の勝敗には多様な要素が絡んでおり、それらすべてにおいてうまくできなければ安定して勝つことはできない(真の実力者、強い選手とは言えない)。

 期待されていたのに負けてしまった選手が、よく「風邪をひいて全力が出せなかった」、「けがをしたから出られない(試合以前の問題)」「敵が急に○○してきて負けた。実力が出せずに終わった」、「運が悪かった」などと言うが、スポーツ競技においては、これらもすべて含めて、その人の「実力」というのだと思う。

 実力のある本物が勝ち、部分的に得意なことがある程度の偽物が負ける。当然の理であろう。

 朝倉未来氏が、1RでKO負けした。

 彼のユーチューブを見たことがあるが、素人ばかりを相手にし、やっつけて得意になっているのが個人的にはとても不快だったが、今回の負けで格闘技から引退することを(試合には出ないことを)表明した。さすがにこれで素人いじめからも引退するだろう。

 プロ(級)が素人を標的にして戦ってはいけない。人には誰にでも最低限のプライドというものがあるはずだ。彼以外にもまだ似たようなことをやっているユーチューバーはいるし、(偏差値や弱い者をからかうような動画など)差別的なユーチューブ動画も星の数ほどある。SNS上の動画は、一線を超えることなく家族で楽しく見られるような健全な動画の世界であってほしい。それではフォロワー数を稼げないか。

 パリ五輪では、マスコミが持ち上げてきた選手達がプレッシャーで次々に負け、マスコミが圧をかけてこなかった選手たちが着実にメダルを取っているが、ようやく柔道の阿部一二三選手となでしこが勝った。安部選手は妹のことがあり、なでしこは初戦の悪夢があり、そちらのほうに重きが移ってプレッシャーから解放されたのだろう。マスコミに勝ったように感じる(試合に集中して実力を発揮できる状態になった)。

 安部選手となでしこの勝利は、日本の悪い流れを変えたように思う。ようやく日本選手の持っている力をストレートに出せる雰囲気になってきた。

 今後、マスコミはおかしな応援(無知・無神経な局アナたちによる「日本中が応援しています、頑張ってください」など)やインタビュー、番組はやめ、あとは選手たちの邪魔をせずに結果だけを伝えていればいい。(悪事を重ねて反省もせず、視聴率を稼げれば煽り放題の)悪い人達は静かにしているのが一番周囲に悪影響を与えずに済むのである。張り切らず静かに。

 日本選手はテレビ局などに負けず、自分のペースで100%の力を出せるようにしてもらいたい。

 高校野球の西東京大会は、早稲田実業が優勝した。

 負けた日大三高の約半分の選手は号泣していた。びっくりするほど大泣きしていた。

 パリ五輪の女子柔道で負けた阿部詩選手も負けて号泣していた。

 なぜ負けて泣くのだろうか。全力で練習に取り組み、全力で試合に臨んで負けたのであれば悔しさや後悔などはなく、「全力でやったけど勝てなかった。しかたがない」、「自分が弱かった。強い者が勝つんだ」と、すがすがしささえ覚えるのではないだろうか。

 負けた選手が泣くということは、練習や試合で、もっと頑張ったり、相手を科学的に研究したり、あらゆる場面を想定して対応する訓練を繰りかえしたり、セルフコントロールをもっと鍛えたりなど、もっともっとできる(頑張れる)余地があって後悔しているということなのだろうか。

 そうであれば、「ふざけるな!4年前から120%の力で練習や研究・分析や精神的訓練をし、本番では150パーセントの力で臨め!」と、私などは思うのだが。

 オリンピックは参加することに意義があるのではない。選手たちはお祭りを楽しむためにパリまで来たのではない。日本国民(ひいては国民がこう思うように仕向けてきたマスコミ)は、思い違いをしている。

 パリ五輪開会式が終わった。

 個人的には、オリンピックの開会式や閉会式のパフォーマンス(ショー)が好きになれず、過去1度も楽しい、見ていたいと思ったことがない。4年に1度なので毎回我慢して挑戦してみるが、10分以内にはチャンネルを変えてしまう。今日のパリ五輪開会式も5、6回テレビをつけては5分程で消したり他の番組を見たりしていた。しかし会場にはたくさんの人がいて、世界中で多くの人がテレビを見ているようなので、私の感覚が一般的ではないのだろう。

 ただ、1度だけ部分的に「素晴らしい、もう1度見たい」と思ったことがあった。それは、リオ五輪閉会式で行われた次回会場の東京五輪紹介パフォーマンスであった。10分程であったがとても引き付けられ、その後もユーチューブで何十回となく見た。何度見ても飽きることなく、毎回すごいと思わせられる。曲も演出も動きもVTRも魅力的で、世界中からも称賛を浴びたパフォーマンスだった。なぜあのようなパフォーマンスができたのかというと、短時間の紹介程度のものだったので政治家やご老体たち(権力者や関係者たち)が軽く考えて一切口を出さず、MIKIKO氏や椎名林檎氏たちの感性のみで作り上げることが可能だったからであろう。東京オリンピックやどこの国のオリンピックの開会式も閉会式も、政治家やご老体たちが世界の人々が興味を示さないような独りよがりの願望をパフォーマンスに盛り込むように要求するから、つまらないものになるのだと思う。東京五輪紹介動画を1度ユーチューブで見てもらいたい。幻に終わったMIKIKO氏による東京五輪開会式パフォーマンスの動画もあるので合わせてみてもらいたい。実際に行われた東京五輪開会式のパフォーマンスと比較すると、あまりの悔しさに涙が出る思いになるだろう。

 パリ五輪開会式は、土砂降りの雨となり、誰にとってもかわいそうなものになってしまった。快晴であれば、少しは違ったのかもしれない。しかし選手たちが川を移動したり様々な場所でパフォーマンスや聖火ランニングをしているために、選手も観客もそれらが映し出されている巨大スクリーンを見つめるだけになってしまった。これでは、せっかく現場に行ってもテレビ(スクリーン)を見て楽しむような状況となり、しかもその巨大スクリーンが1台?壊れて映らなかったという。聖火ショーも過去の悲しい気球の事故を思い起こさせるような火に包まれる演出であった。スタジアムではなく広範囲でショーをする問題点が顕著になった開会式だった。あれほどの大雨の中でじっと座ってスクリーンを見つめていた選手たちや雨に打たれながら川沿いに立ってテレビを見ていた多くの観客は、体調を崩さなかっただろうか。おそらく多くの人が途中でホテルや家に戻ったのではないだろうか。

 踏んだり蹴ったりの開会式だったように私には見えたが、これらのことは当然予想されたことであり、そうであればあえてこのような開会式を目指したのであろうから、私ほどなんとも思わずに「よかった」、「成功だった」と思う人のほうが多いのかもしれない。

 今の私の頭の中は、なでしこが逆転負けして有力選手がケガで離脱したこと、7人制ラグビーが何度も何度も大差で負けること、ブレイキンシゲキックスが意図的に持ち上げられていることの3つが占めている。とても悪い流れが日本にきているように感じるのは私だけであろうか。

 

〈追記〉今日、男子バレーが負け、男子バスケが負け、柔道の永山選手が負け、男子ハンドボールが負け、大坂なおみ選手が初戦で負け、卓球の張本・早田ペアが1回戦で負け、100mバタフライの池江選手が準決勝で負け、連覇がかかっていた体操の橋本選手が鉄棒の着地を失敗して決勝へは進めず・・・。いずれも明らかな実力差で負けたのではないのが気がかりだ。日本は完全に悪い流れに乗っている。脱出するきっかけが欲しい。

 そもそも論で言うと、すべての原因はテレビ局の報道の仕方にあると私は思う。選手たちにプレッシャーを与えるようなインタビューや応援をし、負けると質量ともに他の競技の選手たちが委縮し暗くなるような報道の仕方をする。悪事を重ね反省もしない(ジャニーズ問題や24時間テレビの募金横領、「セクシー田中さん」の原作者自殺事件等々)、視聴率を稼ぐためにコメンテーターや自称専門家などを使って国民を煽り放題のテレビ局は、オリンピックのような重大な事柄には関わらないほうがよいと思う。

〈追記〉28日は、女子バレーが逆転されて負け、阿部詩選手が負けた。これまでマスコミで大きく取り上げられてきた種目が、次々と負けている。これは冗談ではなく、本当に悪い流れに乗っている。今の所、金メダルを取ったのはマスコミから注目されていなかった柔道の角田夏実選手だけである。マスコミの餌食になっていないわずかな選手たちは、伸び伸びと自分のために力を出し切っているように見える。

 動物は、同じ種同士が殺し合いをする理由として、「縄張り争い」がある。自分のテリトリーに入ってきた者を、追い払ったり殺したりする。鳥類もそうである(殺すところまでやるかわからないが追い払うことはする)。学校で習ったり親が教えたりしなくてもそのような行動をとるので、本能として遺伝子に組み込まれているのだろう。

 そうであれば人間も動物であるため、自分の領土と認識しているテリトリーに勝手に入ってきた者やそれを奪おうとやって来た者を命がけで追い払うことは本能と考えられる。そこに、後天的な学校での学習や家庭教育などで「平和が大切」、「みんなで仲良くしよう」という知識がくわえられる。しかし本能に勝るわけがない。

 さらに悪いことに、人間は社会生活(経済生活)を送るうちに快楽的な情動を覚え、「欲」というものを獲得してしまう。「もっと欲しい(お金でも品物でも領土でも)」と思う気持ちである。したがって、自国の領土を命がけで守るのは当然、他国の領土もほしがるようになる(口にしない先進国でも本心ではそう思う)。

 本能と、後天的に獲得せざるを得ない「欲」を身に付けた人間は、戦争をするか、がまんできるかの綱渡り状態で生きている。いつ戦争が起きても不思議ではない。すべては、後天的な教育力(道徳心)にかかっているともいえるが、本能や欲を押さえ続けることには限界があるだろう。

 パリ五輪で、「日本選手団の旗手は、ブレイキンのシゲキックス」と、もううんざりするくらいにテレビで繰り返し流れている。「誰?」と思った人も多いのではないだろうか。ブレイキンとは今年から始まる競技らしい。

 紅白など昨年末の歌謡祭では、突然「新しい学校のリーダーズ」と「あのちゃん」が出てきて持ち上げられた(その後は一度も見ることがない)。私などは「なんで?」と、頭が疑問符でいっぱいになった。日常のテレビ番組も、相葉氏と中丸氏ばかり。

 日本のマスコミは、視聴者の気持ち(要望など)は無視し、実力や人気に関係なく話題や目玉を新たに作り上げることに突き進む。順序を逆にすると、被害を被るのは国民(視聴者)だ。今のテレビ局は、歌番組でもバラエティでもドラマ(の主人公)でも、番組のレベルや視聴者のことなど考えず、利益と癒着のみによって動いているように私には見えるのだが、間違っているだろうか。

 別にこれらの人々の仕事を否定しているのではなく、テレビ局の姿勢を批判しているのである。テレビ局はその人物に見合った適切で平等な取り上げ方をすることが、健全な経営ではないかということである。

 パリ五輪の7人制ラグビーで、日本が42-12、40-5、40-7と3連チャンで大敗を喫した。日本では、「オリンピックは参加することに意義がある」とよく言うが、このようなことだったのだろうか。その後の文言は、「人生において重要なことは、成功することではなく、努力することである」と続くらしい。

 成功や目標達成は重要ではなく、努力そのものが重要とは笑い話だろうか。何のために努力をするのか、わからないであろう。本末転倒である。

 負けた時のなぐさめや言い訳として用いるならわかるが、「人生において重要なことは成功や目標を達成することではない(努力だけは大事)」と言ったり、「本番の試合に参加できることを楽しみに練習していこう」などと言うのは、適切ではない。

 今はGIGAやICT、主体的、対話的、学び合いといったことに研究者や現場教師の力が注がれ、これまで偉大な研究者達が作り残してくれた教科の本質や指導に関する多くの成果が軽視されてきている感じがする。これからは、ITを操り世界で渡り合える人材を育てるといった経済社会からの要請なのかもしれないが、小学校教育を本当にこの方向にかじを切ってよいのだろうか。タブレットやプログラミング学習なども、発達段階を無視して指導時期を無理に早めてみても、小学生にとって大きな負担にしかならない。中学校から始めたほうが発達段階にあっており、適応がスムーズにいき効果も大きいように思う。すばやく紙ベースで多くの情報を眺めたり同時に見比べたり、あるいはノートに好きなように書き込んでみたりできる自由さを奪い、内容的にも操作的にも限定された小さな範囲のタブレットの中で学習を強いられる苦痛は小さくないだろう。小学1年生からタブレット!ではなく、中学1年生からでよい。小学1年生は、自分の手で実際にブロックを持ち考えながらいろいろと動かしてやらせることのほうがはるかにわかりやすく思考が働く。

 10年後には指導要領の改訂でかなり元に戻るのだろうが、無駄な時間というかマイナスの時間がもったいない。