私は家族と生きる。~毒親育ちが母になった~ -47ページ目

【回顧録】⑧出会いと覚悟

↓続きです。





私がお手伝いする事になったのは

とても穏やかな女の先輩で

私の他には2年生の女の子がふたりついていた。


私が馴染めず距離を置いた同期たちよりも

チームの2年生と居るほうが気が楽だった。


この時点で私は留年が確定していて

もし復帰するとしたら現2年生と一緒に

グループワークをする事になるので

もう同期と行動を共にする必要もなかった。


私は「ただ1年間怠けていた人」でいたかった。

道を見失って思い悩んでいた事を誰にも知られたくなかったから

何も考えていない風を装って別人格を演じた。

馬鹿みたいだけれど

そうしなければそこには居られなかった。




それから私は毎日チームで作業して

時には徹夜したりして

1年前はただただ苦痛でしかなかった事が

次第に楽しめるようになっていった。



先輩が作る作品は

型にはまる事しか出来なかった私に

たくさんの新しい気づきをもたらした。


物には作り手の想いが宿る。


自由でいいのだと

思う通りに作っていいのだと

その作品を通して

自分の生き方まで覆るような感覚を覚えた。


どちらにせよ留年か中退は確定なのだ。

たとえ想像していたレールから外れても

私は、私の覚悟で、自分が選んだ道を歩くと。



そして2ヶ月後、私のチームの先輩は

「奨励賞」(銀メダル)をとって卒業した。




思い返せば

これまで辛い時に私を助けてくれたのはいつも

親ではない誰かだった。


ギリギリのところで

私にとっての正解を選んで来られたのは

大事なタイミングで私を導いてくれる人が

何故だかいつも、運良く現れたから。


卒業制作のお手伝いも

付いたのがこの先輩でなければきっと

人生観を変えるような出会いにはならなかった。


運は人が運んで来るものだと誰かが言った。

うまく出来なくても

何も返せる物がなくても

差し伸べられた手をその度にちゃんと掴めた事が

私が真っ当に生きてこられた理由だと思う。






↓続きます


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↓なぜ書くのか



【回顧録】0. なぜ書くのか。





アダルトチルドレンを克服する方法として

小さい頃の自分を癒してあげましょうとか

抱きしめてあげましょうとか

よく見かけるワードだけれど


いやそれ一体どうやるのよと

時空を越えるのかいと

ひねくれ者の私はずっと思っていた。


あなたはあなたのままで素晴らしい。

駄目な自分も認めてあげて。

なんてのも、もう聞き飽きてうんざりしていた。

私が私のままじゃ嫌だと言っているのに

そのままで大丈夫。とは。


じゃあ自分の認め方、教えてよと。



医師やカウンセラーなど

他人にすがってみたりもしたが

結局は何も変わらなかった。


私は自分が「普通」に見えるように

ずっと取り繕って歪に生きてきたから

相手が話を聞いてくれる専門家であっても

他人との壁の取り払い方がわからなくて

大丈夫じゃないのに大丈夫なふりをしたり。


何よりも「普通」に生きてきた人には理解されない気持ちだろうと諦めていた。

「普通」の意味はわからないけど。


私は聞いて欲しいわけでも

寄り添って欲しいわけでもなかった。

どうしたら私は私を許せるのかが知りたかったのだ。


その為には自分でなんとかするしかない事くらい薄々わかってはいたけれど

カウンセリングはそれを再確認して次に進むための区切りのようなものだったのかもしれない。





だから、片っ端から書くことにした。


親にあんなことをされた、こんなことも言われた、嫌だった、傷ついた、こうして欲しかったと


自分の甘えや浅はかさは棚に上げ

私は、私は、と

子供みたいに自分の話ばかりを思い付くままに書き記す事が

私にとってはあの頃の自分を客観的に見つめ

抱きしめる方法だったのだと

書き始めてから気づいた。


そうか、私は時空を越えられたのか。





私は両親によって衣食住が確保され、教育を受ける事ができた。習い事や塾にも行けた。

少なくとも外から見たら「普通」の家庭だったと思う。


それでも私にとっての家族はいつも壊れていて

家族と共に自分もまた壊れていて

ずっと重くて重くて仕方なかったものを

ブログの文字の中に封印して

捨てていきたかった。


そうして身軽になったら

私は誰に強制されるでもない

私は私として生きていいのだと

思えるかもしれないと。




始めは誰に読んでもらうでもなく

ただ自分の為だけに勢いで書いたものを

誰かがひとりでも読んでくれて

共感してくれることで

浄化されていく気がしました。


読んでくださってありがとうございます。


【回顧録】⑦分岐

↓続きです。




ほぼ1年ぶりの友人からの電話は

「4年生の卒業制作を手伝わないか」

というものだった。


研究室では代々

後輩が先輩の卒業制作を手伝う慣習になっていて

ひとりの卒業生に対して

2~3人のチームを組んで作品を仕上げていくらしい。


私も一応研究室に所属はしていたが

不登校なので当然出入りした事などなく

教授に合わせる顔もない。


何よりも、先輩が大学で学んだ全てを懸けて作り上げる集大成だ。

1年も怠けた私にその助手など務まるのか。


さらに、当時は今ほど自分がコミュ障だとは

自覚できていなかったが

スキル云々を抜きにしても

1年ぶりに学校に行く状況を想像すると

怖くてすぐに返事は出来なかった。




元々は嫌で嫌で中退するつもりでいたのだ。

それが資格試験に合格した事で

何かが少しだけ変わったのを感じてはいた。


けれど、これを足掛かりにして学校に復帰しようなどと思えたわけでは全然なかった。


ただ、中退するかどうかはさておき

これからの私にとってここでの選択は超重要。

バッドエンドに向かうのか

トゥルーの分岐に入れるのか

今自分が運命の別れ道にいる事だけは

子供だった私にも理解できた。



そうしてひとり悩みに悩んで

というより、もうきっと答えは出ていたのだけど

一度逃げ出した私が腹を括るまでには

それなりの時間が必要で。



「お手伝いさせてください」



そう返事したあの時の自分は、偉かった。


私は昔からずっと自分が嫌いで

何ができても、出来なくても、

なぜこんなにも私は私を認めないのか

その理由が未だにわからないのだけれど


19歳の自分にだけは

頑張ったねと、

こっちの道を選べてよかったねと、

無条件で言えるのはどうしてかな。


19歳じゃない自分にも

同じように言ってあげられたらいいのに。





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【回顧録】⑥転機。人生の恩人。



↓続きです。




私は退学までに1年間の猶予を与えられた。

この時のこの判断だけが

両親唯一のファインプレーかもしれない。


テレビに出ている芸能人を見て

こいつは◯◯大卒だとか、親が◯◯だとか

番組の内容なんかよりも

肩書きで優劣をつけ始める父の事だ。


せっかく不本意な金を出してるのに

「大学も出ていない娘を持つ俺」がみっともないとしか思っていなかったはずだが(父自身は無自覚)

※みっともないは父の口癖


奨学金を借りているとはいえ

行きもしない学校に1年間分の大金を払うのは

親としてはかなりの負担だっただろう。





ただ、父の思惑が実際はどうであれ

私は学校から逃げたかったわけじゃなかった。


私は何かを目指せるだけの熱量を持てない自分から逃げたかっただけで

中退したところで自分は自分に一生つきまとうし、そうなればもういよいよ何処にも行き場がなくなるのは明らかだった。


当時は気づけなかった。

幼さとは恐ろしい。





そうして学校に行かなくなった私は

一人暮らしの部屋で引きこもりに、、、、


は、ならなかった。


バイトして、遊んで、旅行して。

元々勉強は好きだったので資格の勉強もした。

知らない事を知るのは純粋に楽しい。

興味のある分野を掘り下げて行くのは面白い。



私はとんでもなく気分屋だったのだと知った。



自分がやりたくない事や

やる意味がわからない事は

どんなに頑張ろうと思っても

一向に頭も身体も、心も動かなかった。

0か100か思考で、その中間は一切なかった。


そりゃそうだ。

ずっと60くらいで動き続けられるような

器用な人間なら

中退騒動なんて起こしたりしない。




そうこうしているうちに資格試験の結果が出た。

かなりストイックに勉強した甲斐があって

見事合格。

というか単純に面白かったから毎日続けただけ。



挫折を繰り返して気力を失っていた私が

ほんの小さな一歩だとしても

自分で選んで行動して、結果を出した。


そして中退するつもりでいながらも

人生初の資格試験にと選んでいたのは

学科を卒業後、就職する時に使えそうなもの。


私は学校の環境に馴染めなかっただけで

今の学科の勉強が

本当は好きだったのだと思い出した。


習い事をやめて進路を変えるしかなかった時

世間知らずな高校生なりに一生懸命考えて

自分で選んだ。


やらされてるわけじゃない。

ちゃんと、やりたくて、選んだんだった。





そしてそのタイミングで

学科の友人からほぼ1年ぶりに連絡が入った。


年が明ける直前の事。


きっと、これが私の運命を大きく変えた電話。


この時彼女はなぜわざわざ私に電話をくれたのか。

覚えていないから

多分ちゃんとは聞かなかったんだと思う。

そしてその感謝も

私は彼女に伝え忘れてしまった。


もうずいぶん昔の話になってしまったけれど

歳をとればとるほど

今の自分が幸せだと思えば思うほど


彼女は私の恩人だと、強く思う。





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【回顧録】⑤両親が裏で教授に凸電。


↓続きです。





初めての一人暮らしは自由だった。


自分の行動を自分で選んで

決めた通りに実行していいのだという事に

まず戸惑った。


やりたい事をやっていいし

やりたくなければやらなくてもよかった。



着る服や会う相手についても

誰にも何も言われなかった。


監視や尾行も(多分)されなかったし

デートに乗り込まれる事もなかった。



今度◯◯をしようとか、◯◯へ行こうとか

交わした約束をちゃんと実現できる生活。



解放された気がした。





一方で

学校にはだんだんと

違和感を覚えるようになっていった。


学年が上がるごとに

実技やグループワークが増えていって

まわりの熱量についていけない。


友人たちが夢や希望に溢れるほどに

私の心は反比例して冷えていった。



自分はこんな勉強がしたかったんじゃない。

本当にやりたい事の為になら頑張れたのに。

皆、やたら熱くなってて馬鹿みたい。




学校に行けなくなった今を正当化する為に

私は過去の自分を利用した。


こんな形で引っ張り出すなんて

18歳までの頑張っていた自分への

非礼の極みなのに


挫折してもなお

それは唯一の拠り所として

私の心の中に棲みついていた。


子供の時からいつでもずっと

その場所に逃げ込んでいたから

それ以外に自分の心をコントロールする術を

私は知らなかった。





そして完全に行き先を見失った私は

3年生になった春

両親に「学校をやめたい」と打ち明けた。



当然理由を聞かれたが

課題ができないとか

自分には向いていないとか

教授にダメ出しされたとか、言ったかな。


私がそう思い悩む根源にあるものが何なのか

両親は思いを巡らせてはくれただろうか。


本当は違う事がやりたかったのだとは

この頃はもう口には出したくなかった。


私は自分でこの道を歩くと決めた時に

もっとちゃんと腹を括るべきだったのだ。





そして

意思疎通のできない親子が話し合いをした結果

私の奇行の原因が学校にあると曲解した両親は


また私の知らないところで

教授に電話をかけていた。





私がこの事実を知ったのは

学校に行かなくなってから一年以上後の事だった。






↓続きます


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