
【回顧録】④壊れた母親と、どん底の始まり。
↓続きです。
ついに母が壊れた。
とある宗教に入信していた。
思い返せばその頃
スピリチュアルな本ばかりが家に溢れていて
私と父の板挟みに母も限界だったのだろう。
白い作務衣を着て
宗教施設の掃除をしているところを
父に連れ戻され
親戚を巻き込んだ騒動になった後
父と何らかの条約を交わして
とりあえずはシャバに出てきた。
私はずっと母を不幸だと思っていた。
こんな奴が夫で。
離婚すればいいのに。
頼むから離婚してくれ。
でもそうできないのは母に経済力がないからだと
この頃の私は思っていた。
そして
私を養う為に父と離婚できないのなら
自分の存在も母を不幸にしているじゃないかと。
人格ごと否定されても
こんな奴に縋らなければ生きていけないなんて
最高に不幸だ。
自分は絶対にそうはならない。
私はたとえ将来どんな状況になったとしても
自分と子供を最低限養って行けるように
手に職をつけなければと思っていた。
私は実家からは通えない大学を受験した。
父は私の興味の範囲など1ミリも見えないのか
見るつもりもなかったのか
自宅から通える他の学部を強く勧めたが
私は自分の希望を押し通し18歳で家を出た。
肩書きや世間体が最優先事項の父は
仕方なく不本意なお金を出した。
奨学金も借りた。
いざ実家を出ていく前
母に頭から何かを無理やりかけられた。
例の宗教絡みで手に入れてきた
何かの力があるという何か。
嫌だと、やめてくれと言ったのに。
布にくるんだ御札も無理やり持たされた。
本人が拒絶しているのに何の意味があるの?
どこまでいっても独りよがりな人。
そして私は晴れて新生活を始めたけれど
地獄でしかない実家を出られて
万々歳とはならなかった。
私は途中で大学には行かなくなった。
↓続きます
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【回顧録】③勝手に代弁して泣く母親と、人ではない何か
続きです。
高校生になって進路を考え始めたが
私の望む進路に進む事を
父は断固として許さなかった。
我が家の経済的にも難しいのは私にもわかった。
父の事はともかく
経済的な事情は最初からわかっていたはずなのに
母は一体どういうつもりで受験を目指すレールに
私を乗せたのか。
どこにも繋がってはいない道を
なぜ私に歩かせようとしたのか。
母にも道の先が見えてはいなかったのか。
私も私で
父にあれだけ歯向かいながら
都合のいい夢を見ていただなんて
おめでたすぎて呆れる。
クラス担任との進路相談で
母は勝手に喋り勝手に泣いた。
「この子は夢を失ったばかりで、、、」
なんだこの茶番は。
泣きたいのはこっちだよ。
私、無言。
担任、ドン引き。
またかよ。
小学校の卒業式を思い出した。
保護者代表で謝辞を述べた母は
私に何の断りもなく
壇上で私のプライベートをペラペラと晒し
勝手にひとりで盛り上がった挙げ句
大号泣で謝辞を締めた。
私は母が恥ずかしかった。
本当に独りよがりな人。
習い事は趣味として細々と
でももう本当に楽しいだけで続けていたが
それも、突然終わった。
父が先生の家に電話をかけて
罵詈雑言を浴びせたらしい。
「俺の家族をぶち壊すな」と。
何を目指すわけでもなく
ただ楽しく習うだけの事さえも
私には許されないのか。
家にもどこにも居場所のなかった娘の
たったひとつの拠り所だったのに
こんな形で終わらせるなんて。
母は私の顔を見ることすらできず
「もう行けないんだよ」とだけ言い
私は先生に挨拶もできないまま
状況もわからないまま辞めさせられ
父への憎悪だけがはっきりと残った。
あれは親でも人間でもない。
頭がおかしい何かの生き物だと思った。
↓続きます。
【回顧録】②娘の捌け口でしかない母親と人を見下す中学生
続きです。
中学生になる直前
習い事の先生が変わった。
母が見つけてきたなんだかすごい先生で
それまでお遊びの延長だったものが
本気で受験を目指す形になり
当然父との関係はますます悪化した。
日々父親とバトルして
負のエネルギーだけで出来ている中学生が
まわりの友達と話が合うわけもなく
学校は退屈なだけだった。
勉強だけは人よりできた。
学校の先生からの信頼も得ていたので
その点で親を困らせる事はなかった。
当時は自分が孤独だという事にも
気づいていなかったし
他人と打ち解けたいとか仲良くなりたいとかの
概念もなかった。
くだらない話で盛り上がっているクラスの子たちを
私は正直馬鹿にしていた。
何が面白いのかと。
くだらない話すらできない自分がいちばん
くだらなかったのに。
私は習い事だけが己を発散する術になり
ますますのめり込んでいった。
習い事のレッスン料は一人暮らしの家賃並みで
父はいくら支払っているのか知らなかったが
母のパート代の全てをつぎ込んでいた。
今から思えば
母は私の味方をしようとはしてくれていたのだが
如何せんひとりよがりなので
私にとっての悪手ばかりを選び続けた。
私の気持ちがわからない
わからなければ聞けばいい事にも気づかない
何故本人に聞いてこないのかと私は苛立ち
それがまた母を怯えさせた。
母は私の扱いがわからなかった。
その姿を見て私もまた「親」に失望するのだ。
「それでも母は私の為にやっているのだから」
などと思えるような年齢でも人間でも私はなくて
この頃私にとっての母は
父と修羅場をくりひろげた後の
真っ黒な感情の捌け口でしかなかった。
私は母に向かって
大泣きしながら父を罵倒し続けた。
この頃の私は母に何を望んでいたかな。
もう、ちゃんとは思い出せない。
↓続きます。
【回顧録】①小学生女児に殴りかかる父親
両親は不仲だった。
父は異常。
母は善人だけど、人の気持ちが読めない人。
二人の言い争いの原因は
おそらくほとんど私だったのだと思う。
何が嫌だったって
私の問題なのに
私の居ないところで勝手に話が進んで喧嘩になって
どちらの言い分も全くの的外れで
本当に独りよがりな両親たちだった。
「まずは本人に話を聞こう」
という当たり前の作業を省略する人たちだった。
私は物心ついた頃には既に父とは険悪で
きっかけは3歳から始めた私の習い事。
父はとにかくそれが気に入らなかった。
思い通りにならない私を
何度も殴って押し飛ばしたり
取っ組み合ってガラスが割れて流血したり
それは親が我が子に言う言葉なのかという
耳を疑うような言葉で罵倒された。
小学生女児に大の男が殴りかかってくるとか
今や虐待でしかないのだが
子供にとっては親が世界の全てで
私はその狭い地獄の中で必死に反抗して
常に怒りの感情とともに毎日を過ごした。
家に「安心」や「穏やかさ」を感じた事は
ただの一度もなかった。
いつか父と対峙する事があれば
「包丁を向けるのか向けられるのか」
自分は一体どちらの立場になるのか想像しては
心の中で何度も殺したり殺されたりしていた。
私も十分異常な小学生だった。
↓続きます。
「甘やかす」がわからなかったけど
多分、我が子を甘やかした事は
過去一度もなかったんじゃないかな![]()
自分でもやり過ぎだと思うくらい
厳しくしつけて来たと思います![]()
私自身も、子供の頃甘やかされた事は覚えている限り一度もないので(認識できるレベルでは)
それ以外の育て方がよくわからなかったし
親に規制されるのが当たり前というか、、![]()
「甘やかす」ってどういう事なのかよくわからないので、とりあえず普段は「ダメ」と言うところを「いいよ」と言ってみました![]()
(本当は自分的にはあまりいいよとは思ってなかったけど)
その瞬間の子供たちの、驚いたような、はにかんだような、嬉しそうな表情を見た時
融通の利かない子育てをしてお互いイライラするよりも
甘やかしてこんな顔をしてもらうほうが断然いいじゃないかと![]()
たったそれだけの事を難しく考えるのもばかみたいなんだけど
なかなか行動パターンを変えられない私の
ある種の成功体験![]()
3人衆は今まで散々厳しくされてきたので
今甘やかしても突拍子もないワガママは言わないだろうし
私の場合は意識して甘やかすくらいで
ぎりぎり、ちょうどいい範囲内かなと![]()
今からでも、遅くない![]()
こうして日々書く事で出た結論を
ちゃんと実行に移す
やるんだ、私。