こんにちは。

 

 今回は「心に言葉が根付くには」と題して書き進めたいと思います。前回の拙記事「神の御意志とキリスト者の意志」でも触れましたが、主イエスはヨハネ六章三十九節と四十節で重ねて、「天の父なる神の御意志は、御自身を信じる者を終わりの日に復活させることである」と述べられました。二度同じ主旨の御言葉をお話になったことからもこの御言葉が極めて重要であり、聞いた人が忘れないようにと配慮されたからだと考えます。キリスト者であるならば、主イエスの教えに基礎を置き、その御言葉に基づいて信仰生活を送ることが基本であり、主イエスの教えに反する信仰生活をいつまでも送るならば、キリストの弟子とはいえず、主イエスに逆らっていることからも確実に反キリストに成り下がります。また、未だに聖書原理主義者という言葉の意味を知らずに聖書原理主義者を批判している人がいますが、聖書原理主義者を批判している人は、主イエスを批判していることに気付いていません。何故なら主イエスは聖書原理主義者であられるからです。恐れもせず、主イエスを批判する者は、誰でも反キリストです。

 

原理主義とは、聖典等の教義や規範等を遵守し、世俗主義に対抗する思想や態度のこと。つまり、聖書原理主義者は聖書に忠実なええ人になる訳で、主イエス、十二使徒、洗礼者ヨハネ、旧約時代の預言者たちが体現した世捨て人の姿勢がまさにそれやったし、主イエスが神の民として求めてはるんはそないな人間やし、聖書(パウロ書簡を除く)や主イエスの教えに逆らう者こそ滅びる。

       (真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義四」)

 

 上記引用文が分かり易いので引用させていただきました。聖書(パウロ書簡を除く)が神の御言葉であると信じる人ならば、神である主イエスが御自身の発せられた言葉が記されている聖書に忠実(聖書原理主義者)であられたと信じているはずです。もしキリスト信仰者でそのことを信じていないという人が居るならば、「神は御自身の発した言葉を守らない偽り者だ。」と言っていることと等しいことに気付くべきです。それ故に、聖書原理主義者を批判する人は、神をも批判する人であるのです。主イエスは、「自分を捨てて、我に従いなさい。」(マタイ十六章二十四節、マルコ八章三十四節、ルカ九章二十三節参照)と教えられました。キリスト者ならば、この教えをも信仰の基礎としているはずで、この教えのとおりに生きているならば、自我を捨てて、主イエスを模範として生きるはずです。よって、キリスト者は皆、主イエスが聖書原理主義者であられたように、同じく聖書原理主義者なのであり、その批判者は皆、反キリストであるのです。当ブログでも何度も言及していることですが、とても重要なことなので再度書かせていただきました。

 

 ここまでの話でも分かるように、キリスト者ならば主イエスの教えが心に根付いており、その教えを基礎として信仰生活を送っているはずです。その教えを無視しているならばキリストの弟子とはいえません。それではここからは新約聖書に出て来るエルサレム近郊のベタニアに住んでいたマルタを例に挙げて主イエスの教えが心に根付くとはどんなことか考えてみたいと思います。マルタは妹マリアと弟ラザロの姉でした。主イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。(ヨハネ十一章五節参照)と書いてあるとおり、主イエスが常に気にかけておられた兄弟姉妹でした。御自身の教えを素直によく聞き、忠実に守っていたキリスト者であったからではないでしょうか。同じくヨハネ十一章で主イエスがラザロを生き返らせるためにベタニアに出向かれた時に、マルタとお話になった箇所で主イエスが、「あなたの兄弟は復活する」(ヨハネ十一章二十三節参照)と言われた後、直ぐにマルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」(ヨハネ十一章二十四節参照)と言ったと書かれています。このマルタの言葉が主イエスの教えが根付いていることの証明になります。確かにマルタは主イエスが重ねて教えられた復活についての教えを口にしたからです。現代のキリスト者はどうでしょうか。冒頭で引用したヨハネ六章三十九節と四十節の主イエスの教えを各自が読み、信じて、心に根付いているならば、マルタと同様の発言をするでしょう。しかし、現代のキリスト者で復活に望みをかける信仰を持つ人をわしは多くは知りません。大多数は携挙に望みをかけていることでしょう。携挙は間違いなく起こりますが、それは主イエスの再臨の時、即ち、終末に起こります。最早、携挙については多くを語りませんが、携挙について詳しく知りたい方はこちら(真の聖書福音と預言「携挙の真実」)から聖書的真実を受け入れることをお勧めします。

また、マルタは別の箇所(ルカ十章三十八節~四十二節参照)で、主イエスと弟子たちが彼女の家に来た時にもてなしをした際に、自分だけが主イエスと弟子たちのために忙しく給仕をしている最中、妹のマリアは、主の足許でお話をゆっくり聞いていたことに疑問を持ち、主イエスに妹にも給仕を手伝うように言ってくださいと言いました。しかし、主は次のように答えられました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。(ルカ十章四十一節~四十二節参照)当該聖句の状況下であれば恐らく多くの人が、マリアにも給仕を手伝うように諭すはずで、そのような考え方がいわゆる一般的な人間的な考え方だと思われますが、主イエスはそのようには仰りませんでした。「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とはっきりと明言されました。この御言葉から、神は人間の自由意志を尊重され、どんな事であれ各自が選んだことを奪うことは神の御意志ではないということが読み取れるのではないかとわしは考えます。そして、神は各自が良いと思ったことを、真心を込めて一心に行うことを喜ばれるのではないかとも考えます。当初マルタは、主イエスやその弟子たちのために給仕をすることを自ら選びました。一方マリアは、主イエスのお話を聞くことを自ら選びました。どちらも必要で重要なことであると考えますが、主イエスから直接お話を聞ける機会が何度もあるとは思えないことからより良い方はマリアが選んだ方だとわしは思います。ただ、給仕をする人も居なければならず、大切な仕事であることに変わりはありません。よって、各自が選んだ仕事を神の為、隣人の為に、真心を込めて一心に行うことが、神から求められ喜ばれることだと考えます。また、この箇所からわしは、自分をよく弁えて、自分の役割を認識し、その役割を懸命に行うことの重要性をも学ぶことが出来ました。自分を弁えず、自分の役割を逸脱して道を逸れる例として、例えば、旧約聖書の民数記十二章に記された箇所が教訓になります。民数記十二章二節では、モーセの兄であるアロンとモーセの姉であるミリアムが「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。」と発言しました。自分の分を弁えず、自分の与えられた役割を逸脱したその発言を主は聞かれ、姉のミリアムは重い皮膚病に罹ったという事件がありました。それ故に、自分をよく弁えて、自分の役割を的確に認識し、自分で選んで、真心を込めて奉仕する心が肝要だと学びました。

話が少し逸れましたが、マルタは主イエスから多くのことに思い悩み、心を乱していることや妹のマリアが選んだことを取り上げてはならないことを諭されましたが、この件に関して、彼女が主イエスにどのような返事をして、心でどのように思ったのかは聖書には書かれていません。しかし、恐らく時系列では当該出来事の後になるであろうヨハネ十二章に(主イエスが十字架に架かられる過越祭の六日前の出来事が記されている箇所)この出来事からマルタが何を学び、どのように考えたのかを伺い知ることが出来るのではないかと思われる記述があります。それは次の聖句です。イエスの為にそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ十二章二節~三節参照)当該聖句でも先の聖句での状況と同じで、マルタは給仕をしており、マリアは給仕をしていませんでした。マリアは以前主イエスの足許でお話を聞き、主イエスの身に近々起きることを悟っていたので、埋葬の準備のために、非常に高価な香油を主の足に塗っていました。しかし、マルタは前回の主イエスの諭しを素直に受け入れて、自分の役割を今一度よく認識し、真心を込めて、主イエスの為、弟子たちの為に、給仕したのだろうと、わしはこの場面を読んで思いました。主イエスの御言葉がマルタに根付いたのではないかと考えます。今回もマリアは、マルタより重要な仕事を行いました。しかし、どちらも人手が必要であり、どちらも必要な仕事であることは間違いありません。自分を弁えて、自分の役割を認識して自分で選び取り、自分で選んだことを神と隣人のために、真心を込めて行うことが何よりも大事だとマルタとマリアの仕事ぶりを見て思います。もし、マルタに強い肉の思いがあって、マリアを妬んでいたならば、その場には平和ではなく混乱が生じたことでしょう。ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる悪い行いがあるからです。(ヤコブ三章十六節参照)と聖書に書いてあるとおりです。ねたみや党派心は、地上のもの、肉欲的なもの、悪魔から出たもの(ヤコブ三章十五節参照)であり、そのようなものが存在する場所には真理は無いので、もしあなたがそのような場所に居るなら、すぐにその場所から離れるべきです。神の王国では何一つ混乱など無いのですから、人に肉の思いがあるならば、神の王国には入国出来ません。上から出た知恵は、第一に純真で、更に平和で、優しく、従順なものです。(ヤコブ三章十七節参照)とも書いてあるように、個人的にはマルタからはそのような品性が感じられ、争いの無い平和な王国とは彼女のような品性の人たちが支える世界なのではないかと考えます。ねたみや党派心等から生じる争いが無い神の王国に入国が許される人は本当に幸いだなと思います。

 

 

・主の御言葉が根付いていた人の言葉から学ぶ

 

 先に述べたとおり、マルタは心が純真で、平和で、優しく、従順な品性であったが故に混乱ではなく平和をつくりだす人であり、主イエスの御言葉を聞いて素直に受け入れ、主イエスの御言葉のとおりに実践したので、心に主の御言葉が根付いていた人ではないかと推測します。反対に主の御言葉が心に根付かない混乱をつくりだす人は、心が不純で、粗暴で、不従順な品性であり、神より自分を愛するあまり主イエスの御言葉を聞いても素直に受け入れず曲解し、主イエスの御言葉のとおりに実践しないので心に主の御言葉が根付かないのではないかと考えます。

どのような人が、主の山に上り、聖所に立つだろうか。それは、清い手と清い心を持つ者。(詩編二十四編三節~四節参照)や実に、神はイスラエルに、心の清い人に、恵み深い。(詩編七十三編一節参照)等の御言葉からも、神は心が清い人を憐れまれることが分かります。心が清い人の特徴といえば、先のヤコブの聖句にもあったように、平和的(温和)で、優しく、従順であることが挙げられます。「ところで、モーセという人は地上の誰よりも大層従順やった。」(民数記十二章三節 ミカエル氏訳 真の聖書福音と預言「イキる自称キリスト者になるな、騙されるな」より引用)と旧約聖書でモーセの品性について書かれているように、モーセは地上の誰よりも大層従順であるという品性故に、神が憐れまれ、同じ時代に生きたどの神の民よりも特に大きく用いられ恵みを与えられたのでしょう。また、新約聖書で主イエスが四人の漁師を弟子に選んだ箇所では、主イエスの声掛けに対して、四人は直ぐに網を捨てて、彼に従った。(マタイ四章十八節~二十二節、マルコ一章十六節~二十節参照)と書いてあるように、直ぐに世俗の仕事を捨て、主イエスに従った大層従順な人たちでした。それ故に、神はモーセを選ばれたように彼らを選ばれたのでしょう。主イエスから、我はあなたに天の王国の鍵を授けよう。(マタイ十六章十九節参照)とまで言われた十二使徒筆頭のペトロは、間違いなく主の御言葉が心に根付いていた人でした。言い換えれば、彼は真のキリスト者です。ここからは、彼が述べたことを一つ取り上げて、わしなりに考察していきたいと思います。彼が自身の書簡で述べた言葉で今回取り上げたいのは、これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、我らの主また救い主イエス・キリストの永遠の王国に入る権利が、あなたがたに豊かに与えられるからである。」(ペトロ二 一章十節~十一節参照)と述べられたこれらのことについてです。主イエスから天の王国の鍵を授けられた十二使徒筆頭のペトロが、これらのことを実践すれば、決して罪に陥らず、主イエス・キリストの永遠の王国に入る権利が与えられるとまで述べておられる超重要事項だからです。また、使徒ペトロは、「これらのこと」を自分が生きている間と世を去った後をも絶えず思い出してもらうように努めるとまで述べられており、如何にこのことが重要事項であるのかが伝わってきます。それでは、下記に使徒ペトロが実践すべきと述べられた「これらのこと」が書かれた聖句を下記に引用します。

 

だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、 信心には兄弟愛を、兄弟愛には慈愛を加えなさい。 これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、我らの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。(ペトロ二 一章五節~八節参照)

 

ここからは、上記のペトロの言葉で彼が実践すべき事として挙げた八つの事について順に考察していきます。

 

・すべては信仰を持つことから始まり、正しい信仰が基礎となる。

 

(一)信仰

 人は信仰を持つことからすべてが始まります。上記の使徒ペトロの言葉も当然ながら信仰から始まっており、それを基礎として様々なものを加えていくようにと述べられています。よって、その基礎である信仰自体が間違ったものでなく堅固でなければ様々なものを積み上げていくことは不可能になります。

例えば、信仰を持ったということは、目には見えない神が確かに存在されているということを悟ったということですが、信仰の対象である神が唯一の本物の神でなければ信仰は始まりません。八百万の神であったり、様々な偽神であったりを信仰の対象にしているのであれば、偶像崇拝の罪を増し加えているだけです。また、主イエス・キリストは神ではないと言っているエホバの証人等のカルト宗教信者も正しい信仰に基づかず基礎が無いので様々なものを基礎の上に積み上げていくことが出来ず、キリスト者としての成長は初めから望めません。本物の神を知るには、市販の聖書(※最初は新共同訳聖書で良い、偽使徒パウロの書簡は除く)を複数回通読する必要があります。そして、聖書通読により本物の神と神の御計画や御意志等を知ることが出来たのなら、神に従う決意をしたはずです。また、自分の罪深さを知り、過去の自分の罪を悔いて、今後は神に対して罪を犯さないように改めようと決心するはずです。

 

悔い改めとは二段階であり、「悔いる」と「改める」の二つ。キリスト者になろうとして挫折する者の殆どが、一旦これまでの生き方や行い等を悔いはしたが、改めることのでけへん人や。過去の言動等を悔いてるだけでは何の意味もあらへんし、ほんまに悔いたなら、改めて、繰り返さへん筈やろ。

      (真の聖書福音と預言「聖書の終末預言五」)

 

 信仰を持ったのなら、早い段階で悔い改めに導かれるはずです。何故なら、主イエスは公生涯を開始される時に、「悔い改めよ。天の王国が近付いたからだ。」(マタイ四章十七節、マルコ一章十五節参照)と最初に悔い改めの勧告を述べられ、伝道を開始されたからです。主イエスのこの御言葉のとおり、信仰を持って最初にすべきことが悔い改めであるからだとわしは考えます。勿論、すべての罪を一度に改めることは不可能ですが、出来ることから速やかに改めていく必要があります。

そして、罪を悔い改めるとしても、罪への正しい認識がなければ真に悔い改めることは出来ません。この罪への正しい認識も信仰の重要な基礎の一つとなります。今回は触れませんが、こちらの記事(真の聖書福音と預言「罪への正しい認識と愛の重要性」)が参考になりますので、よろしければご参照ください。そして、十二使徒のヨハネが、罪とは法を無視して違反することです。(ヨハネの手紙一 三章四節 ミカエル氏訳 真の聖書福音と預言「聖書は六十六巻だけが正典やあらへん」より引用)と述べているように、罪を悔い改めるには、聖なる神の律法(十戒だけでは不十分)を知らなければいけません。

 

 

・信仰の上に様々なものを積み上げていき、主イエスの御品性 (完全なる方)に近付いていく

 

(二)徳

 信仰の上に積み上げていくものとして、使徒ペトロが次に挙げたのが、「徳」でした。徳とは一般的に人に備わった優れた品性や行いを言います。先に述べたとおり、罪を悔い改めるには、聖なる神の律法(十戒だけでは不十分)を学び、学んだことを実践する必要があります。悔い改めとは自分の義を捨て、自分を神の義に合わせていくことであり、神の義が身に付けば、罪を犯さないことになりますし、また、その過程で神の素晴らしい御品性が身に付いていくことになります。即ち、使徒ペトロが述べている徳が加わっていくことになると考えます。優れた御品性をお持ちの方は神以外居られず、優れた品性を身に付けるには、神の御品性である聖なる律法を身に付ける以外方法はありません。主イエスも、神お一人の他に、善い方は居られない。(マルコ十章十八節参照)と述べられているとおりです。故に、聖なる律法を嫌悪して無視したり、守らなかったり、廃止されたと嘘を言い広める人たちは、神の御品性を嫌悪して無視したり、反逆しているのです。口では「主よ、主よ」と言っても、行いは正直であり、神の御品性を嫌悪して無視する彼ら彼女らの内には神への愛は一切ありません。よって、最後に主イエスから「あなた方のことは知らない。」と拒絶され、永遠の滅びが決定するのであって、すべては自分たちで選び取っていることなのです。先述したマルタとマリアの箇所でも神は人間の自由意志を尊重されるが故に、各自の選択を尊重されますが、聖書の至る所に書いてあるように、最後には各自の行いに応じて裁かれます。主イエスが、ルカによる福音書十三章で二度も「あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と述べられたとおりです。

 

(三)知識

 使徒ペトロが知識を加える前に、「徳」を加えるように言ったのは、神の律法はその心にあり、その歩みは滑ることがない。(詩編三十七編三十一節参照)と書いてあるように、神の御言葉が蓄えられるのは心だからであろうと推測します。これから神の御言葉を益々蓄えていこうとしているのに、その貯蔵庫である心が汚れているのでは、聖なる神の御言葉を蓄えるのに相応しくないからです。神の御言葉は清い心に根付くはずです。神は清いからです。それ故に、知識を増し加える前に、徳を加える必要があるのだろうと考えます。神の御言葉が根付くのに相応しい清くて肥沃な心にするために、予め聖なる神の律法を身に付けて徳を加えていくことを使徒ペトロは勧めたのだろうと推測します。そして、徳が備わり始めたら知識を加えていくことになります。我が民は知識不足のために滅ぼされる。お前が知識を拒絶したさかい、我もお前を拒絶して我が祭司にはならへん。お前が神の律法を忘れたさかい、我もお前の子らを忘れよう。(ホセア書 四章六節 ミカエル氏訳 真の聖書福音と預言「聖書は六十六巻だけが正典やあらへん」)と聖書に明確に書かれているように、人は知識不足で滅ぼされます。先に述べたように、神の御言葉、神の律法、掟、戒め(十戒だけでは不十分)という知識を拒絶することは、神を拒絶することに等しく、拒絶する理由は神を嫌悪しているからで、神への愛が無いからだろうと考えます。当ブログでも何度も言及しているように、神への愛があれば、神の御品性である律法を大事にして遵守しますし、神を深く知るためにも聖書を熱心に読んで、研究し、学んだことを実践します。聖書を読んで、研究するだけでは心には根付きません。学んだことを実践して初めて心に根付き始め、それを継続して行うことによってはじめて実を結ぶことになるのだろうと考えます。また、知識という言葉の意味には、「理解すること」という意味もあり、聞いたり見たり読んだりしただけでは完全には身に付かず、それ故に理解したことにはならず、それらを実践して身に付けてはじめて理解したことになり、知識を得たことになるのでしょう。

 

(四)自制

 自制とは、「自分感情欲望を抑えること。」(goo辞書)であり、神の知識が増えれば増えるほど、自分を退けて、自分を神の義に合わせる必要があるので、その都度自制が必要になってきます。誰でも人間であれば、肉の欲と肉の思いがあり、それらを簡単には捨て去ることが出来ず苦しめられる段階かと思われます。肉の思いを優先させるのか(自分の思いを優先させるか)霊の思いを優先させるのか(神の御意志を優先させるか)は各自の自由意志に委ねられています。しかし、キリスト者であれば、自分を捨てて、主イエスに従う覚悟があるので、当然、肉の思いを捨てて、霊の思いで生きます。使徒ペトロは他の箇所でも、魂に戦いを挑む肉の欲を自制するようにと勧告しています。(ペトロ一 二章十一節参照)よって、肉の欲や肉の思いを自制出来ず、悔い改めて霊の思いで生きることが出来ないならば、次の段階にいくことは出来ません。自分の思いを神の御意志よりも優先させているからで、主イエスが神の掟の中で最も重要な掟と教えられた「神を第一に愛すること」(マタイ二十二章三十七節~三十八節参照)に反する故に、自制という段階も非常に重要であると考えます。

また、この世全体が悪い者の支配下にある(ヨハネの手紙一 五章十九節参照)と使徒ヨハネが述べているとおり、この世全体は神に反逆したサタンが統治する世界であるが故に、神の御言葉、神の律法、掟、戒め、神の創造に秩序に従えば、必ずいつかサタンからの妨害や誘惑があります。それらの誘惑等に惑わされず、自制を続けることが肝要です。世を愛してはならず、世にあるものも愛してはあきません。もし誰かが世を愛するならば、御父の愛はその人の内にありません。なぜなら、世にあるすべてのもの、肉の欲、目の欲、生活様式の誇示は、御父からではなく世からだからです。そして、世と世にある欲は消滅します。しかし、神の御意志を行う人は永遠に生きます。(ヨハネの手紙一 二章十五節~十七節 ミカエル氏訳 真の聖書福音と預言「支配層に取り込まれるな」より引用)当該聖句も心に刻み、根付かせて、共に自制を続けましょう。

 

(五)忍耐

 自制を続けていれば、自ずと忍耐力が付いてくるのだろうと考えます。先に述べたように、本来人間は肉の欲や肉の思いを持っているので、自分を聖なる神の掟に合わせていき、自制を続ける段階では、苦しいと感じる時もありますし、耐え忍ぶことも必要です。それを長年続けていれば、辛抱する力である忍耐力が付いてくるはずです。人に忍耐力が備わり始めれば、感情的な言動が無くなり、より理性的な判断ができるようになると考えます。また、忍耐力とは、主イエスの教えである「最期まで耐え忍ぶ者は救われるだろう。」(マタイ十章二十二節 ミカエル氏訳 真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義五」より引用)という御言葉を守り抜くには必須な力であり、神の王国を目指すという明確な目標を持ち続けることも忍耐するには必要であると思います。人の怒りは神の義を実現しないからです。(ヤコブの手紙一章二十節参照)とも書いてあるように、忍耐力が備わっていない人は、神の義がその人の内に完全には根付いていないことになり、更なる悔い改めが必要であると判断できます。

 

(六)信心

 忍耐し続ける段階で多くの困難に襲われることは容易に想像が出来ます。また、実際に多くの困難が襲います。その際、キリスト者は自分や人間ではなく、主なる神に依り頼みます。主は我が力、我が盾 我が心は主に依り頼みます。(詩編二十八章七節参照)と書いてあるとおりです。困難が降りかかっている時に、主なる神に完全に依り頼むという行為は、目に見えない神を信頼し、神に出来ないことは一つもないという信仰がなければ出来ないとわしは思います。信心とは、神に向けての敬虔な行為、お祈り等の行いを表す言葉であり、神への絶対的信頼と畏敬の念から自然と湧き出る行いのことであるとわしは考えます。絶体絶命の危機において、その時に初めに心が依り頼むのは誰なのか、ここまで信仰の上に積み上げてきたものがある人は、主なる神に依り頼むのでしょう。

 

(七)兄弟愛

 困難な状況下において、キリスト者であれば先ず主なる神に依り頼みます。しかし、この世においても当然一人では生きられません。隣人との関わりが必要であり、何より信仰が一致する兄弟姉妹との関わりが心の支えになります。この信仰による一致が重要で、信仰の一致が無ければ、人は互いに完全に分かり合えることはありません。完全に分かり合えることが如何に心の支えになるのかは計り知れません。故に、困難な状況下には神に依り頼んだ後に、信仰の兄弟で励まし合うことが心の支えになります。また、自分一人では考え付かないこと等の有益な助言を得ることによって、困難な状況下を脱することが出来ます。また、主イエスは、「兄弟で互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ十三章三十一節~三十五節等参照)と御命令され、これを新しい掟とされました。主イエスの弟子であるならば、必ず一所に集い、互いに励まし合い、高め合うはずです。また、目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。(ヨハネの手紙一 四章二十節参照)と書いてあるとおりで、兄弟愛を飛び越えて神への愛を語ることなど出来ません。

 

(八)慈愛

 最後に使徒ペトロは、「慈愛」を加えるように書いています。兄弟間で互いに愛し合い、主イエスが生涯に亘って模範を示された慈愛を学び、実践し続けることによって、主イエスの御品性に少しずつ近付くことが出来ます。慈愛には恐れが無く、むしろ完全な慈愛は恐れを追い出す。なぜなら、恐れは罰を伴う上、恐れる者は慈愛によって完全にされてへんからや。(ヨハネの手紙一 四章十八節ミカエル氏訳 真の聖書福音と預言「本物の愛」より引用)と書いてあるように、自分の中に少しでも恐れがあるなら慈愛によって完全にされておらず、罰が伴います。臆病者は地獄行きに定められている(黙示録二十一章八節参照)ことからも、神は完全な慈愛を神の民に求めておられるのです。

 

主イエスは、すべてを捨てて、自分を捨てて従うようにと教えてはるよね。主イエス御自身がこの俗世で支配者になろうとせず、金持ちになろうともせず、命の危機からも逃げず、御自分のお命すら惜しまず神の民の贖罪のために罪も無いのに十字架刑も受忍しはったことで、父なる神に従うとはどないな生き様なのかという模範を見せはった。その慈愛の大きさや生き方を理解し、従わぬ者は神の民ではない。主イエスから直々に学んだ十二使徒たちは、主イエスに従うためにすべてを捨てた。この世と世にあるものを愛するなと使徒ヨハネも手紙で書いたとおりで、真のキリスト者はそないな姿勢と覚悟でなければならぬ。

       (真の聖書福音と預言「二種類の基礎」)

 

 

 

 キリスト者とはキリストに従う者であるということを常に頭に置き、主イエスが示された模範に倣い、共に完全な慈愛を身に付けていきましょう。ここまでは使徒ペトロの言葉を主に考察してきました。こちらの記事(真の聖書福音と預言「キリスト者の成長に必要なこと」)は、個人的には今回の使徒ペトロの言葉を更に詳しく深堀した内容であると感じています。読んだことのない方は是非読んでみてください。

 

・結びとして

 

 今回は主に神の御言葉が心に根付いていた人たちの言動を取り上げて考えてみました。心に御言葉が根付くには、まず心に御言葉が蒔かれなければいけません。主イエスは種を蒔く人のたとえで、「誰でも王国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。」(マタイ十三章十九節等参照)と述べられました。先に引用したように、悔い改めるとは、「悔いる」ことと「改める」ことが必要で二段階の過程を経ることが分かりました。同じ様に、御言葉を心に根付かせるためには、御言葉を聞き(種を蒔き)そして、御言葉を悟る(種を発芽させて根付かせる)という二段階の過程を経る必要があるのではないかと上記の主イエスのたとえから考えます。上記の聖句を御覧になっていただければ分かりますが、「聞く」と「悟る」という二つの動詞が使われていることが、二段階の過程を経るのではないかと考える根拠です。原典(TR底本)を確認しても二つの動詞が使われていました。聖書で御言葉を読んだり、御言葉を聞くことにより、心に御言葉(種)が蒔かれます。そして、次の段階では御言葉を悟る(蒔かれた種を発芽させて根付かせる)必要があります。悟るという言葉の意味には、「迷いがなくなって真理を会得すること。」(国語辞典オンライン)という意味があり、また、会得とは、「十分に理解して自分のものとすること。」(goo辞典)という意味があります。故に、御言葉を悟るには、単に御言葉を読んだり、聞いたりするだけでは足らず、十分に理解して自分のものにするために、聖書研究は欠かせず、更に自分のものとするために、実践することが必要であることが分かります。聖書を読んだり、聞いたりするだけでは御言葉の表面的な経験しかできません。御言葉を心に根付かせるには、更に、御言葉を奥深く知る必要があり、その為には聖書研究や御言葉の実践が欠かせないと考えます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。(ヤコブ一章二十二節参照)とも書いてあるとおり、御言葉を聞くだけでなく、実践することによって心に根付くのでしょう。

 

 最後になりましたが、今回使徒ペトロの言葉を大きく取り上げました。信仰の上に積み上げていくものの中に、兄弟愛があり、それが重要な位置を占めていることがよく分かりました。また、先にも述べたように主イエスは、「兄弟で互いに愛し合いなさい。」と御命令され、これを新しい掟とされました。この掟を守るためという側面もありますが、人は完全では無い故に過ちを犯しますし、一人で居てはそれを指摘し合う事も出来ません。また、他人に奉仕することも、隣人愛を育むことも出来ません。それ故に、こちらの記事(真の聖書福音と預言「兄弟の集いの場に関する告知 再掲」)をよく読んでいただき、納得されましたら、兄弟の集いの場の参加申請を管理人のミカエル氏にしてみて下さい。残された時間は非常に少ないと思われます。お互い後悔することが無いように頑張りましょう。また、共に最期まで歩くことが出来る兄弟姉妹が一人でも現れることを願っています。最後まで読んでいただきありがとうございました。