こんにちは。

今回は「正統と異端について」と題して書き進めます。前回の記事「違和感を放置しない生き方」では、パウロが偽使徒で反キリストであることが、聖書から立証された真実であることを再度取り上げて記事にしました。偽使徒パウロは神の御言葉である聖書に反した言動を取った反キリストであり、それ故、正統から外れているので異端であることは明白です。そして、その異端の教義を信じて疑わない現代の世の諸教会に属す人たちも同様に異端であることは言うまでもありません。本当に主なる神を信じている人ならば、神の御言葉こそが正統であると信じているはずです。そして、神の御言葉から少しでも逸れた思想等は、異端であることが理解出来るはずです。正統とは、創始者の教えのことであるので、万物を創造された主なる神の教えと定義できます。(※以後、本記事の正統とは、主なる神の教えを意味します)よって、正統である主なる神の教えから少しでも外れれば異端です。言い換えれば、正統である主の道から少しでも外れれば、異なった道であり異端です。主の道は天の御国に続き、主の道から外れれば地獄行きです。これは聖書全体から導き出される事実です。しかし、世の諸教会に所属する人たちは、このような聖書から導き出される正統派の言動を聖書原理主義だと非難します。彼ら彼女らがそのように言うのは、すべての異端の父であるローマ教皇フランシスコが、「原理主義に注意しなければならない」と述べたからでしょう。なぜなら、人は、自分を打ち負かした者に服従するからです。(ペトロの手紙二 二章十九節参照)彼ら彼女らは主なる神には従わず、自分たちの父であるローマ教皇に服従しているのです。そして、それは霊的には、この世の神である悪魔に服従していることにもなります。また、彼ら彼女らは、聖書原理主義という本当の言葉の意味を知らないか、知っていても無視しているのでしょう。

 

原理主義とは、聖典等の教義や規範等を遵守し、世俗主義に対抗する思想や態度のこと。つまり、聖書原理主義者は聖書に忠実なええ人になる訳で、主イエス、十二使徒、洗礼者ヨハネ、旧約時代の預言者たちが体現した世捨て人の姿勢がまさにそれやったし、主イエスが神の民として求めてはるんはそないな人間やし、聖書(パウロ書簡を除く)や主イエスの教えに逆らう者こそ滅びる。過去記事「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 前編」で紹介したとおり、ローマ教皇フランシスコは「原理主義に注意しなければならない」と言うたことを紹介したが、あれは彼が聖書に不忠実であることを推奨したものであり、反キリスト発言やということ。

      (真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義四」より引用)

 

上記の引用文に書いてあるとおり、聖書原理主義者こそが正統派なのであり、主イエス、十二使徒、洗礼者ヨハネ、旧約時代の預言者たちは皆、聖書原理主義者であり、神であられる主イエス・キリストは究極の聖書原理主義者です。聖書は我について証しするものである。(ヨハネによる福音書 五章三十九節参照)と主イエスが述べられているように、人間となってこの世に来られた際も、御自身を証しした聖書に反する言動をされるはずもなく、すべて完全であられました。神は人では無いから、偽ることはない(民数記 二十三章十九節参照)ので、御自身を証しした聖書から少しでも外れた言動などされるはずはないのです。主イエスは、我々と同じ肉の弱さを持った人間となっても完全であられました。これは肉の弱さを持っている人間でも完全になることが出来ることを御自身が身を以って証明されるためでもありました。そうでないと、天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい。(マタイによる福音書 五章四十八節参照)とは人間に向けて語ることは出来ません。このように主イエスが語られたからには、御自身で身を持って人間に模範を見せる必要がありました。主なる神は人間に不可能なことを押し付けるような方ではないからです。人間は完全になることが出来ることを御自身が人間になってまで証明してくださったのです。しかし、神の御言葉である聖書のみに依拠する聖書原理主義者を誹謗中傷する者らは、人間は完全になどなれないと主イエスの御言葉と行いに反することを堂々と言いのけ、神の御意志に逆らっています。それが反キリストを証明する言動とは気付いていないようです。繰り返しますが、人間が完全になることが出来ないと本当に思っているなら、先の主イエスの御言葉に逆らっていますし、主イエスの生涯におけるすべての言動を信じていないことになります。故に、そのような人は反キリストです。また、忍耐すれば、完全で、何一つ欠けたところのない人になる。(ヤコブの手紙 一章四節参照)とは聖書(偽使徒パウロの書簡を除く)に確かに書いてある言葉であり、聖書原理主義者を誹謗中傷する者らは、聖書を読んでいないことが分かりますし、神の御言葉を読んで学んでいないので、そもそも正統(創始者の教え)が何か分からず、それ故、正統には属せず、異端に属していることを自白しているのも同然なのです。それなのに、口では、「主よ、主よ」と言い、主イエスを信じますと公言する者が多いです。しかし、彼ら彼女らの言動は明らかに矛盾が見られ、実際は聖書原理主義者であられる主イエスをも誹謗中傷しているのです。そのことに気付いていないのなら、盲人です。「そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。」(マタイによる福音書 十五章十四節参照)とは主イエスがファリサイ派の人々に向けて語られた言葉でした。「我はファリサイ派だ。ファリサイ派の子だ。」(真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義七」使徒言行録二十三章六節 ミカエル氏訳)とは、最高法院の場で偽使徒パウロが発した言葉ですが、これらの言葉からも明白なように、ファリサイ派である偽使徒パウロは盲人なのであり、偽使徒パウロに道案内を受ける人たちも皆、盲人なのです。それ故に、偽使徒パウロの教義を基に作り上げられている世の諸教会の教えは、盲人の教えです。そして、現在においては、この偽使徒パウロによる教えが異端であるにも拘らず、世の権威の一つでもある世の諸教会によって、異端が正統に置き換わっています。

 

世の多数決原理というのは悪魔的原理であり、世に属する人間が圧倒的多数であることを利用した大いなる欺瞞なのです。多数派になれば正しいとか正統という訳ではありません。この世では、間違ったことが多数となり、それが正しいと誤信している人が多く、誤信しているという事実にすら気付いていません。これからはこの多数決原理、多数派が正しいという誤った考えを基に、少数派の正しい信仰が異端かのように吹聴する者が増え、聖書の真理から逸れる背教者が増えます。

     (真の聖書福音と預言「預言者と偽預言者の違い」より引用)

 

異端である世の諸教会の教え(偽使徒パウロの書簡に基づいた教え)があたかも正統の教えであるかのように世界中で定着したのは、上記引用文の悪魔の多数決原理が利用されました。この世全体が悪い者の中にある(ヨハネの手紙一 五章十九節 ミカエル氏訳 真の聖書福音と預言「二種類の基礎」より引用)のであって、この地全体が、この世の神である悪魔に統治されている以上、正統が多数派を形成することはあり得ません。神に反逆している悪魔が主なる神の教えをこの世で広めるわけがないからです。また、悪魔は多数決原理により多数派が正しいと人間を洗脳していますので、洗脳されている人間は、必然的に少数派は間違っているという考えを抱くことになりますが、その考えは悪魔に洗脳された結果、自動的に抱かされている考えであり、自分自身で考え導き出した結果でないことに気付くべきです。多くの人が自分の頭で考え抜いた結果であると勘違いしているのではないでしょうか。それは単に多数決によって決められたことが多くの人の支持を受けているので正しいと何も考えずに自動的に従っているだけです。多数決原理に流されているならば、何一つ自分で調べず、自分の頭で考えず、それらを基に理性的に判断していないので、自分自身で考えたことにはならないのです。この悪魔が支配する世界は、多数決原理により多数派が正しいといった誤った考えを基に動いているので、悪魔の策略によって異端が正統に置き換わるのは簡単なことであることが理解できるのではないでしょうか。よって、現在、世界中に広まり正統と思われている偽使徒パウロの書簡に基づいたすべての世の諸教会による教えは、間違いなく異端であり、悪魔の策略により、異端が正統に置き換えられたものなのです。主イエスは、滅びに通じる広い門と広い道を行く者が多いが、命に通じる門とその道は狭く、それを見出だす者は少ない。(マタイによる福音書 七章十三節参照)とおっしゃいました。明らかに世の諸教会で教えられている偽使徒パウロの書簡に基づく教義は、広い門と広い道であり、ほとんどの人が歩いている多数派の道です。主イエスの御言葉をよく聞いてください。悪魔の策略に惑わされないようにしなければいけません。そして、終末に向けて、益々、この悪魔の策略は加速していきます。

 

今後、ますます世の間違った多数決原理の下、異端が数多くなり、彼らは自分たちの思想やローマ教皇の思想が正統と主張し、少数の真理を主張する者が異端扱いされる時がすぐ来ます。即ち、世の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来る(マタイ24:21)という大艱難を意味します。これは、ローマ教皇が世界を支配したとき、神の民(真のキリスト者)を徹底的に迫害することを指します。ローマ教皇本人のみならず、彼に従うすべての人々が敵となるということです。

    (真の聖書福音と預言「真のキリスト者であるためになすべきこと」より引用)

 

正統である神の民の数が予め定まっているように、異端の数も予め定まっているのであり、その異端の数が満ちる時、上記引用文にあるとおり、少数の真理を主張する正統派である神の民が異端扱いされる大艱難時代が到来します。その到来は、ローマ教皇が世界を支配した時、即ち、この世界で新世界秩序(NWO)が完成した時に訪れます。その完成はそう遠くない未来に訪れそうです。それはこの世の動向を観察していれば誰にでも分かることです。こちらの記事(真の聖書福音と預言「迫り来る暗黒の新世界秩序(NWO)と意識改革」)は、二千十八年に書かれた記事ですが、記事の内容の多くのことが日本でも現実になろうとしていますし、既に実現されているものもあります。もう本当に残された時間は少ないようです。よって、支配層が新世界秩序樹立のために行っていることや行おうとしていることに反対の声を上げて行動し、非暴力・不服従を貫き通すことは勿論必要なことですが、それと同時に聖書を複数回通読し、聖書全体から導き出される真理を理解して、それを実践することが何よりも重要です。そして、聖書通読と共に、アメブロの記事である「真の聖書福音と預言」を最初から順に読み進めることを強く推奨します。なぜなら、わし自身も聖書通読と共に「真の聖書福音と預言」を読み進めていきましたが、自分では理解出来ない聖書の箇所の理解の助けになったからです。また、このブログに書いてあることはすべて聖書的であり、聖書から外れた言論は一つもないことをわしは確認していますので、推奨しています。悠長なことを言っている時間など有りません。今すぐに行動されることをお勧めします。時が来てローマ教皇が全世界を支配した時、彼の秩序に従う者は皆、黙示録に書いてある獣の刻印(目には見えない霊的な刻印)を受けて第二の死である地獄行きが確定します。獣の刻印については、こちらの記事(真の聖書福音と預言「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」)をご参照ください。信じるか信じないかに拘らず、すべての人間が死後に裁きを受けて、死まで正統であった者は、永遠の命を得て生きて、それ以外の者は、永遠の刑罰を受けることが定まっています。それ故に、すべての人間が死後にそのことに気付き絶望することが無いようにすべきです。命がある内に聖書を読んで、自分自身の意志で永遠を分かつ決断をすべきです。この事実を周知するためにも、真の聖書福音と預言の著者であるミカエル氏やその活動に賛同する兄弟たちが、残りの自分の人生を費やして活動しています。莫迦なことを言っているなと思う人はもうどうしようもありません。聞く耳のある人は聞いてください。

 

画像引用元:真の聖書福音と預言 動画 [第七回]何故聖書を信じるか

 

 

・聖書から正統と異端を確認する。

 

 繰り返しますが、この世全体が悪い者の中にあり、この世は悪魔の多数決原理に支配されています。それ故に、多くの事柄で多数派を形成するものが正統で、少数派を形成するものが異端だと植え付けられています。これは多くの人が信じていることが正統と洗脳することにより、人間に考えることを放棄させる悪魔の策略です。この悪魔の策略は、聖書から確認出来ますが、古来変わりません。それではノアの時代はどうだったのか、ヤシャルの書の記載内容から確認します。ヤシャルの書について、詳しく知りたい方はこちらの記事(真の聖書福音と預言「聖書の終末預言三」)が参考になります。

大洪水前にノアは神の御言葉に従い、箱舟を造りつつ伝道活動を百二十年に亘り行いました。神がノアと義人エノクの息子であるメトシェラに悔い改めを人々に説くように御命令され、人間に百二十年の猶予を与えられたからでした。しかし、その期間に、ノアの伝道を聞き入れて従った人は一人も居ませんでした。なぜなら、最後に箱舟に乗って、大洪水の被害から免れた人らはノアの家族の八人だけだったからです。ノアとメトシェラの伝道を聞き入れなかった人々の数が何人であったかご存じでしょうか。その数はおよそ七十万人であったとヤシャルの書には書かれています。全体のたった0.001%に過ぎない人らが、大洪水の被害を免れたに過ぎないのです。ノアの時には、正統がたった八人しか居なかったのであり、異端がおよそ七十万人も居たということなのです。恐らく当時の七十万人の人たちは、自分たちが多数派に属していたので安心し切っていたのでしょう。極少数派であったノアやその家族やメトシェラを莫迦なことを言い続けている狂人とさえ思ったのかもしれません。百二十年もの間、滅んだ七十万人の人たちは、神を知ることや悔い改めて神に立ち返るべきだと言い続けた忍耐の人であったノアたちを嘲り、神など居ないと言い、神を無視し続け、神の律法、掟、戒め(十戒だけでは不十分)に立ち返ることは残念ながらありませんでした。当時に陰謀論という言葉があったならば、現代のように陰謀論者と嘲られていたのでしょうね。しかし、七十万の人たちは、四十日間雨が降り続けた後、大洪水が起こった時、ノアの箱舟を取り込んで、「あんたの箱舟に入れてくれ」、「我等は主に立ち返る用意がある。」等の言葉を叫びましたが、時既に遅しで、神の恩恵期間が終了していたので聞き入れられることはありませんでした。その時、ノアは、彼らに対して、「あんたら全員、神は居らんと言い、主に逆らったではないか。」等述べたと書いてあります。終末の時代である現代について主イエスは、ノアの時のようだと述べられました。そう遠くない未来に、ノアの時と同じことがあることを悟って、神を知り、神に立ち返るべきです。

 

画像引用元:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 三」

 

 

また、旧約聖書の列王記上 十八章では、主なる神の預言者エリヤとバアルの預言者たちとが対峙する箇所があります。主なる神の預言者エリヤはたった一人で、イスラエルの王であるアハブに物申し、バアルの預言者四百五十人とアシェラの預言者四百人と異端であったイスラエルのすべての人々とをカルメル山に集めて対峙しました。この箇所でも、正統は主なる神の預言者エリヤただ一人だけであり、その他の多数派は異端でした。アハブ王はエリヤと対峙した時に彼に、「お前がイスラエルを悩ます者か。」と言いましたが、エリヤはイスラエルの王に対しても怯むことなくはっきりと、「我がイスラエルを悩ましたのではない。あなたとあなたの父の家が悩ましたのです。あなた方が主の掟を捨て、バアルに従ったためです。」と明言しました。正統である預言者エリヤは、世の権威に対して臆せず、王に対して間違っていることは間違っていると断言しており、人を恐れず神を畏れる人であったことが分かります。また、当然、彼の発した言葉から、主なる神の掟を守っていたことが分かります。神の掟を守ることが神を愛すること(ヨハネの手紙一 五章三節参照)であると聖書に書いてあるとおりであり、主の掟を捨て、主の掟を無視しているバアルに従っている者たちが、主なる神を愛しているはずなどなく、異端なのは明白です。預言者エリヤだけでなく、先述したノアもそうであったように、正統は例外なく神を愛しているので、神に従順であり、それ故に、神の掟を守ります。このことは聖書全体から確認できる事実の一つでもあります。また、正統は多数派に属さず、多数派に流されて悪を行わず、ノアやエリヤのように賛同者が居なくても、神の義を貫き通します。あなたは多数に従って悪を行ってはならない。(出エジプト記二十三章二節参照)という神の掟を貫き通しているからです。また、たとえ、この神の掟が無くても、多数派の同調圧力等に負けて、多数派に流されてしまい悪を行ってしまえば、自分も悪人の仲間に成り下がることを知っているのです。預言者エリヤは、たとえ一人でも、多数派と対峙した時には臆せず、神の義を貫き通し、悔い改めを勧告しました。今後、真のキリスト者である人は、たった一人で多くの人と対峙する時が来るのかもしれません。一人対百人、一人対千人、一人対一万人等何人と対峙するのかは分かりませんが、そのような時が来るのかもしれません。その時に、臆病になってしまい、多数派に屈してしまえば、今までの忍耐が水の泡となります。新約聖書の黙示録二十一章八節に書いてあるとおり、臆病者は第二の死である地獄行きに定められているからです。しかし、人間は皆弱いです。だから、信仰の兄弟で集い、お互いを高め合い成長し、信仰を厚くしていく必要があります。一人ではどうすることも出来ないのです。それ故にこちらの記事(真の聖書福音と預言「兄弟の集いの場に関する告知 再掲」)をよく読んでいただき、納得されましたら、兄弟の集いの場の参加申請を管理人のミカエル氏にしてみて下さい。共に励まし合い、最期まで励まし合える兄弟が現れることを願っています。

 

 聖書を読んだことのある人ならご存じでしょうが、主イエスが受肉されこの地に居られた時、創造主であられ神である主イエスでさえも、この世全体が悪い者の中にあるが故に、異端扱いを受けていました。下記聖句からもそのことが読み取れます。

 

さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。」(ヨハネによる福音書七章四十五節~四十八節参照)

 

当該聖句であの男やあの人と訳されているのは主イエスのことです。ファリサイ派の人々が下役たちに言い放った「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。」という言葉から当時の主イエスの状況が読み取れます。世の権威である議員やファリサイ派の人々が多数派であったのに対して、主イエスは彼らからの支持は無いに等しく、彼を支持していた人は殆ど居なく少数派で異端扱いを受けていたことが窺い知れます。そして、ファリサイ派の人々が発した言葉からも分かるように、悪魔の多数決原理により、彼らは自分の信じることを決めていたようですね。多数決原理に流されず、自分の頭で考える人なら、議員やファリサイ派の人々の中に主イエスを信じる人が居ようが居まいが、主イエスが述べ伝えることが真理であると理解したならば、人に流されることなく信じるはずですが、ファリサイ派の人々は、実で判断せず、多くの人たちが信じているということだけを根拠にして、多数派に倣って自身の信仰を決定していたことが分かります。彼らはまんまと悪魔の策略に引っかかり、多数決原理で自分の道を決定し、それをあたかも自分の思考の末に決定したことだと勘違いさせられ、多数派が信じていることが正統だと思い込まされているに過ぎません。このように、悪い者が支配するこの世では、悪魔の多数決原理により、正統が異端に、異端が正統に置き換えられ、少数派が異端で多数派が正統だと洗脳されていることが多くあることに注意すべきです。

 

・正統と異端の違いについて考える。

 

 それでは、ここからはもう少しだけ具体的に聖書から正統と異端の違いについて考えてみます。過去に当ブログの記事「偽使徒パウロ一派 ルカの書物の罠」で言及した内容と被る部分がありますが、再度書きます。これから言及する正統とは、神であられる主イエスは勿論のこと、主イエスから直接選ばれた十二使徒たちを言います。もし彼らが我が言葉を守っていたなら、彼らはあなた方の(言葉)をも守るだろう。(ヨハネによる福音書十五章二十節 参照)とは、主イエスが十二使徒たちに語られた言葉です。主イエスは、誰でも御自身の言葉を守るなら、その人たちは主イエスの弟子である十二使徒たちの言葉をも守るであろうと語られたのです。それ故に、十二使徒たちの言葉は、神のお墨付きを受けており、信用に値するのであり、当然、正統です。そして、反対に異端とは、聖書に反した言動を取る人であり、主イエスの言葉を守らず、十二使徒たちの言葉をも守らない人のこと、言わば、反キリストのことです。それは神に逆らう悪魔であり、人間の中の代表格が偽使徒パウロです。前回の記事「違和感を放置しない生き方」でもこの事に言及しましたので、ご高覧いただけると幸甚です。それでは、正統と異端の言動を聖句から比較します。

 

<正統の言動>

ペトロが到着した途端に、コルネリウスは彼を出迎えて、足元にひれ伏して、拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。我自身も同様に人間です。」

(使徒言行録 十章二十五節から二十六節 参照)

 

上記聖句で十二使徒筆頭のペトロは、自分の足元にひれ伏したコルネリウスに直ぐに止めるように言いました。それは唯一の神である主以外に仕えたり、ひれ伏すことは偶像崇拝であり罪であること(申命記五章、六章等 参照)をよく知っているからであり、当該聖句から使徒ペトロは、その神の掟を知るだけでなく実践していることが分かります。主イエスが悪魔の誘惑を受けた際に、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。(マタイによる福音書四章十節等 参照)と仰って、聖書の御言葉を基に悪魔を退けられましたが、十二使徒たちは、主イエスから直々に、その神の御言葉を教えていただいていたはずです。十二使徒らは、神の御言葉を単に知るだけでなく、実践していたということがここでは何よりも重要なことであると考えます。

 

その時、彼(天使)は我に言った。「注意せよ、(そのようなことを)してはならない。何故なら、我はあなたの僕仲間だからだ。あなたの兄弟である預言者たちやこの書物を守る者たちも。神に礼拝せよ。」(黙示録 二十二章九節 参照)

 

また、上記の聖句は天使が語った言葉です。主なる神にお仕えしている天使たちは、当然、神の掟を守っています。驚き恐れおののいて、自分の置かれた状況が掴めず訳が分からなくなってしまった十二使徒のヨハネは、思わず天使に平伏したのでしょうが、直ぐに天使は、自分では無く、神に礼拝するように注意しました。この天使の言動からも正統のあるべき姿が学べます。

 

<異端の言動>

「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。

(マタイによる福音書四章九節等 参照)

 

上記は異端の親玉である悪魔の言葉です。彼は初めから神に反逆しており、神の掟にことごとく逆らう反キリストです。それは彼が発した上記の言葉だけで十分証明が出来ます。先述したように、偶像崇拝は神の掟に逆らう大罪だからです。この悪魔のように人間が自分を礼拝させることは、悪魔的な行いであり、神に反逆する者の大きな特徴の一つとも言えそうです。これからそう遠くない未来に、地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた子羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。(ヨハネの黙示録 十三章八節 参照)と預言されているように、神の民ではない人間は、すべて獣を拝むとあります。この獣とは、数多い反キリストの中で最も強力な反キリストであるローマ教皇です。詳しくは、こちらの記事(真の聖書福音と預言「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」)でご確認いただければと思います。異端の言動を上記の正統の言動と比べるまでもありませんが、正統は神を畏れ敬うので、直ぐに自分に向けての礼拝を止めさせます。反対に異端は、偶像崇拝という重大な罪を知っているにも拘らず、神への愛が無く、自分自身を神とさえ思っているために、自分に向けての礼拝を止めさせることはなく、礼拝を強要さえするのです。

 

その時、灯かりを取りにいって、彼(看守)は駆け込みおののいて、パウロとシラスに平伏した。そして、彼らを外に連れて行き、こう言われた。「先生方よ、我は救われるために何を行わなければならないのでしょうか。」彼らは言った。「主イエス・キリストについて信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われるだろう。」(使徒言行録 十六章二十九節から三十一節 参照)

 

上記聖句からも分かるように、パウロは看守の自分に向けての礼拝を止めさせませんでした。ここに十二使徒筆頭のペトロとの大きな違いがあります。パウロはタルソス出身でありながら、エルサレムに留学しに行ってガマリエルというファリサイ派上層部の教師から聖書について英才教育を受けた。(真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義二」より引用)と引用文にあるように、パウロは聖書を熟知していました。パウロは、偶像崇拝が重大な罪であることは重々承知しているはずなのに、その掟を守りませんでした。何故でしょうか。それは彼が神の掟を守らないのは、神を愛しておらず、神より自分を愛しているからです。何度も言いますが、神の掟を守ることが神を愛すること(ヨハネの手紙一 五章三節参照)であるからです。反対にペトロはガリラヤ地方出身の漁師で、無学でしたしかし、彼は主イエスから受けた教えを知るだけでなく、忠実に守っていたのです。それは彼が神を愛していたからで、神を裏切りたくないからであろうと、わしは推測します。このように正統と異端について考えてみると、双方の根底に流れる最も大きな違いとは、神への愛が有るか無いかと言えます。そして、その神への愛の証明が、神の掟を守るか守らないかの行いでなされるのです。ペトロは神の掟を行い、偽使徒パウロは神の掟を行いませんでした。両者とも、神の掟を知っていたにも拘らず。そして、現代の偽使徒パウロ信者は、自分で聖書を読まない人が多いので、神の掟を知らない人が多く、それ故、行いません。このような神を知ろうともせず、神の御意志を行おうともしない態度には、神への愛が一切ないことに気付くべきです。口先だけで、「主よ、主よ」と言っても、最後にあなたのことは知らないと言われるのです。直ぐに悔い改めて、主イエスへの信仰故に、神の律法、掟、戒め(十戒だけでは不十分)に立ち返るべきです。

 

 上述したように、パウロは聖書の英才教育を受け聖書に精通した人でしたが、ペトロはガリラヤ地方出身の漁師で、無学でした。ペトロは、パウロの書簡には、難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いている。(ペトロの手紙二 三章十六節 参照)と自身の書簡で警告しています。何故、聖書の英才教育まで受けた聖書に精通しているはずのパウロの書簡は理解しづらいのでしょうか。また、反対に、無学であったペトロを筆頭とする使徒たちの書簡は何故分かり易いのでしょうか。本来、人に分かり易く説明するためには、その事柄を十分に理解する必要があります。そして、理解の前提には当然物事を記憶しなければいけません。パウロは、聖書の英才教育まで受けていたのですから、聖書を十分に記憶していたことでしょう。しかし、こちらの記事(STUDY HACKER 学び続けるビジネスパーソンへ)にも書いてありますが、「うまく説明できない」のであれば、それは「理解していない」ことを意味するのです。また、アルベルト・アインシュタイン言葉に、『6歳の子どもに説明できなければ、理解したとは言えない』いう言葉があります。ここで言う「説明できる」とは、「人に理解してもらえるように、分かり易く話す」ことを言うはずです。故に、パウロは聖書の英才教育を受けていたにも拘らず、聖書を理解していなかったのであり、反対に無学の漁師であったペトロや他の使徒たちは分かり易く説明ができることから、聖書を真に理解していたと言えます。こちらの記事(Learn Tern [理解の6側面]理解をするとは何か、説明できますか? )では、理解の六つの側面として、真に理解が出来ているならば出来るはずであることが、六つ書かれています。その中の三つ目に書かれているのは、真に理解が出来ているならば、「応用できる」と書いてあり、更には、「理解が出来ているなら実践できるはずでそれが応用」という主旨が書かれています。人は理解していることしか実践出来ません。よって、実践出来ないなら、分かり易く説明も出来ないということになります。先述したように、パウロは神の掟を知ってはいましたが、実践はしませんでした。こちらの連載記事(真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義一」)にも書いてあるように、パウロは神の掟を知ってはいますが、実践はしない反キリストです。パウロが実践しない、または、実践出来ないのは、真に聖書の理解が出来ていないのであり、それ故に、彼は分かり易く聖書を説明することが出来ないのであって、彼の書簡は理解しにくいのだろうと推測出来ます。反対に、ペトロや他の使徒たちは、神を愛しているが故に神の掟を実践しているので、真に神の御言葉を理解しているのであって、それ故に、彼らの書簡は分かり易いのだとわしは考えます。このように、正統は、神を愛しているので神の掟を守り実践するので、それが神の御言葉の真の理解へと繋がり、神の御言葉がその人の中に根付き、分かり易く説明が出来るのであろうと考えます。反対に、異端は、神より自分を愛し、それ故に、神の掟を無視して実践しないので、神の御言葉の真の理解には至らず、神の御言葉は当然ながらその人の内には根付かず、分かり易く説明が出来ないのだろうと考えます。

 

 今回は正統と異端について考えてみました。この世全体が悪い者の中にあるので、すべての人間は悪魔の支配下にあります。多数派は悪魔の策略に引っかかっているのが現状であり、この世の多くの事柄が多数決原理により曲げられています。そして、この世では聖書真理も多数決原理により完全に捻じ曲げられています。正統とは、神を愛するが故に神の掟を守る人であって、主イエスへの信仰があります。彼らは主イエスの言葉を守っているからです。反対に、異端とは、神より自分を愛するが故に神の掟を守らない人であって、主イエスへの信仰はありません。彼らは主イエスの言葉を守っていないからです。口先だけで、「主よ、主よ」と叫びながらも、主の言葉を守らず、行わないからです。異端の頭は悪魔であり、彼らは地獄行きが定まっています。その異端の道を人間も歩き続ければ、同じように地獄行きになります。それはたとえ悪魔に騙されていて、気付かなかったとしても同じ結果になります。もしこの記事を読んで少しでも共感していただけるならば、一日も早く聖書通読を開始して、少しずつでも実践し始めてください。そして、聖書通読と共にこちらの真の聖書福音と預言のブログを初めから読み始めることを強く推奨します。また、先述しましたが、一人では信仰を厚くすることは不可能です。こちらの記事(真の聖書福音と預言「兄弟の集いの場に関する告知 再掲」)をよく読んでいただき、納得されましたら、兄弟の集いの場の参加申請を管理人のミカエル氏にしてみて下さい。最後までお読みいただきありがとうございました。