アーティゾン美術館で開催中の「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ」展へ行ってきました。
19世紀末から第一次世界大戦が勃発するまでの間、フランスが平和と豊かさを享受することができたベル・エポックの時代。
この時代にパリの都市機能は進化し、大衆消費社会が形成されました。
一方で、この時代は芸術を生み出す活気と自由な雰囲気にも満ち溢れていました。
1884年には無審査と前提とするアンデパンダン展が、1903年にはサロン・ドートンヌが創設され、画家たちの発表の場は急速に広まっていきました。
これらの展覧会を舞台に、やがてはフォーヴィスム、キュビスムなどの新しい美術が芽吹いて花咲きました。
本展は、20世紀美術の主要な動向である抽象絵画の歴史を、その発生からおおよそ1960年代までの展開に沿って、フランスを中心としたヨーロッパ、アメリカ、日本の作品で展観します。
展覧会の構成は以下の通りです。
Section1 抽象芸術の源泉
Section2 フォーヴィスムとキュビスム
Section3 抽象絵画の覚醒ーオルフィスム、未来派、青騎士、バウハウス、デ・ステイル、アプストラクシオン=クレアシオン
Section4 日本における抽象絵画の萌芽と展開
Section5 熱い抽象と叙情的抽象
Section6 トランス・アトランティックーピエール・マティスとその周辺
Section7 抽象表現主義
Section8 戦後日本の抽象絵画の展開(1960年代まで)
Section9 具体美術協会
Section10 瀧口修造と実験工房
Section11 巨匠のその後ーアンス・アルトゥング、ピエール・スラージュ、ザオ・ウーキー
Section12 現代の作家たちーリタ・アッカーマン、鍵岡リグレ アンヌ、婁正綱、津上みゆき、柴田敏雄、高畠依子、横溝美由紀
印象派の画家たちは、伝統的な絵画の手法に抗って陽光の輝きを再現するために戸外へと飛び出し、鮮やかな色彩と大胆な賦彩を使って新しい絵画を誕生させました。
彼らは事物の固有色を否定し、色彩を対象の事物から解放しました。
一方で光や色を通じて見ることを見直すことによって、物の輪郭線を否定することになり、結果として対象からのイメージの自立が促されました。
会場には、ポール・セザンヌの《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》が展示されています。
セザンヌは第1回印象派展に出品した印象派を代表する画家であるとともに、その改革をさらに推し進めた画家です。
目に映る一瞬のきらめきを捉えようとした印象主義の絵画を超えて、堅牢な量感を持ち、永劫に耐えられる強靭さをとどめる絵画にしようと試みました。
それは相反する性格を同一画面に収めようとする極めて困難な課題であり、画家にとって試行錯誤の連続となりました。
これを実現するためにセザンヌは印象派の仲間たちと距離を置いて孤独に制作する道を選び、いくつかのきまった主題を繰り返し描くことによってこの目的を達成することを目指しました。
1880年代の後半には、生まれ故郷である南仏のエクス=ヴィクトワール山の連作を描くようになりました。
やがてそのイメージは、堅牢な画面に躍動感や振動が加味され、鮮やかな色彩に支えられて高度に洗練された作品となっていきます。
これは作家の最晩年に描かれた、その試みの集大成となる作品です。
前景は鬱蒼とした樹木など、いくつかの筆触がひとかたまりの面となり、あたかもリズムを刻むように画面を構成し、その連なりが奥行き感を作り出しています。
唯一の幾何学的形態である黄土色の建造物シャトー・ノワールが中景に配されて画面を引き締めています。
同じ対象を繰り返して描くことによって、情景を目が捉える実体感を残しつつ構築性のある絵画を実現するセザンヌの革新的絵画は、間もなく、キュビスム、フォーヴィスム、そして抽象絵画へと、20世紀絵画の展開に決定的な影響を与えることになります。
セザンヌが故郷エクス=プロヴァンスで没したのは1906年秋のことでした。
その前後4回にわたり、サロン・ドートンヌでセザンヌの作品がまとまって展示される機会がありました。
サロン・ドートンヌは、フォーヴィスムを形成する画家たちが初期より発表の場とした1903年に創立された年次展です。
創設以降、アカデミスムに属さない画家たちは作品を自由に発表していました。
感覚を重視し、色彩は素描に従属せず、画家の主観的な感覚を表現するための手段として自由に使い、目に映る色彩よりも心が感じる色彩を画布に奔放に描いたフォーヴィスムが誕生したのは1905年の同展でした。
一方、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによってキュビスムは、絵画表現における造型的な新しい秩序の確立を目指し、視覚の一大変革をもたらしました。
それはルネサンス以来の遠近法を使った錯覚による空間表現に拠らずに、ものの形態を二次元の画面に総合的に表現しようとする試みです。
絵画制作においてモティーフとなる事物の形態を面の要素へと分解し、二次元上に再構成するもので、それはものの見方の転換を促し、絵画に新しい可能性をひらくことになりました。
二人の画家が、ともにセザンヌに強い関心を持っていたことはよく知られています。
彼らは、印象主義の視覚的な写実表現を放棄し、一方で伝統的な遠近法をも捨てて、形体と色彩に自律的な機能を発揮させるベく、絵画を秩序ある均衡のとれた世界として構築したセザンヌの絵画を手がかりに、新たな絵画創造を模索しました。
展示室では、アンリ・マティス《画室の裸婦》が目を引きます。
マティスは、ギュスターヴ・モローに師事した後、印象派やポスト印象派の影響を受けて自由な筆致と色彩による絵画表現を志すようになりました。
赤と緑、補色の対比が鮮やかなこの作品は、点描技法で描かれています。
新印象派の画家が、科学的な思考に基づいた緻密な筆致で、光に満ちた画面を生み出したのに対して、マティスは自由で不規則な点描を使うことで、色彩をさらに際立たせています。
その表現は、20世紀の幕開けとともに始動したフォーヴォスムの登場を予感させます。
アンリ・マティス《画室の裸婦》(1899年)石橋財団アーティゾン美術館
19世紀末から第一次世界大戦が勃発するまでの間、パリは新たな芸術を生み出す活気と自由な雰囲気に満ち溢れていました。
1884年には無審査を前提とするアンデパンダン展が、1903年にはサロン・ドートンヌが創設され、画家たちの発表の場は急速に広まっていきました。
これらの展覧会を舞台にフォーヴスム、キュビスムなどの新しい美術が芽吹き、開花するわけですが、それらは結果として第一次世界大戦までに絵画表現の到達点のひとつとして抽象絵画を生み出すことになりました。
抽象絵画創設者のひとりであるフランティック・クプカの《赤い背景のエチュード》が紹介されています。
クプカは1909年以降、外界の現実を捉えることから、絵画の構図を単純化することで感情や本能、精神や宇宙観といった人間の内面的な現実と深く共鳴するようになっていきました。
クプカは色彩や自然科学を学び、美学的関心に基づいて芸術の概念的基礎を追求しました。
それは人間の存在や宇宙の本質を直覚するための試みであり、こうして捉えられたもうひとつの現実をクプカは抽象絵画の中で展開していきます。
本作でも明らかなように、クプカは単に自然を模倣するのではなく、それを主観的に捉えて、図形の形態や色のグラデーションのアンサンブルに変換し、新たな現実をつくり出すことを目指しました。
フランティセック・クプカ《赤い背景のエチュード》(1919年頃)石橋財団アーティゾン美術館
次は日本における抽象絵画の萌芽を見ていきます。
日本は20世紀初頭までに近代国家としての基礎を構築したが、この時期はまた、個人主義的な近代思想が醸成された時代としても特徴づけられ、人々の自由意識への高まりは、芸術の領域にも現れるようになりました。
明治末から大正期に西洋への留学を果たした画家たちは、西洋の思想に触れてしばしば主観を強調し、個性を尊重することの重要性を唱えて自己の制作への応用を試みはじめました。
彼らはまた、伝統の継承に拘泥せず、むしろ当時フランスで興隆していた同時代美術への注視と模倣、実践を重視したのです。
このとき、フランスの印象主義とポスト印象派、さらには20世紀初頭の革新的芸術の動向は一気に日本に流れ込むことになったのです。
古賀春江《無題》(1921年頃)石橋財団アーティゾン美術館
続いては、戦後フランスの抽象絵画が紹介されています。
日本では広くアンフォルメルと通称されるようになりますが、フランスでは「熱い抽象」や「叙情的抽象」と呼ばれていました。
ジャン・フォートリエ《人物の頭部》はつい見入ってしまう作品です。
この作品を含む「人質」の連作は、1943年、占領下のパリで画家自身がドイツ軍に追われ、精神的な圧迫にさらされる中で制作されました。
暗鬱な色を背景に厚塗りされた頭部はほぼ原寸大で、目と鼻、口を表す線が重なり、虐げられし者の苦悶を無言のうちに、しかし感覚豊かに伝えます。
この頭部像は、大戦の経験を通して、まさに人質のように精神的な危機を強いられた時代の人間存在の肖像といえます。
ジャン・フォートリエ《人質の頭部》(1945年)石橋財団アーティゾン美術館
エスカレーターで降りたフロアには、ヨーロッパとアメリカの美術を繋いだピエール・マティスにスポットを当てた空間が広がっています。
アメリカでヨーロッパの近現代美術が大規模に紹介されたのは、1913年にニューヨークのマンハッタンにあった兵器廠で行われた「国際現代美術展」、通称「アーモリー・ショー」の名前で知られる展覧会が開催された頃です。
フォーヴィスムやキュビスムなど同時代美術の衝撃は、芸術家を大いに刺激するとともに、美術館や蒐集家が作品をコレクションするきっかけとなり、さらにヨーロッパの芸術家たちが渡米するきっかけともなりました。
第一次世界大戦を機に大西洋を渡り、ニューヨーク・ダダを展開したマルセル・デュシャンによる、持ち歩くことのできる美術館《マルセル・デュシャンあるいはローズ。セラヴィの、または、による(トランクの箱)シリーズB》は、その象徴的な作品をいえます。
マルセル・デュシャン《マルセル・デュシャンあるいはローズ。セラヴィの、または、による(トランクの箱)シリーズB》(1952年、1946年(鉛筆素描))石橋財団アーティゾン美術館
第二次世界大戦時に自由を奪われた一群のヨーロッパの前衛の芸術家たちは、アメリカへ逃れることを余儀なくされました。
ニューヨークの若い画家たちは、逃避してきた芸術家たちを敬意を持って迎えるとともに多くを学びました。
彼らは自立したアメリカ美術を志し、その実現へと向かいます。
やがて徐々に形成される自信は、超大国アメリカの平和が形成される時代に顕著となりはじめました。
アメリカ美術はここに初めて真にアメリカ的な美術の成立へと向かい、世界の美術の中心地、アメリカ主導の美術という確固たる地位を築くことになったのです。
ハンス・ホフマン《プッシュ・アンド・プルⅡ》は一見したところ、何を描いているのか掴めない作品です。
ホフマンは、アメリカで活躍したドイツ出身の画家です。
本作のタイトルに付された「プッシュ・アンド・プル」とは、ホフマンがその絵画理論の中で提起した概念で、絵画平面において働く二つの相反する力を指します。
ホフマンは、絵画平面を複数の力の緊密に呼応し合う関係が成立する場として捉えたのであり、その優れたあり方を抽象絵画の成立要件と考えたのです。
本作では、周囲からせり上がるように形成された色面と、表面を掻き落としたような他の部分とが対比的であるのに加え、赤と緑という色彩上の補色関係も作り出されており、画面はまさに絶えず働き合う力関係の中に置かれているのです。
ハンス・ホフマン《プッシュ・アンド・プルⅡ》(1950年)石橋財団アーティゾン美術館
次は、戦後日本の抽象表現を展観します。
第二次世界大戦後の日本における抽象絵画の様相が公に示されたのが、1953年に国立近代美術館で開催された展覧会「抽象と幻想ー非写実絵画をどう理解するか」でした。
抽象とシュルレアリスムという、通常は対立的に捉えられる前衛芸術の二大潮流に依拠しながら、それらは副題で「非写実主義」として括られていました。
抽象においても非構成的な作品、シュルレアリスムにおいても非具体的な作品は、基準にんよってはどちらに扱われてもおかしくないほど、大戦前後の時期の日本においてその境界は緩やかなものでした。
戦後に生じた大きな変化としては、敗戦からの復興期において、自由や個性を追求する気運が高まりを見せたことです。
新世代を中心とする多様な芸術家グループの誕生や、その活動の受け皿としての、日本アンデパンダン展と読売アンデパンダン展に代表される自由出品制の展覧会の創設は、その現れといえます。
展示室では、草間彌生《無題(無限の網)》が紹介されています。
1957年に渡米した草間は、次第に前衛的な絵画表現を試みるようになります。
1959年にニューヨークのブラタ・ギャラリーで個展を開催。
カンヴァス全体に白い絵具で細かい弧を描き込んだ絵画を発表し、注目を浴びます。
これは網目状に見えることからのちにネット・ペインティングと呼ばれるようになりました。
白地に赤い網目をめぐらせたこの作品はその展開形です。
緻密ながら躍動感のある、緊張感溢れる画面を創造しています。
草間彌生《無題(無限の網)》(1962年頃)石橋財団アーティゾン美術館
そして、国際的なアイデンティティを発揮した「具体美術協会」の展示へと続きます。
指導者・吉原治良の「他人のやらないことをやれ」という考えのもと、戦後の阪神間地域を拠点に、独創的な表現を追求し続けた具体美術協会。
その結成時期をめぐっては、明確な宣言などがないために諸説ありますが、最初の活動というべき機関誌「具体」第1号の発行は、1954年12月になされています。
「具体」という名称は、「人間の内面を物質によって具体的に提示する」という、創作上の指針に基づものでありました。
吉原は後年、「私は戦争によって絵がかわった。抽象だけでは気がおさまらない感じだった」と、この指針が掲げられた背景について語っています。
元永定正《無題》の人物のような作品が目を引きます。
本作は1950年代末より取り組んでいた絵具の流し込みの技法を使った作品です。
この手法は、日本画のたらし込みの技法に想を得たと言われますが、直接的には師事した濱邊萬吉の作品からヒントを得たといいます。
傾けたカンヴァスに、あらかじめ描かれた下絵を目指して絵具を流し込むこの技法を駆使した様式により具体を代表する画家となるとともに、ミシェル・タピエとの接触によりアンフォルメルの画家として国際的に紹介されることになりました。
元永定正《無題》(1965年)石橋財団アーティゾン美術館
エスカレーターを降りると、アンス・アルトゥング、ピエール・スーラージュ、ザオ・ウーキーの「その後」にフォーカスした展示と、現代作家7名の新作を中心とした作品が紹介されています。
本展は「抽象絵画がどのような手法や芸術運動に影響を受けて、後世にいかなる影響を与えたのか」を紐解く試みです。
多くがアーティゾン美術館所蔵の作品で構成された本展は、抽象絵画の歴史や価値を伝えるもので、意義深いものです。
美術館3フロア全てを使っての展示であり、じっくり見ていては4〜5時間はかかります。
時間に余裕を持って、休憩しながら鑑賞することをおすすめします。
会期:2023年6月3日(土)-8月20日(日)
会場:アーティゾン美術館 6・5・4階展示室
〒104-0031 東京都中央区京橋1-7-2
開館時間:10:00-18:00(8月11日を除く金曜日は20:00まで)
※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日(7月17日は開館)、7月18日
お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)