- 米国が原爆を投下した理由として、日本本土上陸作戦を行った場合の米軍兵士50万人の生命を救うためだということが米国内でよく言われています。
しかし、日本が降伏しない場合、米軍は昭和20年に九州上陸作戦を計画しており、その際には最大で2万5千人の戦死者を予測していました。翌年の昭和21年3月には東京正面の上陸作戦を計画しており、そこでは1万5千人から2万1千人の戦死者を予測していました。米軍の戦死者50万人というのは根拠がなく、最大で4万6千人の戦死者と予測していました。
原爆投下が戦争を早く終わらせるためではなかったというのは、米軍関係者の発言からも分かります。
米国空軍のカーティス・ルメイ将軍は、「戦争は、本来、ロシアの侵入なしで、そして、原子爆弾なしで2週間で終わっていました。原子爆弾は、全く戦争の終わりと、関係がありませんでした。」と言っていました。
カーター・クラーク准将は、「我々は、ますます多くの商船を沈め、日本人をますますひどい飢餓に陥れていた。このことだけでも、彼らに卑屈な屈服を強いることができた。我々はそれ(原爆投下)を行う必要がなかった。我々は、それを行う必要がないということを知っていた。それでも、我々は日本人を2発の原爆の実験のために利用した。」と言っていました。
米軍は、タイプの異なる原爆を広島と長崎に投下しました。広島にはウラン235型、長崎にはプルトニウム239型の原爆を落としました。
原爆の威力を確かめるため、以下の条件に該当するところが投下候補地になっていました。
①直径3マイルを超える都市
②爆風により効果的に破壊できる地形を持つ都市
③8月までに通常爆弾による爆撃を実施していない都市
最終的に原爆投下の候補地になったのは、広島、京都、新潟、小倉の4都市でした。
広島は太田川の三角州の上に発達しており、市の中心に投下すれば広島市全域が被害を受けると見込まれていたため、原爆の威力を試すには最適だということで選ばれました。
長崎に落とした原爆は、実は小倉へ落とす予定でした。しかし、原爆投下のために飛来したB-29に対して、日本陸軍の守備隊が高射砲で激しい応戦をしたため、原爆投下目標の目視ができなくなりました。更に、日本軍の戦闘機が緊急発進してきたため、小倉への原爆投下を断念して長崎に切り替えました。小倉に原爆投下ができない場合には、長崎に投下することがあらかじめ決められていました。
広島の原爆投下では約14万人、長崎では約7万4千人が死亡しました。広島や長崎で死亡したのは、ほとんどが戦闘員ではなく一般市民でした。一般市民を無差別大量虐殺するのは、戦時国際法違反です。
戦争を早く終わらせるためであれば、広島への原爆投下で原爆の威力は十分に日本に伝わったのですから、原爆投下は1回でよかったはずです。
タイプの異なる原爆を落としたのは、2種類の原爆が兵器としての殺傷能力や都市に与える被害の効果を見るためでした。
戦後に進駐してきた米国は、広島と長崎に原爆傷害調査委員会(ABCC)を設置して放射能の影響調査を始めました。そこに生存者を連れて行き、血液を採取し、傷やケロイドの写真、死亡した被爆者の臓器などを摘出して、様々な調査や記録を行っていましたが、治療をすることはほとんどありませんでした。
被爆した人を治療すると言って病院に入院させたが治療をまったくせず、その後に死亡すると司法解剖して臓器などをホルマリン漬けにして保存し、アメリカに持って行き分析もしていました。
米国は、原爆によって重度の火傷や放射能傷害の治療方法を必死に模索していた広島と長崎の医者達に、治療方法の発表と交流を禁止し、被爆者のケロイドの皮膚・臓器・血液などやカルテを没収していました。
更に、日本政府に国際赤十字から医薬品の支援申し出を拒否させ、治療させることをことごとく妨害していました。外部から広島や長崎に入ることを禁じ、原爆報道も全て禁止しました。
原爆傷害調査委員会が広島と長崎から収集した医学データとビキニ環礁での原水爆実験のデータを利用して、爆心周辺で放射線から身を守るにはどのような服装にすればよいかなど米国国防総省が研究していたことが、米国の文書から確認されています。
広島に原爆が投下されたのは、昭和20年8月6日の8時15分でした。この時間は、工場労働者が仕事を始め、子供たちが外に出て遊びに出る時間で、米軍はそこを狙ったと米空軍史に載っているようです。
そして、当時の広島には米国人捕虜がいて、原爆によってその捕虜23人が死亡しました。国際赤十字がそのことを確認しましたが、米当局は公表をせず、遺族には被爆して死亡したことはおろか広島で死んだことさえ知らされていませんでした。
ちなみに、広島に米国人捕虜がいたことは、英国情報部から通告されて米国側は知っていたようです。しかし、それに構うことなく広島に原爆を投下しました。米国は、捕虜になっていた米国人の命よりも、原爆の効果を確かめることを優先したのです。
原爆投下は、米軍の509混成軍団によって実行されました。509混成軍団は昭和19年秋に結成された原爆投下のための特殊部隊です。
この部隊は、超大型爆弾を使った原爆投下訓練を日本各地で行っていました。原爆投下に際しては、爆発に巻き込まれないように高度1万メートルで飛行する必要がありました。投下訓練でも同様の条件で行っていました。
投下訓練では、パンプキンと呼ばれる大型爆弾を使用していました。全国各地で行われた投下訓練によって49発のパンプキンが落とされ、400人が死亡したと推計されています。
投下訓練は、長崎に原爆が投下された後にも行われていました。昭和20年8月14日に愛知県の春日井市と豊田に4発のパンプキンが投下されていました。米国は、広島と長崎に原爆を投下した後も、まだまだ原爆を投下する気満々だったということです。
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