量刑意識のアンケートについて+問題3、4の答え
3/15にこのような記事が配信された。
「殺人事件の被告が少年だった場合、市民の4人に1人が、成人よりも刑を重くするべきだ、と考えている」
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最高裁の司法研修所は15日、市民と裁判官を対象に実施した量刑意識に関するアンケート結果を発表、両者に大きな隔たりがあることが明らかになった。
調査は 2009年導入される裁判員制度に向け、量刑の「市民感覚」を探るため実施。全国8都市の市民1000人と刑事裁判官766人が対象となった。
殺人事件を素材とし、39の量刑ポイントについて意見を聞いたところ、違いがはっきり分かれたのは少年事件。裁判官は「軽くする」が90%を超え「重く」はゼロだったが、市民は約半数が「どちらでもない」を、25.4%もの人が「重く」を選択した。将来の更生のため刑を軽くするなどの配慮がある少年法を前提とした「裁判官の常識」が通用しないことが浮き彫りになった。共同通信記事より抜粋
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と、一瞬驚いたのだけど、実際のデータをみてみるとこうである。ふむ。「どちらでもない」っていう市民49.9%が一番多いのか(上の記事にも書いてあるけど)。
今この感覚が多いのか少ないのかというのは、過去の同じような質問があるかどうかというのをデータと較べてみないとわからないしなあ・・・。
基本的には市民は犯罪者に対して厳罰傾向になるのは当然だろうしなあ。
このデータは「差がある」ということだけをいってるのだろうか。
ちなみに裁判官と市民の意識の開きという意味では、この少年の場合とあわせて「飲酒で被告人の判断力が低下」というのと「被害者が配偶者の場合」という場合も大きい(東京新聞
記事参照)。
報道は大方「少年に厳しい市民」と「少年に甘い裁判官」という図式での報道である。そうなのかな・・。とりあえず、記者さん、落ち着こう。ふーー、深呼吸。
うーん、「ものはいいよう」という気がしてきた。ICVSの調査では日本は先進国の中で一番安全にもかかわらず、少年への厳罰傾向はトップ。きっと実態と離れて強いのは確かだろうし、法曹関係者と市民の間にズレがあるのは確かだろう。
でも半数くらいの市民が「どちらでもない」といってるのは、この質問の仕方だと、質問を受けたほうは、ざっくり過ぎて、判断はできない、というかんじがする。「重くすればいい」それとも「軽くすればいい」って聞かれてもなあー、今までどういうことになってたんですか?と反対に質問したくなるんじゃないか。ようするに、このデータの「どちらでもない」というのは「よくわかりませーん」という人がまだまだ多いのではないかな。「ものはいいよう」でどうにでも動く浮動票という意味だ。きちんと説明をしてくれという意思表示なのではないか、と私はデータを読みました。質問自体で「あー重くすべきかもね」と気がつく人もいると思うし。
しかし、こういう「少年に厳罰傾向」という主旨の記事がほとんどだから、厳罰したくない派にとっては、「おかしいぞ、市民」と反論できる。無論、厳罰したい派にとっては「社会的なコンセンサスがとれているじゃん」という意味での根拠(自信?)として使いやすい。
いずれにせよ、そうやっていつまでもケンカをしている場合ではない。多様な意見に耳を傾ける準備が必要なのではないか。全然立場違うんだし、全然違う立場同志、「被害者と加害者」を法制度に組み込もうとしているのだから。
私は「裁判員制度」は「真理」を求めるやり方ではなく、「納得」をしあう制度な気がする。
山口母子殺人事件の安田弁護士の出廷拒否はやはりまずいだろう。関連ブログがいくつも「炎上」しているらしい。反論は当然いくらでもでてくるだろう。めちゃめちゃ失礼な話である。しかし、・・・・燃やすなよ。普通に話しなよ。と思う。
さて、問題の答えである。
問題3
最近少年による凶悪な暴力事件が後を絶たない。その大きな要因として、暴力コミックや格闘型のテレビゲームの影響を指摘する声が強い。そのため、警察では過去1年間に殺人で検挙された少年50人にアンケート調査を実施したところ、50人中49人がゲームセンターにあるゲーム(バイオハザード◎◎)が好きだと回答した。したがって、暴力ゲームの存在が少年犯罪凶悪化の原因のひとつである。
操作的定義の妥当性と研究手続きの妥当性の問題として説明する。ある特定の暴力ゲーム好きだということが、暴力ゲームの影響を測定しているかという疑問だ。操作的定義として不十分で、せめて暴力ゲームに費やした時間を調べる必要がある。もしくは暴力ゲームよりも、例えばゲームセンターの出入りによって、不良交友を作り出し、それが非行と結びつく仮説も考えられる(あくまで仮説です)。いずれにせよ。暴力ゲームと殺人などの凶悪犯罪をの因果関係を推定するためには、暴力ゲームがプレイヤーの暴力傾向を高めるという証明が必要で、無作為比較対象実験が必要だし、コーホート研究と呼ばれる、暴力ゲームと頻繁に体験するという条件以外は、同じ条件(年齢、性差、非行歴、IQ、家庭環境)を持ったふたつのグループ(テストとコントロール)を作り、そのグループの暴力傾向の差異を確かめる必要がある。もちろん、実験をするうえでの倫理上の問題があるという指摘もある。
ここからは個人的意見だ。私は「暴力ゲーム」や「過激な性描写」が人間の行動に影響を与えるかどうかと考えると、それなりに「与えるだろう」と思っている。人はマルクス読んで国家まで作ってしまうわけだから、そんくらい怖いしすごいものではある。人間は他者や環境に影響されるし、作ってる側も影響を与えたくて作っている。不謹慎ではあるが、自分の本読んで、読者が死んじゃうなんてことが起きたら、内心嬉しい作家さんっていると思うのだ。
でも、だからって「規制」していいかは別問題である。「影響はない」「影響はある」というところを拠り所にしてしまうと、有害図書に限らず、「因果関係があるから規制」というロジックに回収されてしまう気がするのだ。「その本のこれこれこういう部分はさすがに過激すぎて見ていて気持ち悪い」と言える自由だって自由である。
今は「読む」「見る」→「行動する」という間に多くの意見を聞き入れて、いってみれば「ひと呼吸」おくような多種多様な装置ができている。法を拠りどころにせずに、ここを聞いてみよー、と思うモチベーションさえあればいいいんじゃないかな。規制しなきゃいけないポイント考えるよりラクな気がするし。
問題4
犯罪心理学で有名な精神科医のA教授が、最近のきれやすい若者について、脳の発達と攻撃性の関係について、次のようなコメントを発表した。「最近の中学生は平均すると20年前と比較して家族と食事をとるという行為は、情緒的コミュニケーションを発達させる重要な機能をもち、栄養の吸収効率を高め、脳の発達を助けます。とくに、衝動を抑制する前頭連合野の発達が阻害され、衝動的な若者が増えたためであると推測されます。」したがって、最近の若者が切れやすいのは、食事中の家族のコミュニケーションが不足しているからだ。
もっともらしい説明というだけである。よく新聞の有識者のコメントで見られる例である。これはいわゆる、医師等の専門家が、何の裏づけもなく、話してるのはエビデンスレベルとすると最も低い。この「問い」の裏にある意思を見る必要がある。つまりそもそも「キレる若者が増加している」という前提で生まれる問いであって、キレる若者が増加しているという根拠はない(実際増えていない)。
さらに、精神科医は非行の専門家というと、児童精神医学や思春期精神医学などを専門としていない限り、犯罪精神医学を専門とする精神科医は精神鑑定の専門家であり、彼らの非行に対する理解はその延長線上にある。つまり多くの非行少年は精神障害者ではない。こうした精神科医の多くは、精神障害のない犯罪者や、非行少年に会ったことはないし、刑法学者の多くは法廷でみる以外に犯罪者と接した経験は少ない。犯罪学的な研究経験もないのだ。
刑法の分野では、人を裁くという性格上、人を殺した行為とは何かという「解釈」が問題となる。胎児は人なのか、人間は生まれてどの時点から人なのか、死とは脳死なのか、心停止なのか、といったことだ。ある意味、例外的な事案をとらえた倫理的、規範的な解釈が大きな争点となる。科学としての犯罪学とはここが大きく異なる点だ。上記のような倫理的問題は犯罪学のなかでは、大きな関心ごとではなく、手続き的に明確化されれば、死の定義が脳死であろうが、心停止であろうが特に問題は発生しない。
つまり刑法学者にとっての統計数値のいうのは、自らの解釈を補強する意味で使われることがあるということもに注意しなくてはいけない(まあ、使い方がまちがってなきゃいいんですけど、よくねじまがってる)。
この話と少しずれるかもしれないけど、私はデータを見るときは、一番大きい数字から見る。つまり、例外的数字をピックアップしてひろげても、マーケティングしても、あんまり儲からないからである。つまり、施策対象者としての母数が確保できないからだ(少数派を見るな、といってるわけではなく、見方という意味である)。少年法論議や治安悪化言説、犯罪対策の動きに関しては、マジョリティのほうがあまりに無視されているという印象を受ける。
●参考文献 犯罪統計入門 浜井浩一