モッコリ収集状況
北海道 6 岩手 1 茨城 1 栃木 4 宮城 3 福島 2
群馬 6 埼玉 3 千葉 4(鴨川)
東京 8(羽田・高尾・柴又) 神奈川 4(小田原・箱根・横浜・海老名)
山梨 6 信州 18(長野・軽井沢)
静岡 6(伊豆・浜名湖) 新潟 7 鳥取 1 愛知 2(名古屋)
京都 5 大阪 10 三重 2 香川 3 高知 2 石川 2 金沢 3
福岡 2 大分 1 長崎 4 鹿児島 2 沖縄 5
温泉バージョン 2 リゾートバージョン 3 お化けバージョン 3
昆虫バージョン 1 水族館バージョン 3 みちのくバージョン 1
シルバーバージョン 1
増殖中でございます♪
今整理している所なので落ち着いたらちゃんとバージョンアップ致します♪
やっぱり繋がりですね
さて、明日は仕事納めです。
新たな職場に就いて半年と半月あまりですがまだまだミスも多く対応に困る事ばかりです
色々あった一年でしたが今年は昨年よりも人との出会いや繋がりって本当に尊いものだと痛感した事です。
急に職場が無くなるというピンチを救ってくれたのは昨年リフォームするきっかけを作ってくれた高校の友人でした。
母が亡くなり施設の家具を処分しなくてはならなくなった時にわざわざ車を出して引き取りに来てくれた昔の仕事仲間
無くなった職場で一緒に働いていたKさんから急に電話をいただき会う事になった時にお線香を頂いたり、喪中ハガキを出したら年内に会いたいですねと連絡してきてくれたレンジャーホワイト
本当に本当に私の事を考えてくれて力になってくれる友人たちの存在を改めて強く感じました。
私も彼女たちが何かあった時には全力で力になりたいと心から思います。
人との出会いを生かす事の出来る人間であれるよう心掛けたい所存です。
2023年もあとわずか
今年も後1週間になりましたね〜
いやはや今年も波瀾万丈な一年でございました
お正月から寝込み寝正月となり1月下旬には娘が手術をし、4月には引っ越しをして彼女も新たな生活を始める事となりました
5月にはいきなり職場が無くなる宣告を受け転職する事に
その頃母に水疱が出来て免疫不全ではないかと言う診断となり病院に通ってました。
高校の同級生のおかげで新たな仕事場を得たのは6月中旬
新しい職種に慣れようと必死になっていたら6月下旬から母が食事を食べなくなったと連絡を受けました。
7月は母を病院に連れて行ったり胃カメラの検査を受けさせたり
そして下旬には命の選択を迫られました。
今でも葛藤はありますが出来る事を精一杯したのだと自分を納得させています。
8月に葬儀があり9月には母の四十九日と父の七回忌の法要を一緒に行いやっと一息着いた感じでした。
10月と11月は自宅にお香典が届いたり弔問に訪れた親戚をもてなしたり相変わらずバタバタしていました。
やっと今年も終わるのかーと思っていたら昔の仕事仲間のお母様や後輩のお父様が立て続けに亡くなり葬儀に出たりしました。
本当にホントに色々あり過ぎて濃い一年でした
来年はゆっくり過ごせるといいのですが…一周忌もありますしやる事やって頑張ります
先日訪れた日本橋の福徳神社
おみくじを引いたら
一番大吉でした!
一番一番なんて引けるんだ〜とちょっと感動してしまいましたw w
でも書いてあるように『良かった良かったの一歩先を考える』前進しないとですね
そして冬至の日に訪れた大國魂神社にて
御神木の銀杏の葉が落ちて地面が黄金色な上に御神木をぐるっと囲む輪っかの木漏れ陽
なんか金運が良くなりそう w w
こういう邪な考えがイカンのか
皆さん素敵なクリスマスをお過ごしくださいね〜
今年も後2ヶ月を切ってしまいましたね
母の四十九日も終わりひと段落して11月に入って懐かしい顔と会う約束が立て続けに予定しています。
母の四十九日はこちらから姉に連絡しました。
そこで相続の話などをして姪っ子2人の事も考えていると話すと翌日には姉からメールが来ました。
コロナ禍には全く連絡してこなかったのにこういう時は素早いじゃないですかw w
で翌週水曜日にこちらに来たいとの事でした。
いやいや四十九日終わって1週間も経たないけど…そんなに慌てる事??
当日は両親が住んでいた頃とはリフォームして変わった実家に「へぇー!」「うわぁ」と言っていましたが色々話していると姉が言った言葉は
「今度会うのは1年後だね」え?
その間全く会うつもりはないって事なんだね
両親の残した遺産は私の娘に残したいと言う言葉から娘に残せるように段取りはしてあり、姪っ子の件も「娘にも了承を得ているから」と話しました。
すると姉から娘に電話があったらしく最後にはやはり「次会うのは1年後だね」と言われたと言ってました
コロナ前に働いていたスーパーはまだ働いているの?と姉に聞いたらいじめが悪化したようで辞めたそうです。
聞いてると確かに理不尽な物言いをされていたようですが不満に思ったり自分の主張を全くしないまま辞めたみたいです。
「自分は悪くない、悪いのは向こう」という考えは変わってないみたいでした。
その話になると急に激昂して自分がどれだけ可哀想かを切々と話していました。
姉が帰った後旦那にどう思うか?聞いてみたら
「よっぽど人に嫌われたくない、良い人でいたいんだろうね」と…私だったらその部門の主任が話を聞いてくれないなら店長やオーナーに直訴しちゃうけどねだってほとんどパワハラだもの
10月は母のことで滞っていた歯医者に積極的に通ったりしてましたw w
仕事も4ヶ月に入りやっと全体が分かりつつあるような感じになって来ました。
喪中のハガキも送ったし
後2ヶ月バタバタした一年になりそうですw w
すべてはここに繋がった8月
母を看取り介護する事に決めて娘も面会出来たし、5日前(月曜日)には旦那も面会して母と会話する事ができました。
4日前(火曜日)には姉が長女を連れて面会に来る予定だったのですがその2日前(日曜日)に熱を出して検査の結果コロナにかかった事が判明しました。
という事で一緒に生活している姉も面会をキャンセルする事になりました。
その時私は「すぐどうこうなるとは思えないし仕方ないよ」なんて言っていたのですが…
看取り介護を決めてから1日おきに面会に行っていましたが水曜日に行くと母の様子がいつもと違い天井を見て何か独り言をぶつぶつ言ったりあんなに食べたくない飲みたくないと拒否していたのに飲み物を要求する仕草をしたり
なんとなく経験上「あーこれは近いのか?」と思ったりしてしまいました。
亡くなる前の日に会えて痰が絡んでいたけど胃の辺りをさすると楽になってすやすや寝てました。
翌朝施設から連絡があり向かうと本当に寝ているかのような母でした。
急変する事なく穏やかな顔に選択は間違ってなかったよね?と思いました。
そこから葬儀会社や姉に連絡しました。
葬儀会社にはちょっと前に見積もりを取ってもらっていたので話は早かったです。
姉は長女からのコロナにかかりその時点でまだ37°以上の熱があると言う事でした。
翌週葬儀の日取りとなりましたが姉は自主隔離が解けて3日後という事で安全を期す為に欠席する事になりました。義兄が来ると言ってきましたが同居してる訳だし丁重にお断りしてこちらの家族だけで送る事となりました。
ささやかだけどちゃんと送れたと思うし娘にま私が送る様をしっかり見せる事が出来たと思います。
悲しいけど3人共笑顔で送る事が出来て良かったかな
その後の手続きも昨年引っ越して母と同じ住所だったし公共料金の引き落としもすでにこちらになっていたしマンションの名義も私に変えていたのでそんなに大変な事はありませんでした。
そう、昨年リフォームして引っ越して来て仕事も住まいの近くに変わって慣れて来たところだったので全てこの時の為にお膳立てされていたように思えます。
父の時は3日間ICUにいたので認識出来ていましたが母は本当に急に弱って眠るように逝ってしまったのでまだ実感が沸かないのが真実です。
葬儀が終わり手続きに入りましたが父の時とは随分手続きが変わっていて年金関係は郵送で出来るのでラッキーでした。
印鑑証明も住民票もマイナンバーカードを春先に作ってあったので簡単に取れたし、銀行も手続きが結構簡略化されているみたいで良かったです。
登記だけはやはり難しいので前回お願いした司法書士さんにお願いしました。
淡々と手続きが進んで親戚筋へのお香典返しも配送し終わり後は四十九日が終わればやっとホッと出来るかな〜
それにしても葬儀が終わった後姉に葬儀の画像をメールで送ったら「お供えの品を送りますのでよろしくお願い致します」と返信が来て以来全く連絡はありません。
四十九日がいつなのか?とか聞いて来ないって事はこちらから連絡しなければ参列するつもりがないって事なのかしらねぇ…
相変わらず何を考えているのか全くわからない姉です。
命の選択をした7月 後
食べる事が出来なくなった母をヤキモキしながら私や施設の方々は見守る事しか出来ない状況でした。
病院の予約が入っていた日より早く検査結果が出ているとの事で私だけで病院へ
担当医ではない医師から状態の説明を受けました。
やはり初見と一緒で逆流性食道炎はあるものの大きな病気は認められずCTの方も綺麗でなにも異常はないということでした。
脱水に関する事も救急で運ばれないとその病院では点滴をする事は出来ないとの事。
入院していれば治療してもらえるのでしょうが病気がない限り入院は出来ない。この病院では出来る事はないとの事でした。
救いなのは母が食べたいのに食べられないと感じていない事なんです。
自分ではちょっとだけど食事出来てると思っている…なので私に言うのは「歳だからねーちょっとしか食べられなくなっちゃった」と笑います。
翌週担当医の受診に母も連れて行きましたが結果は前に書いた通りです。
先生は「日本ではその概念はないけど欧米では口から食べられなくなったら◯なんだよね」(あえて⭕️付けさせてもらいました)て、あえて本人の前で言うか?とちょっとムカつきましたが間違ってはないですよね。
認知症もあって食べられなくなっているのではという事と病院で点滴などした場合認知症の方は勝手に取ってしまう可能性があると言う事。
父がそうでした。結核で入院した時に点滴を勝手に抜くので拘束されて手も使えないように手袋されて…見ていて悲しくなった記憶があります。
そんな事も踏まえて今後どうするか?
施設に帰って看護士さんや相談員の方と話をしました。今後どうするか?どうしたいか?ご家族や親族がいたら話しをしてもらえないか?と言う事でした。
その夜コロナ前に話しをしてから直接話していなかったので3年振り?4年振り?かに電話をしました。
今年に入ってロビーで面会が出来るようになったからと2月ぐらいからメールは来ていましたが面会に行きたいという自分の都合だけ連絡してきてこちらの近況も自分達の近況にも触れてきません。相変わらずなんだかな…な姉です。
私はこのまま施設で看取り介護をしてもらうという選択を希望していました。
病院に入れて栄養の点滴をしてもらい延命措置を取る事も考えましたが本当に母の為になるのか?
でもこのまま施設でいいのか?私は命の選択を迫られていました。
どうしてその選択をしたのか?それは母と話しをしてみて
「病院に入りたい?」「病院は嫌だわ」
「どこか痛いところやツラいところはある?」「ないわ」
「ちゃんと食べないとこのままだとお父さんのところだよ?」そんな感じの事を言ってもニコニコ笑うだけの母
「面会に来てくれて嬉しいわぁ、ありがとう」とニコニコしながらありがとうを繰り返す母を見て病院に入れて急に環境が変わり見たことない人に看護され面会にも来てもらえなくなったらと考えると切なく悲しくなりました。
姉も話しを聞いて同じ意見だと言っていました。
義兄は「探せば面会出来る病院あるんじゃないの?」と言っていたみたいですが自分で探す訳でもなく口ばかりで旦那は黙っとけと怒ってました
2日後に義兄と2人で面会に行って実際に状態を見てみてやはり施設で看取り介護してもらった方が良いという判断になったようです。
まだ会話が出来るうちに娘にも会わせたいからと一緒に面会に行きました。
孫を見て「忙しいのにありがとうね、ありがとう」と手を合わせて拝むかのような仕草を繰り返す母を見て娘も「それが1番良い選択だと思う」と言ってくれました。
面白かったのは母が「私も83歳になって歳を取ったわねー」「いやいやお母さん88歳だよ」というと声を出して笑うのですが
「私ももうすぐ還暦で60歳だよー」というと物凄いびっくりした顔をして
「えー!80歳かと思った」
なんで親と同い年やねん!笑ってばかりです
命の選択をした7月 前
7月に入ってすぐコロナで3年行けなかった娘との旅行に行きました。
娘のリクエスト「近く」「温泉」をもとに決めた先は草津温泉〜です。
関東圏という事でゆっくり出発して途中のSAでお昼を食べて到着〜
草津温泉〜湯畑〜
でも湯気出てないちょっと残念
向かいの湯もみが見れるところは長い列を見て断念しました。
確かに東京もすこぶる暑かった!暑かったけど!
群馬県暑っ!!なんでこんな日差しが暑いの??車運転していても日差しが痛い痛い…焼ける焼ける…というか焦げるー!!
娘は足湯に浸かりホワホワしていましたww
あまりに暑くてお土産物を見る元気も無くなるし…
でもこれはハズさんぜ
ジリジリの日差しに堪らずホテルへ
冷房の効いた部屋でゴロゴロして温泉へ
内風呂も大きいし露天風呂も気持ちいい!あー幸せやなぁ
翌日は横移動してTVで良くやってる川場田園プラザへ
向かっている途中施設から連絡が来ました。
なんか嫌な予感するなぁと思っていると
「お母さまが6月末から食事が摂れなくなってきているので病院に連れて行って欲しい」との事でした。とりあえず翌日も仕事は休みなので病院に連れて行く事になりました。
施設からの話では6月になって食事の量にばらつきがあり量が少しずつ減って来てはいたとの事。
うーん完全に食べなくなる前に教えて欲しかったなぁ…
消化器内科に受診すると原因を探るために胃カメラとCTを撮りましょうという事になり3日後に胃カメラをする事になりました。
もしかしたら胃癌かな?なんて気を揉んでいましたが胃カメラでは癌は発見出来なかったとの事。
全部の結果を聞く予約が2週間後という事だったのですが…そんな先だとその前に脱水でおかしくなったらどうするのよ?「その時には救急車呼んでください。ただ近くの病院に入れるかは分かりません」なんか冷たくね?
どうする?どうする?
どう判断すれば良いの?と私も施設の職員さんもヤキモキする日が続きました。
6月は水のように流れていく
GW前に母を皮膚科に連れて行き血液検査した結果「自己免疫不全とは言えないけど一つだけ数値が高いものがあるから薬を飲んでみてください」との事で塗り薬と飲み薬も処方されました。
2週間ほど飲んでみてくださいとの事でしたが次の予約では水疱が出来ていない事から薬をやめましょうとなり通院は一度無くなりました。良かった良かったとりあえず一安心かな。
その頃の母はコロナの影響で外出する事がなく脚がだいぶ弱っていてちょっとの距離でもはぁはぁと苦しくなるので車椅子での通院でした。
私はというとちらし寿司屋さんは14日で終了となり翌日15日から新しい仕事が始まりました。
体力的にもそんなにしんどくはないけど新しい事覚えるのがしんどーいですwww
とにかくレジから覚えてねと言われた初めてのレジでは偶数月の15日!!そう、年金支給日だったので次から次と公共料金の支払いに来る人ばかりでした
おかげで1日で公共料金の受け方をマスターしましたwww
とにかく時間があっという間に過ぎて行く…
でも初日から「覚えが早い!」とお墨付きを頂いたのでちょっとホッとしましたね
4回目ぐらいには「もうベテランの雰囲気だね」と言われ…そんなにふてぶてしいかな??とちょっと心配になりました
そんなバタバタしている中でも施設から
「薬をやめたらまた水疱が出来て来たので皮膚科に行ってもらえますか?」との連絡が来て病院へ
薬をやめて10日で水疱が出来てしまったのでやはりやめたのは時期尚早だったのか?という事で薬を再開する事になりました。
やはり自己免疫不全なのかなぁ??
水疱の痕もかさぶたみたいになって黒くなっていたのはちょっとショックでしたね。
早く良くなるといいなと思っていた6月でした。
暑いけど水の流れのようにするすると時間ぎ流れていった感覚でした。