「悠助!!」
その言葉と共に飛び込んできた綾菜に、悠助は強く抱き締めることで応えた。勒七はさり気無く朔夜を抱く闇鴉に目を遣るが、期待できそうにないと肩を落とした。その刹那、
「おかえり」
ああ、帰ってきたのだ。二人の思いはそれだけだった。
卯の刻
静けさが座る居間に悠助達はいた。
「まだ終わってはいないけれど、二人が無事で良かった」
本当に良かったと言う綾菜に、悠助と勒七は申し訳なさそうに眉を下げた。
二人が家を出たのは五日も前のことだった。
「これからどうするのだい」
闇鴉の言葉に悠助と勒七は顔を見合わせると静かに頷いた。
「京に行こうと思う」
「京に?」
驚く綾菜に、悠助は重く言葉を落とした。
「俺達は龍影と合流する」
その言葉に含まれた意味に綾菜は思わず顔を歪めた。
しかし納得の出来る言葉でもあった。己が京に行っても足手纏いになるのは言われずとも理解していたからだ。
しかし、理解は気持ちを抑えることには向いていないのだ。
「二人で行くの?」
「嗚呼」
分かっていた肯定に綾菜は視線を落とした。
それを見た悠助は綾菜の隣に膝をつくと、そっと愛しき女(ひと)の頬に触れた。
「俺達は怪我を負った。特に勒七は命に関わるような怪我を」
その言葉に綾菜はびくりと身体を揺らしたが、悠助は更に続けた。
「それでも此処に戻ってきた。勿論、怪我が治ったことは理由になるだろう。だが、這ってでも帰ってきていたよ」
目を見開く綾菜に悠助は穏やかな笑みを浮かべた。
寝ている朔夜、綾菜の隣に座る闇鴉に目を遣り、再び綾菜を見詰めた。
「綾菜達は道を照らす光なんだ。どうかその光を消さないで欲しい」
「悠助……」
ぽろぽろと涙を零す綾菜を悠助はそっと抱き締める。
それを見た闇鴉は静かに部屋を出ると、儚げに曇天の空を見上げた。
「この世がどれ程変わろうとも空だけは変わらないねぇ」
不意に聞こえてきた声に、闇鴉は体を震わせた。
「綺麗だ」
「何を言っているのだい。こんな曇天を見て」
勒七の呟きにそう返したが、勒七は何も言わなかった。
不思議に思い振り向いた刹那、闇鴉は息を呑んだ。勒七は真っ直ぐに此方を見ていたのだ。
「格好良い言葉は悠助に言われてしまったけど、わっちも光だと思っているよ。輝く太陽のような包み込む光、月のような優しい光……たった一つしかない愛しい光。曇天だろうとわっちにはよく見えるよ」
勒七はそう言うと穏やかな笑みを口元に浮かべた。ぽたりぽたりと音がする。
泣きだしたのは大江戸か、それとも……。
“帰り道を照らす光となろう”
その気持ちを胸に、綾菜と闇鴉は二人の背中を見送った。
二人が旅立った頃、京では一人の男が空を見上げていた。
さらりと風に短髪を揺らし、縁側に腰掛ける男は、眩しそうに太陽に手を翳して呟いた。
「何故……楽な道はないのだろうな」
言葉とは裏腹に穏やかな声音に、男の愛刀はかたりと音を立てた。
「兄上は楽な道を歩みたかったですか?」
「いや、そんなことはないさ」
背後から聞こえた声に男はきっぱりと答えた。
問い掛けた女はその答えに笑みを浮かべたが、これから先の道を考えて思わず顔を伏せた。
桃色の簪が寂しそうに揺れる。それを見た男は女をぎゅっと抱きしめて口を開いた。
「俺の道は他の奴らよりも歩き難いだろうな。だが、途切れちゃいねぇよ。真っ直ぐじゃなくても、ずっと先まで続いている。何故だか分かるか?信じられる仲間がいるからだ。共に歩く相棒がいるからだ。支えとなる大切な奴がいるからだ」
「……それは小雪さん?」
小さく呟かれた言葉に龍影は溜息を吐くと抱き締める腕に力を込めた。
「俺にとっての支えは昔からお前だけだよ、琴音」
「……兄上ぇ」
肩がじんわりと濡れるのを感じながら龍影はそっと目を閉じた。
――ぽたりぽたりと音がする。
未の刻
何時もと変わらぬ日々を過ごす者達がいる中、三人の男は小雪の墓にいた。
白を紅に染めたあの日とは程遠い空だった。
「道が途切れた者の心を背負う力がお前さん達にあるかのぉ」
決して大きな声ではなかったが、悠助達は突然の声にびくりと体を震わせた。
声の正体はあの老翁であった。老翁は静かに三人に近付き、ぽつりぽつりと話し始めた。
「蒼黒丸の怨念は、羅刹、刹鬼、愁と梢に分裂したのじゃ」
「分裂?一体、何故」
「それは何れ分かる時が来る。そしてわしが道を示そう。……羅刹には桜姫があった。愁と梢を止めるにも、必要なものがあるのじゃ。それは美しい雪を血に染めた刀」
「まさか……」
龍影の呟きに老翁は満足気に頷くと、再び口を開いた。
「それもまた使い手は桜の心を継ぐ者じゃ」
悠助と勒七はその言葉に目を見開き、龍影は静かに悠助を見詰めた。
「道が見付かったな。探そう―――刹鬼を」
小石は大きな波紋を広げていった。
妙な静けさを保つ京の町。三人の男が神妙な顔つきで佇んでいた。
「本当に一人で行くのかい?」
「すまない。これは俺の我儘だな……」
笠を被った男はそう言って寂しそうに呟く長髪の男の背後に、あるはずのない桜花が舞った気がして、思わず口をぎゅっと結んだ。
それを黙って見ていたもう一人の男は独り言のように言葉を落とした。
「刀を持ってはいるが、武士らしく生きようなんざ思ったこともねぇ。生きるか死ぬかだけで歩いてきた俺とは違ってお前は間違いなく武士だ。だけどな……その身は決して散らすんじゃねぇ。武士らしい最期なんて言葉で飾りつけようが、死んだら道が終わる。悠助、お前の道はまだ生きる道だ」
「その言葉、忘れないでおこう。勒七、龍影……綾菜達を頼んだ」
悠助は静かに漆黒の長髪を揺らして二人へと背を向けて歩き出した。誰かがそっと背を押した気がした……。
草が自由にその身を伸ばし、冷たい風が辺りを散らす。
以前のように人が踏み締めなくなった土が舞う廃村に一人の男が足を踏み入れた。
月影城のあった村である。漆黒の長髪を惜し気も無く風に靡かせ、男はしっかりとした足取りで歩いていた。
しかし、男はある一点を見てその歩みを静かに止めた。男の目の前には此方に背を向けて屈む初老の女。
女は音に気付いたのか立ち上がって後ろを振り返ると、男の姿を見て少し寂しそうに微笑んだ。
落ち着いた藍色の着物に身を包んだその女は、男に静かに頭を下げた後、そっと口を開いた。
「この場所で人に会うことがまだあったのですね」
音も無く落ちていったその言葉は男の耳に酷く響いた。
「私の名前は千秋と申します」
「俺は悠助といいます。貴女は……」
悠助は疑問を口の中に押し込んでぎゅっと口を結んだ。
千秋はそれに気付いたのか、穏やかな笑みを浮かべると子守唄のように言葉を紡ぎ出した。
「嘗てこの場所はとても穏やかな平和な場所でした。月影城の主であった安斗様は城の者にも、村の者たちにも誰にでも平等に手を差し伸べる方だったそうです。私の祖父はそんな安斗様の為に生きられたことが誇りだったようです」
「城に仕えていたのですか」
「私の祖父の名は秋辰。嘗て月影城で安斗様の右腕と言われていた男です」
――道が静かに動き出した。