~修羅 第参章 『正体』~



『待ってよ!!』

『早く来ないと置いてっちゃうよ』

あの女の子は……あたし?

『琴音は桃色が似合うね』

貴方は誰?顔が見えない……

『これなら毎日使えるよ』

『ありがとう、兄上!!』

兄上?兄上なの?ねえ、兄上!!待って!!待ってよ!!!


「兄上!!」

灯影がゆらりと揺れた。

「……夢?」

開いたままの本を茫然とした表情で見詰める。突っ伏して寝てしまったためか、腰が不機嫌そうな音を立てた。

「……兄…上……」

水を求める喉を無視して、琴音はぼうっと宙をさ迷った。
琴音にとって此の場にあるのは、読み掛けの本ではなく、夢の少年であり、夢の少年ではなく、読み掛けの本なのだ。

「琴音ちゃん?」

琴音は、はっとして襖に目を遣った。其処には、心配そうに此方を見る綾菜がいた。

「綾菜ちゃん……」

「明かりがついていたから、声を掛けてみたのだけど……何かあった?」

無理に言わなくても良い、と言う綾菜に涙を呑んだ。

――どうしてこんなにも優しいのだろう。

琴音は静かに口を開いた。

「夢を見たの。幼い頃、兄上と一緒にいた時の……」

定まらない琴音の視線を掴まえるように、綾菜は正面に座った。

「両親は、あたしと兄上を捨てた。貧乏だったからだと思う。両親は優しかったもの……。だからこそ、捨てられたことが悲しかった」

琴音はポロポロと涙を溢す。

「捨てられてから暫くして、あたしは兄上と逸れてしまったの。あの日からずっと兄上を捜しているけど……顔も名前も思い出せないの」

幼かったからなのか、余りにも衝撃的過ぎたからなのか、分からないけど、と言う琴音に綾菜は何も言えなかった。

「この簪だけが、手掛かりなの」

綺麗な黒髪に輝く桃色の簪。
お金に困った時でも、決して売らなかった大切な物。

でも其れを見詰める眼差しは、酷く寂し気だった。
そして静かに涙を流しているのだ。

声を出さずに泣く姿は、余りにも儚いものだった。居た堪らなくなった綾菜が、ぎゅっと抱き締めれば、幼子のように泣き出す琴音。

其の声を、悠助と勒七は部屋の外で聞いていた。
襖に背中を向けて胡坐をかき、お互いに顔を見るなんてことも、中を覗こうなんてこともしなかった。

「わっちらに兄を重ねていたのかねえ……」

「十中八九そうだろうな」

思い出されるのは初めて会った時の事。

二人は其限、声を立てることはなかった。
耳に入り込む泣涕(きゅうてい)の音に、塞いでしまいたいと叫ぶ手をぎゅっと握り締める。

――夜はまだ明けなかった。