何時も乍ら、書き上げたあとはヤレヤレで、㐂しくなったり悲觀したり。そして、矢張り「どうでもいいや」私を知ってくれる方達によんで頂くんだから、字のまづいのは、半分カンベンして下さるし、半分はアキラメて下さるでせうと期待したり。

此の第三巻にはもっともっといろいろな創作を入れたかったのだけれど、次の第四と複重しないかと考へたりして、ガリ版を書き乍ら、その順序をゴチヤにして終ひました。

此の次には「俗略」を刷ります。兵法「三略」に対して、私流の兵法の解釋です。古代の兵書の言葉を現代の私達の生活にあてはめて「俗略」です。
草々 かしこ。
 昭和三十七年七月十日終わる
 
昭和三十七年八月十日印刷完了
発行部数 二百部

炬 かがりび
   発行者 達磨観法  神典象易
   若月 佑孔 
 

 

慾はいけないとは私は云はない。むしろ、大きな大きな大きな慾を持ちなさいと云う。


「私は慾が無いから」なんて云う人は、大きらひだ。


「慾がない」ならやせがまんして、自分を立派らしく見せる、聖人ぶるその言葉をやめなさいと云ひたい。
又、多慾もいやだ。多慾とは、此れも、あれも、と、何でも欲しい。白もほしいし、黒もほしい。成功も欲しいし名譽も金もついでに女まで欲しい。片っぱしから、眼に見たものが欲しくなる。


それは、現在の生活に確たる方針がないから。希望がないから、心に節操が無くなって、眼に寫ったものにすぐ気が散るのだ。


「慾」を持つなら、素晴らしい大きい慾。それを一つに持って、その慾望に邁進したらどうだろう。


大きな大きな慾をドッコイと抱いて、可愛がって離さずに働いたら、その慾だって、其の気になって協力するだろ、只まっすぐに突進する。ガムシヤラでも、良い。いのちがけで進むなら、それで本当の大慾になり、其処から、生活のリヅムが、其の人特有の生活の様式が、生活の意義が生じて来る。


その慾が大きければ大きい程男らしい。大衆の前で、俺の慾求するのはこれだ!!と云へる程目的に突進してゐるのなら、その自身の強さ、大慾の中に男一匹の價値を見る。

珍重すべきは「大慾」である。
 

 

どの様に「精進」するかって?

別に断食して居るわけでもない、むしろ人より喰いたいね。お経でも誧んで居るか?
冗談じやない、あれは朝一回で完了だ。それよりむしろ、一日中の一言一句も一挙動も俺の経であり俺の言葉でありたいと思ってゐる。

では何を精進としてゐるのか、只一つ、「時間を無駄にしないこと」だけである、一寸暇があれば本を讀む、書く、お客様があればその応対に熱中する、そして、何時でも次の物事を行へるやうに時間を惜んで實行だ、例へば本を読むことに、他の事を心配せずに熱中出来るやうに常に此の小さい身辺を整理するのである、時間の変化時代の推移に応じられるやうにと思ってゐる。

人に物を上げるのを惜しいとは思はない、何故って、皆、俺の作ったものでないからだ、只その品物が此処に来ているだけなのだから、所有者が変っただけで其の物が活用されたら有難いこと、で、俺は金持になれない。

でも、俺は金持に対する「時間持ち」なのである、俺は、俺の毎日を自分の意志で、どの様にも使へるのである、「時は命」だと思って、それを無駄にしまいと、そして、今まで五十年の経過、研究を無駄にしたくないだけである。俺の希望はこれだ!!
 

 

此の未完成の完全を續けて、万年もくづれないピラミッドになるか、途中から予定をかへて、塔を作るか、又は家を建てるかはその時のこと、兎に角毎日を完全にする為に毎日の生活を整えやうとしてゐる。借金も無い様にする、人との義理も缺くまいとする、「敵」と自称して来る者以外とは、良い友良い兄、良い父であろうとする。

机の上も、押入れの中にも、何時誰が見ても辱づかしくないやうに、躯の調子も整へて置かねばならない。忙しい忙しいそれに又、今日思ひ立ったことは今日中にして置かねばならない。むづかしいよ、

さて、此の毎日々々の積み立てがどうなるか?これは俺にも判らない、只、今日で終っても、今日まで「完全に俺らしく生きて来た」それでよいのだ、だから、敢えて俺は斯うだと仮定を付けてゐない。只今までの積み上げたものの上にのんの様が次々と作るものを指示して下さるだろう、毎日を完全にしておかなければ明日の完全はない、今までの正しい積み上げが、他の人にはくらべてみて、貧弱であっても、自分としては自分らしいものであれば良かろう。

思はぬことから、易者になった。易者として完全でなければなるまいと、毎日が勉強だ、古典を調べる、新らしい俺らしい易の理解を持つ為に兵書の研究もやる、斯ふやってゐて、此の次は何になるのか、暴風雨が来るか洪水が来るか、現在が完全ならばその時も完全に出来る筈だ、で、俺は只、今日のことに「精進」しようと思ってゐるだけだ。
 

 

まあ、一生懸命自分を練成することだね、あの山もこの谷もあの海も此の河も徹底的に歩るき廻って、足で踏んでみ、目で見て、舌で味って、人の噂さの風に吹きとばされ、人の不人情の雪に押しつけられ人の言葉の色に迷ひその中で生きて、生き抜いてから、その生き抜いたよろこびが自信になって、さて、それから「希望」を持っても遅くはない。

その人生の練成をしないで一生を只生きる為に通ってゐる人もある、無我夢中では人生の練成になってゐない。愚痴泣き言は練成に負けたのだ。人生の練成は元十才まで續いたってよいではないか、自信の出来てゐない希望は「憧れ」でしかない。

「それない、何故先生は希望なんか無いよと云うかって?」俺は希望を特に持ってゐない。自分の人生は一升だか五升マスだか一斗升だか四斗樽だか一石桶だか自分でも判らないから、敢て一升ときめないだけだ。

然し、此の毎日毎日が希望でもあり實行でもある。毎日毎日を俺らしく生きやうと思って努力して居るのさ。

自分の鼻で呼吸し乍ら、人が何と云ってもよいさ、毎日毎日を俺らしく完全に暮して積み重ねたら、どんな形の山になるだろ、一年後に死んだって低い山さ、十年後に地震があっても崩れない山になる為には毎日毎日をゴマカシなく完全に生きねばなるまい。
 

 

此の人を登山家とすると、今日まで、あの山この山とあらゆる処を踏み通って、暴風雨に打たれ、旱天に曝らされ、餓も乞も通った人だ、斯くてリーダーとしての資格が出来る。

マナスル登頂した槇博士は日本中の山を歩るいた人だ、そして、ヒマラヤをも何遍も登った人で、世界的にその技量を認められた人である。隨負十三名も日本中の山を歩き廻り、あらゆる困難を味ったベテラン揃ひでである、彼等であってこそ、マナスルを眺めて、登れる自信があってこそ、登ろうと云う自信に依る「希望」が出来たのだ。

君は、登山家としてなら、まだ山を踏み越えたことのない登山家だ。雪山の無常、積雪の怖しさ、
山の雨の冷さ、飢からくる寒さの体驗が無いだろ、人生の苦の川を泳いだこともあるまい、借金の谷に行き詰まったこともあるまい。口車に乗って崖から落ちたこともあるまい。

それでは輝く名譽の山が目前に連らなるつてゐても自信があるまい、希望が持てまい。

自信がないのは当り前だ。まだ小山も小川も越えてゐないじやないか、或は小川の一本を徒渉したかも知れない。但し人に手を引かれて、さあ、これから、一人で歩るくとなると、平地でも心配だ、雨になったらどうしやう、風が吹いたらどうしたらよいか。

立ちすくんで動けない奴に限って、こんな弱虫にかぎって、「希望」だなんてないのさ。そんな弱い躯で自信のない足で山を見て登ろうと云う自信は、滅茶に値ひする、尊敬しやうか?
 

 

今は違う、明日の事がアテにならぬ。味噌も醤油も連成だ、インスタントコーヒ、インスタントラーメン、インスタント学問だ、其の時さへ間に合へばよい、の時代だ、その場その場を生きる事に精一パイで、フーフー云ってゐる、そんなのに希望はなんて云ったって無駄だよ、皆がフーフー云って其の日其の日に駆け廻って居る、春だ、花見となると、春の風情と花の色を眺めて、心楽しくあそぶのではない、ソラ休みだ休まなきや損だ、酒だ、招待だ、山の中までラジオを持って行く、テレビまで提げて行って、ギヤギヤギヤ、ウルサイウルサイ。

然し、其の人達も生きている。明日はどうなるか判らないのに、今日も矢張り取引してゐる、生きる為だ。そして、明日、明後日、せめて一年後に備へてゐるのだ、何故、それが出来る。

「明日が若し暴風雨でも通るさ」「何とかするさ」「何とかなるさ」なのだ、これは「自信」だ、今までもこれで通って来てゐるのだ、將来への希望なんて云はなくとも、自信があるからさ、其は親不孝をし乍らも、親に対して義務觀念のある伜みたいなものだ。

その自信の無い奴こそ、ウロウロ迷ひ、そして、希望だ希望だなんて云う、義務觀念を失って、自由自由と云うのと同じである。

「自信」は必ず經驗を重ねて生ずる、明日は暴風でも山を越えやう、雨でもナアニ大丈夫さ、何とかなるさの自信は、今まで散々苦勞した人の持つ自信なのである。自信を持つ者は現在の困難にも自分の立場を失って迷はないし、將来への危險にも方策を持って安定して進む。その自信力に対して、四囲の人は安心感信頼感を持って集まり、此処に協力が出来て来る、不安で迷って居る者に誰が協力するものか。
 

 

政治の責任者が斯の様で経済界がフラフラ株が上がった下った、大衆が躍らされて、大所が一手に儲けている、インフレにしてから締めるのに、ヤレ神武景気だ、ナベ底景気だと言葉を作ると、大衆がワーッと応じて動く、自分じやその潮に乗るまいとしてゐるが風潮に押されずにすまない、一緒になってアップアップだ、自分が堅くやってゐるのに、受取った手形が、今日その取引相手が失敗してパアの空手形になって終はないとも限らない。

今、送り出す高価な品物が先方に到着しても金が手に這入るかどうか判らない、三ヶ月後の手形が金になるか?切角賣って儲けても次の値上りで仕入をすればその儲もパア心配なんだよ、不安なんだよ。

全くメチヤクチヤになった、人の信義も守られないし、道徳もない、親子の情愛まで変化させられて、老後の自分の生活の頼り杖になってくれるかどうかも判らない、昔はそうなかった。親不孝の伜でも、親不孝をし乍ら、義務の觀念は有った。今では義務の觀念すらないのだから、親不孝なんて上品なことすら無くなりつつある。

昔は、固く正しくさへやってゐれば心配なかった。

努力が報はれた。だから、山に木を植えて、六十年百年の後の孫の代までの事を考へてやったし、味噌醤油の類まで、三年味噌五年味噌梅干なんかは十年前のを出せなんて言って居た。人間も悠長だし、希望を持ったにも十年二十年の後に期待した。
 

 

若いのが来て云う、

「先生、僕は希望がないのです」「俺だって無いさ」「では、何故生きて居るんですか」「死ぬ訳にはゆかんからさ」


希望、希望と云ふが、そりや何だ?ちよっと聞きたい。


「希望」って何だか位いは如何にトンマの俺だって判っては居るさ、でも、君の云う希望って何の事を意味してゐるか聞きたいんだ、希望の種類じやない。


「希望」ってそりや何のことだ?
よく眼をあけて見ろ、町の商屋のおやじだって、かかあだって、会社の社長だって、貴方の希望は何だ!!ときいたら、ハテナと考へるだろ、何故だ、昔、此の戰爭に負ける前の時代には、安定してゐて、政府も百年の計をたててゐたし、皆も、明日明后日、否、十年、二十年後も斯うなのだと、思ってゐたし、社会も安定してゐるから、今、斯うして置けば十年後は斯ふなると考へて生活出来たから、希望も持てたし、策も立てられた。

今はメチヤメチヤになって、明日どうなるか判らない。政治だって、二三人のボスが、いろいろ工作すれば動く、昔は政治に失敗すればその責任を自ら取って、天皇陛下に骸骨を乞ふ云うこともあったが、今の總理大臣は誰に対して責任を取るのか、本当は公僕として国民に対して責任をとらねばならぬ新憲法になって、誰が国民に申し訳ないと引責辞職した奴があるか?ズルズルにズルくっても、強引に引きづっても何とかなる時代だ。
 

 

男なら、すべからく、竜にならなければならぬ、グチグチ云ったり、悧巧ぶって、自分を人に露呈して終ふ者は竜ではない。


禪語に、「隨所に主となる」と云う言葉ある、その場その場の形になり切って、初めて、自分の力を発揮出来る主要力を持ち得るのだ、グチやリコウは「隨所に主と」なり切れない者の姿だ、竜よ、お前は力を出し切ってはいけない。