佛様、ほとけさまにもピンからキリまであるらしい。道傍で小犬にオシッコをかけられてゐる地蔵さまから、一寸八分の小さい躯で、二十間四方の大殿堂に「秘佛」と云はれて陽の目も見ずに監禁されてゐる佛樣まである。ほとけさまの社会にも階級があるのかな。


 特定の人間共が集まって、その様に擔ぎ上げて終ひ坊主共が「めしの種子」に商賣化し、又、それで生活する者達が集まって宣伝の太鼓を叩くと、後々の人達もその気になつて、みんな有難がって、不思議とも何とも思はなくなる。


 斯ふなって終ふと、もう、教儀や佛様の功徳なんてどうでもいい。お祭りや儀式や人の出方が受ければ「有難やし有難や」が坊主と商人、お詣りする方も、いいかげんなもので、或る料理屋の若い板前君、パンパンと手を叩いて、、大きな声で「世間並みにお願いしまあす!!」

 人間達の生活もこれと同じで、何時のまにかそれを昔むかしからの事だと思ひ込んで終ふ、だから、全くの能なし、馬鹿社長でも偉ら振って、それを取り廻はす。「取り巻き連中」もそふする事に依って自分の生活が出来るんだから、尚ほワイワイと太鼓を叩いて、大袈裟にする。


 よく、眞相を見極めねばならぬ。


 昔、澤庵襌師、吉原に行って、遊女から、Y画を極彩色で書いた腰巻をスルスルと抜いで、「サア、これに「讃」をして頂戴な!!」「よし、よし」と書いたのが、


 佛は法を賣り、祖師は佛を賣り、末世の僧は祖師を賣る、汝、五尺の躯を賣って衆生の煩悩を済度す、柳はみどり、花はくれない」