三年交際が續いてなかったら、友人と呼んではならない。五年を経なかったら、親友とは云はれない。だから、友人を作るには、金銭的ではない時間と云ふ資本が入用なのだから、友人、親友とは大切なものである。鴉は鴉仲間。雀は雀同志集まって遊んでゐる。類は類を呼んで集るのだから。自分の友人で自分の姿が判るのだし、人を觀察して人柄を調べるには、其の友人達がどの様な人物達であるか、眺めて居ればすぐ判る、


 昔、桓公と云ふ偉い王君に「相者」が呼ばれた。「どうだろふ、俺は支那全土を征服して覇君となろふと思ふが」と問はれると、相君、「結好です、立派に出来ます」「隨分簡単に云ふじやないか、俺の人相を見るでなし、占ふこともせずに、一言で出来ると云ふ。オベンチヤラに過ぎはせぬか」と云ふ。相者は形を改めて、「いや、貴方を相しなくとも良いのです。御殿に参上して暫くの間、貴方の四囲の人達の言語、應対人柄を見て居りました。大臣達も、武臣達も、皆立派な人物です。よく、これまで立派な人達が集まって来て居ると感心しました。これを見れば今更ら貴方を相する必要はありますまい。」と謂ったと。


 賢主と呼ばれ、良い友、良い部下にめぐまれる為には賢主は常に賢人を迎えるに、謙遜であり、禮に正しくなければならない、豪傑を迎えて、その死さへ辞さぬ協力を得る為には、戝と信頼とを與えねばならない。集まって来る人達の才能をよく察し、その功績に対して恩賞は公明正大であって、決して主の私の好悪に依って行ってはならない。