戰場で敵味方大軍が合ふ、合戰と同時に、名将なら、アリ勝けた!!と、兵士のまだ痛まぬ中に總退却させて、次の戰閗に備えさせます。微を見て結果を悟っての行動です。愚将は戰って戰って、一方の兵が五千になり、三千になり、千になり、いよいよ自分が掴えられて、負けたと判る。


 それも、功角十目なんだから、これを捨てて、今更十一目を取っても仕方ないではないか!!の就着、その就着は大局を見れない、大局を見た心算でもその「微」を察せられないからです。


 微を知ることは機を見ることです。機とは前兆の事です。機を知ると同時に行為する事は「てだて」と申します。謀略計略ではありません。もっともっと「機微」を要するのであります。「即略」と云ひます。「拙速」を○ぶものであります。


 「機略」「即略」は、自問自答でなけれは出て来ません。
 「自分の聲」に依らねばなりません。
 

 

 余り商賣に明るい人は、その自分の見方に溺れ、就着して終って、今の中にさっさと止めて、新らしい方針で出直した方が良いにと思ふのに、と、人が心配してくれて居る時を理用せずに次第に「彼奴は馬鹿だ」と親戚からへも見離されて終ふのである。


 斯んな人に限って、私は何時も運が悪るいと、世の中をさへ怨む確かに悪るい、頭の血の運りがと思いませんか、
又、商賣が、今の中にやめればよいのに、グヅグヅして、元の子も無くなるまで決断の付かぬ人もあります。


 愚痴なのか、機微を知らぬのか、賣掛けや在庫の豊富な中に退却転進すればよいのに、他人の口先ばかりの援助約束をばかり頼りにして、結局には在庫ゼロ、賣掛けは回収すると一緒に食ひのばしに使ってゼロ、完全にペンヤンコです。
 

 

 「商賣は道によって賢し」と云って、その商賣その道には「なる程」と思はせる達見の人もあり、その商賣から世の中を眺めての批判は隨分と立派で徹底し乍ら、いざとなると動きが付かない。機微を掴み損ずる人こそ、商賣が下手なのではなくて、上手、器用すぎて居るのではないでせうか、


 昔、第一次欧州対戰の時、獨逸の二箇師團が仏蘭西の一箇師團の包囲を受け、簡單に全滅させられたことが、戰央に残ってゐます。その時、獨逸の總司令官は全力を擧げての大逆襲を命令すればよいのに、自分が砲術出身であったものだから、自ら、軍力を抜いて砲兵の中に立ちまじって、ソラ打て、ソラ打て、と陣頭指揮、その為に功角の二方の歩兵騎兵は何の指揮もないままに戰線をアチコチいてゐる中に完全に勝機を失って、ムザムザと自分の半分の兵力の敵に全滅させられて終ったと云ひます。
 

 

 昔の名将の中には、一旦奪った城を守り抜くと見せて、敵の大軍を其処に集中させておいて、其の間に他の方面を攻略し、次は、わざと負けて敵を其の城に入らせて、完全に包囲して終ったり、城を明け渡す前に火攻の仕掛けをして置いて、敵の大軍が勝戰!!と一気に入城したら、火を掛けて囲んで潰して終ふと云ふやり方をします。どうせ敵の作った城の中で敵を燒き殺すんだから、何も惜しくない。


 大局の微を知って戰ふ者は斯く勝ち、微を知らぬ者は自ら、焚かれるのである、


 機微に通ずとも云って、大局的な変化を知り、それを利用し、その変化に先立って先手を打ってこそこれが出来るのである。
 

 人生の実生活では本当に此の微を知って、捨てるものは棄て、ひろふものは手に入れなければなりません、何時までも前の職業に就着して時宜を知ってゐる例が沢山あるのです。世の中の移りかはりに盲目的であったり、親ゆづりの看板だから等と云って居る中にお顧客をすっかり失って居る人がありました。


 昔は、鍋釜は金物屋で賣ってゐましたが只今では電気屋に賣ってゐる。お酒屋さんで週刊誌を賣り、薬屋さんではアイスクリーム、お米屋さんでは、シロップや味の素まで賣る世の中になりました。


 インスタント時代だから、神社では結婚式場と一緒にお産婆さんをおいて産院も経営するかも知れない、こんなめぐるましく変化する時代に、その変化の根底の機微をよく見極めておかぬと、完全に敗残者になって終ふ。
 

 

 戦爭だとすると、奮戦力閗して敵の城を奪った。大切な基点になる、功角取った城だ、もう敵になんか渡すものか、絶対守れ、守り抜け!!此の様にしてゐる中に全般的の戰況が変わって行って、何時のまにか、その城は的の四囲する中の孤立無援の城になって終ってゐる、何の為に血戰して取り、何の為に多くの犠牲者まで出して乍ら、守ったのか意義が無くなる。


 これは、戰の大局的変化に盲目だった事に依る。一つの城の利益に眼がくらんで、勝負の機微を見失ったのである。敵の勢力を押へる為に奪った城でも、大局的に手離さねばならぬ時は、一時不利の様に思えても、又敵に與へる。そして、次の情況に應じての戰ひを進めて、大きく勝を制するのが本当であり、城を取り、それを守り通す事が勝ではないのであるが、往々にしてそれを忘れて終ふものである。


 で、能くその彊きを欲すれども、その微、この”微”とは、カスカナモノ、目に見えないものと云ふ意味で目に見えない戰の大局の動きなのです。此の大局的な変化がまだ形となって現はれて来ない、これから潮が満ちて来ようとする気配、これから潮が引こうとする気配の様に、まだ働きとなって表現されないもの、然し、必然的に起ろふとするものの動き、これを、トバクで申しますと、付いて来た、付いて居るとか云ひ現はす、形にない運の浪の差し引の感じを微と云ひます。これが判らぬと、十目を捨てて十一目どころか、一度三目をひろっておいて、さて、次には二十目ごっそり頂く等の肚芸は出来なくなる。
 

 

 三略と云ふ支那の古い兵書に「能く彊きを欲すれどもその微を守るもの少なし」と云ふ言葉があります。


 

 囲碁で云ふと、お互ひに陣地争ひなんです。三目の領地を捨てて十目の領地をひろふ事は誰でも能くするが十目の処を捨てて十一目の処を取る事を仲々出来ない。人間とはそんな者だ。と云って居るのは兼行法師なんです。面白い言葉で兵書の「能く彊きを欲すれどもその微を守るもの少くなし」と云ふむづかしい文を説明して終ってゐます。
 

 三を捨てて十を取る。これは本当に誰でもする事です。敢えて危険を犯してまで行ひますが、さて十目をすてて、十一目をと云ふ場合になると、待てよ、功角十目なんだから、一目の損得くらい良いじやないか、と十目に就着して終ひます。其処に思考が固定し、勢力が限定されて終って、もふ發展はありません。何時のまにか他の所に敵の勢力を浱らせて終ひます。
 

 

 事業をするにも、自分の靈に合った靈位の者が部下に付けば、命令せずとも働いてくれるし、失敗もない。兄、弟、妻の靈位の者が使用人になって呉れれば、仕事は安心して任せられる。


 若し、仇敵の様な、靈位のものと結んでは事業は道に頓坐失敗するし、自分より靈位の髙い者を部下にすれば、自分は社長としての椅子に在り乍ら、その部下に頭が上らない、遂には椅子も奪はれて終ふ。


 相手と取引するに当っても、先方が親める靈位であれば取引は相手任せでも順調だし、先方の靈位が自分より上なれば、先方の立場は良くとも、当方は左右されて終ふ。斯くては失敗する、失敗しても、ケンカする訳にも行かぬとさへなって終ふ。


 人事百般、斯く素朴な原理で左右されてゐるのである、隣に住み合ひ乍ら、親しめない相柄も霊位だし千里の外に遠く離れて思ひ合ふのも霊のなせる業である。立派な成功者と云はれ乍ら、くだらない生活をしてゐるせと心中までするのも霊位の現はれなら、其の日暮しの貧しい生活乍ら、王様とも平等に話し合へる霊位もある。では、その成功者とその女とはどの様な霊位であったろふか、仇敵相殺の霊位でなかったか。王様と貧乏人とは兄弟や父子の霊位であるに相違ない。


「霊」には尊重、富貧、老幼の差はないのである。

引き合って殺し合ふ霊位もある。一緒に夫婦とまでなり乍ら楽しめない霊位もある。


 どうして斯の様になったであろふか、「霊」の存在を忘れた人間の持つ宿業に依るものである。
 この説明も後に性命と云ふところで述べる、
 

 

 靈位では他人であって夫婦になっては不幸だ、靈位では仇敵の関係であり乍ら、肉体的には親子になってゐては悲惨である、此の様なものは、世の中に隨分多い友人の交際でも、商取引関係でも靈位に左右される事が非常に多い。これは、それを気付く事に依って予防や、関係を解消する事が出来るのではないか。


 だから、自分と相手との靈位の差をはっきり知って置く事が大切である、それは簡単である、「気が合ふ、合はない」の一言である、その時、慾得の心をはさんでは正鵠を得ない。この事は「宿命と云ふこと」で云った性命的共感なのである。


 夫婦としての靈位が合って結婚したなら、それは仕合せである、共通感念が何より強く、何年離れてゐても不安を感じない、又、夫婦とならなくとも、靈位の合った者同志は不安を感じない。が此の様なのは望ましいが仲々ない。何故なくなったのか?結婚に必要な性命的共感と云ふ靈位の働きを確かめることなく、慾得の心、因縁を尊重して結婚した事に依る。斯くて、殿様と下女、門番と王姫の組合せが出来て終ったのである。


 何故、斯ふなったのであるか、それは靈と云ふものを見失った過去の宗教家や学者に依るものである。そして、今更の様に因縁だ業だと云ふ。


 此の因縁業は後に性命と云ふところで述べるが、兎に角靈とは斯く恐ろしい働きをしてゐるものである事を知って慾しいのである、宗教家の云ふ生靈死靈」よりもっと痛切に毎日の生活を支配して居るのである、
 

 

 因縁に依るものであれば何とか改善出来るが、靈位に依るものは、解決の方策はないのである、靈位的に頭の上らないオヤジはどこまでも女房に負けるし、努力奉仕を認められない女房は何時までも靈位での女房になれないのである。


 皆、これは靈位の現はれである、それを気が合はない、趣味が違ふとか、時代的な感覚の差だとか云って居るが、近代的な言葉で表現するとそうなる。


 甲は弟の乙には、兄弟とは云ひ乍ら兄弟の感情を持ち得ないで、他人の丙には兄弟以上である好感情を持つ丁には初対面から、「蟲が好かぬ」と云ふ、丙と丁とは、物凄く仲が良い、甲は丙には親近感と同時に絶対頭が上らないで無理でも承知するが、その丙は甲の弟には無条件に酷使されてもよろこんでゐる。


 全部靈位に依るものである。


 「彼奴にはどうも」といやいや乍ら逃げられないのも靈位だし「一目ぼれでどふ仕様もない」のも靈位の働きである。

 

 

 夫婦の仲にも靈位に依る働きがあるのである。靈は単独では働かない、必ず相手があり、相手の靈位の上下によって、靈活動が初まるのである、だから、一つの夫婦の形で云ふなれば、主人は王様の靈位であり奥さんは下女の靈位のものがある、

 奥さんは貞淑そのもの、良く主人に奉仕するが、主人は当り前として超然として感謝の念すら持たぬ奉仕するのが当り前としての態度、夫婦共、これでは哀れではないか、ところがその主人、一歩外に出ると友人のAには絶対頭が上らない、でもその友人Aが此の家に招待されたとなると、奥さんにはポンポン悪口を面と向って云はれて喜こんで居る。


 主人、奥さん、Aとの靈位に依るものである。


 又、此れとは逆に、奥さんは王姫の様に威張ってゐる、御主人はまるで下僕の様に何事にも頭の上らないでゐるのもある。主人は会社では、社長として、大勢の部下を使ひ乍ら家に帰れば斯ふだ、主人は家に帰るのを厭やがる、自分と靈位の合ふ女と外に求める、どの程度の靈位の女を求めるだろふか、考へてください。


 父と子でも其の通り、父が下男の様に伜に奉仕して伜は平然とそれを受けて居るのもあるし、父と子が仇敵の様に気が合はずにらみ合ってゐるのもある。生活状態の過去に原因があったと云ふ事もあろふが、それより靈位の関係なのである。私は、それと二通りに分けて考へる、夫婦の状態も父子、兄弟の状態も、他人同志の間にでも、その状態、即ち、仲良い、仲悪い、上位下位のことが因縁(生活状態)に依るものか、靈位の差に依るものかを判定してかかるのである。