俺も竜と云う字が好きだ。


字があっても實体がない、實体がないから自由に考へられるから好きだ、なまじ實体があるものは、考へ方も限定されるからいやだ。竜は實体がないから、何処でも住める、青空の中の一片の雲の上でも、暗い夜の黒雲の中でも、水の中でも、土の中でも、居たってよいじやないか、竜の画では頭から尾まで描いたらだめだ。頭や胴、尾などが、ピカッと現はれてスグ見えなくなってこと怖いのだ恐ろしいのだ。


雲の中でも、水の中でも、パッと現はれて驚天動地の働きをして、すぐ形を消す、竜の強さはそれだ。


人間の竜もそれだ。平常には平平凡凡の愚物の姿で居て、必要に応じてパッと働く、働いてアッと言わせておいて、後は知らぬ顔の半兵衛さん、「そんな事がございましたか」でなくてはいけない。


普段から、悧巧ぶって、インテリらしく、示威運動をし乍ら、いざと言う時に何も出来ない奴がゐる。こんなのは、ウロウロニョロニョロのミミズの様な奴、竜の様な人物は、天に居ても地に居ても、会社に勤めても、商人になっても、下男になっても、充分その境遇になり切って、平凡の形、自分の力を少しも現わさず、所謂、頭角を現はさずだ、そして、さあ、此の一番と云ふ時にパッと全力を示す、そして、その奇想天外の行動と素晴らしい力を、その効果と共に一瞬で収めて終う、其の次の瞬間には、四囲の人達には、何事が行はれたったのか、その正体すら判らない。


竜の人物は、下男になったら、下男になり切る。サラリーマンになったら、サラリーマンになり切る、商人になったら商人になり切る、社長になったら社長になり切る、平々凡凡だ、然し眠ってゐるのではない、常に研究、常に努力し乍ら、それを表面に現はさない、然し必要があれば、下男が大名の働きをし、社員が社長以上の活動をし、社長は別の事業にパッと働いて、又、元の姿になり切って、自分を隠して終う、
 

 

龍頭觀音のときは、何枚も書いたが全部駄目だった。


黒雲の黒土の色が濃いと竜の顔を大きく書くと、觀音様が浮き上って輕るく見える。


大体まだ竜と友達になった事がないから、どう書いたら良いか判らん、浅草の天井の竜を書いた奴なんか、竜と友達なんだろ、そうでないと、ゴマカシの画だよ。何べんも書きなほした、竜の顔、角、頭、手、胴足尾、それから鱗と、丁寧に書いた。チットも怖くない斯う画いたんでは、竜もトカゲの親方みたいになっちやった。で、悟ったネ。


昔、支那に学者のバカが居た。此の大人、竜が好きで、紙も竜のスカシ、文鎭も竜、筆も竜、机の脚も竜、何でもカンでも竜の形や模様なんだ。


ある時、天上の竜がそれを聞いてうれしくなって、本物の俺が行って、「逢ってやったらさぞよろこぶだろう」てんで降りて来た、家を四まはり半もグルグル巻いて、玄関に顔を入れたら、学者先生ギヤツと気絶したげな。


学者先生の好きだったのはオモチヤの竜なんだよ。人間なんて、万事これと同じさ、物事の眞相を知ろうとしない。眞相を見ないで、仮定のもので安心しやう満足しやうとするもんだ。これを「疑竜の楽」とでも云うか?


大体、人間なんて、ウソで満足したがるものだ。ハッキリ判るのが怖いらしい。


自分じや胃ガンじやないかと、毎日クヨクヨして居て、漸く医者のところに行く、お医者も承知してゐるから、胃ガンではないと云う、そして、患者も疑り乍ら、ワザと安心して、胃ガンで死ぬのだ。
 

 

毎年のことだが元旦になると、俺は妙なくせが出て、苦業をやる。


ずっと前には、遺教經の和訳をやって、巻紙に清書した、障子紙の巻紙さ、長さ四間余りになったね。又、のんの様を書いた事もある。朝九時に筆を持って、画き終ったのが夜半十二時たったこともある。


今年は波上觀音を書いた。昨年は龍頭觀音を書いた。波上觀音は蓮華の芭一つが浪の上に浮いて、其の上に觀音様が立って居るんだ。随分よく出来たと思った。と云うのは、興がのると、よく觀音様を書くが、姿はまことに良く描けるが顔音がどうしても丸ポチヤになる、可愛らしい觀音様だ。何時かは、觀音様の月にマツ毛を書いて、入れぼくろも書いたら、肉体派の觀音様になっちやった。女房が吹き出して、「お父様の好きなのは、こんな觀音様でしよう」だ。


波上觀音はそんなじやない。實に上品だぞ、だから、俺様自ら表装して、茶の間の置床の上に掛けてある、お客様が来る、俺が書いたものと知らないから、拜んで、「これは何番の觀音様ですか」「五十六番!!」妙な顔をして、「觀音様は三十三番までと聞きましたが、何処のお觀音様ですか」「此処のですよ」

 

何番だっていいじやないか、勝手にしやがれ!!
 

 

自福と云うことは、今まで一日千円の生活をしてゐたが、今失敗して三百円の生活になったのなら、いさぎよく、一気に二百円の生活に引き下げるのである、毎日百円の余裕が出来る、これを現金預金せよと云うのではない、この位いの心掛けをせよと云うのである、それを、失敗し、貧窮しても、尚ほ今まで通り人には見せたくて、と云っても千円の生活は出来ない。七百円の生活を仕様とする、これでは、失敗貧乏し乍ら、毎日五百円の借金を増してゐるやうなものではないか、これでは絶対的に再起出来ない、それから、食物をととのへること、失敗したら、乞しくなったからって、まづい物を喰へ、池田ではない、麦を食へとは云はぬ。暴飲暴食を極力つつしむことである、金持ちだからと云って、飲食にぜいたくし、暴飲暴食しては、躯も疲れ、こころも乱れて終う、それでは、どうしてその富を正しく保持すること出来ようか、三年間食事を正し整へたら、躯も丈夫になる、躯が壮健なら、顔色も明るく美くしくなる、言葉も正しくなり、家の中も、夫婦親子も和合して、明るく楽しくなる、人との交際も美くしくなれば、必然的に人の信用も厚くなる。あの人ならば、此の仕事を任せられる、協力して貰へないだろうか、と、他人が捨てておかないのだ。

俺は不遇だなんて云ふ者にはきっと何処かに缺奌がある。必ず無理な生活をしてゐるか、表面ばかり飾ってゐるか、たった一人の女房と仲が悪るくなってゐる。

仲の悪るい夫婦の娘は嫁に貰ふなと云うが、女房と仲の悪るい男は連れて来たって役に立っものじやない、金を見せりや慾しがるし、女を見せりや抱きたがる、仕事をさせりや休みたがる、「ミがる」と云って、昔の足輕の部類だ。

自福とは、自分で福をを作り出すことである。それは、自分の生活を無理なく「ととのへる」ことです。
運は自分で開くものではないか、
 

 

貧窮したら、貧窮らしくなれとは、貧乏くさくなれ、不運に甘んじて意気地なしになれと云うことではない。


男はツブシが効かなくてはいけない。ツブシの効かない者は、此の会社をクビになったらどう仕様と、地位にしがみ付く、安定する為にオベンチやうも云う、毎日カバンにブラ下ってヤットヤット生きてる様な顔になる。これでは、女房も友達達も心細くなって終う、ツブシのきく奴は、何所でも、どんな時でも平然と、自分に自信を持って生きてゐる。今、これが失敗してもナアニ金魚売りでもやるさ、土方もやるさ、せんべいを燒いたって生きてゐられるさ、こんな男は、明るくほがらかに、大道坦々たる哉だ、一朝失敗しても今日は今日でニコニコスコップを持って土方仕事に専念する、俺は昨日まで斯うだったなどとグチらない。此の様に現在になり切って、ニコニコと一生懸命な男は、男一匹としての仕事をやり遂げる。

ところが、貧乏人心情の者は、グチグチが多い、ツブシのきかない奴ほど態裁をかざる、そのくせ、会社から帰ると、会社の猫が玄関から一生這入ると俄然虎になって威張り散らす、所謂『亭主ヅラ』と云う、子供なら『内辯慶、ソト味噌』で少し可愛らしいが、外でペコペコ家では亭主づらして威張る奴程小憎らしい奴はない。

こんなのに限って、会社や外で面白くない事があると、それを家の中まで持ち込んで、何も知らない女房に当る、罪のない子供にまでギヤンギヤン噛みつく。女房は心配するし、子供はオビエル、さあ、そうなると自分が怒鳴ったことの罪の苦しみに堪えられない苦しまぎれ、自分を大きく見せやうと、又吠える芝居だ、こんなケダモノみたいな奴、失敗すると、さあ表面を飾るね。俺は今まで斯うだったんだぞ、でなければグチグチグチだ。テメイが意気地なしで失敗したくせに、人の為だと恨む、そして、女房子供友人達が同情してくれないと悲觀する、コンな人間のクヅは沢山ゐるよ。
 

 

「お父さんは貧しいけれど貧乏ではないんですね」田舎の女房が云った。まさにその通り、貧と云う字は、分、貝と書く、貝とは古代ではお金、戝産を意味する、で、貧しいとは戝を分けると云うこと、分けて持ったら少ない。少ししか持ってゐないのを貧と云う、貧乏人とは、貧しさに負けて、心が根情が「いやしく」なった者を云うのである。心が欲得でいやしくなっては、どんなに金銀戝寶を積んでゐても、貧乏人なんだ。

こんな貧乏人に蓄へて抱へ込まれてゐる戝産こそ可愛そうである。

貧しい暮しをしてゐたって良いじやないか。只、それをカクシテ金持ちしく見せやうとすると、心が貧にとらはれてゐる。貧乏人になって終う。

良く見せようとするところに無理とみにくさがある。水野南北は、どんなに不運であり、貧窮しても、三年間、食事を質素にととのへることに依って、必ず運が開けて来るものであると云ってゐる。

その三年を謹しむことに依って、自分の四囲を自分の健康も態度も自然に整って来る、整って来ることは一切の「運、はこび」が正しく行はれて来る、其処に次の発展が必然的に約束されるものであると云うのあの人は「運がよい」と云はれても、成功者と云はれても、その人がもうこれ以上に發展しないものであるなら、その「運がよい」ことも「成功」も価値なしである。発展のないことはもう生命の無い事を意味して居る、これから次第に枯れて行く木のやうなもの、それは何処かに「運、はこび」の無理あかることを示してゐる。
 

 

「貧窮の相あるとも、己より貧窮を知りて、眞に貧窮の如く、廉食を以て食を嚴重にさだむるときは、自らその貧窮をまぬかれ、相応の金銀を得るなりこれを「自福」と云う。」
「また、貧を悲しみ、いろいろと表を飾り怱ちに福を得んと欲するは、ことさらに徳を損じて、自ら尚お貧窮となるなり」『水野南北 相法修身錄』

貧乏したら、貧乏らしく暮しなさい。
成功したら、成功したらしく暮しなさい。
これが関連推進の秘訣である。貧をしたら貧乏らしく、自ら、その境遇になり切って、それらしく生活することなのです。

事業の運転方式を間違へて失敗した。直ちに素直にその失敗を認めて、対策を講じてこそ、その事業は正態に回服もするだろうに、その失敗を隠して、無理にヤセ我慢して虚勢を張って、表面を飾って何とか仕様と小細工するから、どう仕様もなくなって終う。

貧乏も事業の不調も決して恥ではない。人生の消長の上の一現象であり、上昇下降の相なのである。

生れ乍ら、金も握って来た者もないし、高位高官の家に生れたからと云っても、きたない生活方式をやって、人に賤められる者もある、貧と云うことは、決して不幸のことではない、貧を不幸と思うことから、不幸が発生する。
 

 

地、重くして、人載すれども、毀敝して、養ひ足らず、
末作を事として、民之を興す。

それは、地味も良く、土地の廣さも古代のまま同じであり、春秋の変化も同じくめぐり、人も多く、又、栽培もするけれども、人君が民の農事をする時を奪って、いろいろの事に使役し、農耕の時を失はしめ、又、重く祖税してそれを奪ひ取るが為に、民は常に貧しく、自らをも養へなくなって終った。


斯ふなっては、民は農と云ふ本業を捨てて、末作たる商工業に付いて、楽な、そして、目前に利益の擧る仕事に働くやうになる。


農地はあっても顧みられず、農民が別な生活に走って棄てられた農地は租税の代償として政府に没収され政府は土地を所有して耕作する者が無ければ無に等しくなる。

◎此の事は一つの会社の経營に於ても云はれることである。切角よい地盤と使用人を持ち乍ら、その時宜に應じて使用人を活用することが出来なければ、事業は進展、不安定もしなくなって終ふ、「農民の時を奪はないやうに」使用人の活動力を社長の一存で奪ってはならない。又、社長の気に入る事を愛し、重用すると、その社長に近い部下は社長の意に迎合することばかり考へ行うやうになる。この事も民の時を奪ふことになる。又、社長の余り目のとどかない処の部下は、「どうせ働いても、気に入られやしないさ」と、敢て、骨の折れる仕事に進まなくなる。これも民の時を奪った形だ、これでは、どんなに多勢の使用人が居ても少くない人數と同じになる、どうして事業が盛大になろうか。
 

 

大体最初から、恩義の感念なんかないのだ、唯、相手を自分の為に動かし、理用する為にペコペコ、やいろんな、自分の気に云うやうな事を云ってくれる、芝居のセリフみたいなもの、それに迷はされて、世話する俺が低能か?畜生の方が悧巧なんか、この畜生は、社会で大きくのさばる、喋る家のペリ子のやうに、只ワンワン吠えるだけではない、人間の畜生は、いろいろの言葉を喋るんだ、舌も二枚や三枚だけではない、ツラの皮も百枚張りだ、その上におもしろい、紅まで塗ってゐる。甘い言葉が上手なんだ、だから、此の畜生のゐるところは、嬌声の賑やかなところ、ワイワイと笑ひ合ふところ、こんな処に生きてゐる畜生と云うものに、恩義があってたまるものか、畜生地獄にはお金が湯水の様に湧いて、愛情が桝に入れて一升、二升と量り賣りされてゐる。


人間の社会に、こんな五つの地獄があるのである。


毎日の生活の中に、天魔もゐるし、修羅になってゐると、鬼になって㐂こんでゐる奴もいろし、愚痴で、自ら暗い生活をしてゐるのもいる。又、紅燈綠酒の中に畜生が甘い唄を歌うのだ。


此の世の中は「地獄」である。切角、人間であり乍ら、地獄の生活をせねばならぬのだ、逆に地獄こそ、人の生活所なのかとも考へたくなる。


「煩悩即菩提」と云うけれど、「ウソもまこと」と云うけれど、人間は余りにあさましい。只、天魔修羅鬼餓鬼畜生には、「心」一つでならずにすむ』

 

 

痴とは自分と自分の女房、子供のこと以外に考へられないこと、自分の女房、子供ばかりが可愛いいんで、他人の子供なんでガキに見えるのさ。父性愛母性愛とも云へやうが愚痴も言葉をかへると母性愛とまでなる。


餓鬼にくらべると、此のグチは粒が小さい。自分の生活が主なんだから、罪もない様だが、どうしてどうして大して悪るい奴だ、グチとはナメクジみたいに陰気なところが好きだと見えて、暇があると、グチグチこぼす、陰気な声で、陰気な言葉使ひで、家の中を暗く、陰気にして終ふ。自分ではナメクジみたいに暗い陰気のところが好いんだろうが。四囲の者がたまらないよ、近所迷惑だ、又、此のグチにはメス、オスの区別が付かない様だ、一日中小さい事をグチグチ云ってゐて、月末になると女房の付けた家計簿にバチバチと器用にソロバンを入れて、又グチグチ、毎日使ふお金にまでグチのおまけを付けて出す。一年三年、五年とたつと、そのナメクジが大きくなって、家の中にデンと納まって、家の主みたい、子供達もたまらないから、逃げ出して、ババア一人残ったなんて、ナメクジの標本になりそうだ。


畜生、犬や猫を畜生と云うが、犬は三日飼ったらその恩を忘れないと云うが、人間の畜生の奴は、それ以下のものなんだ、五年や十年世話になった勤先を裏切るなんてお茶の子サイサイだ。人助けだ助けてくれても良いでせうなんて、恐ろしい言葉で強要して、自分だけ良くなれはプンとも来ない。何時もしやくにさはいてゐるのは此の俺だ。