戦爭だとすると、奮戦力閗して敵の城を奪った。大切な基点になる、功角取った城だ、もう敵になんか渡すものか、絶対守れ、守り抜け!!此の様にしてゐる中に全般的の戰況が変わって行って、何時のまにか、その城は的の四囲する中の孤立無援の城になって終ってゐる、何の為に血戰して取り、何の為に多くの犠牲者まで出して乍ら、守ったのか意義が無くなる。


 これは、戰の大局的変化に盲目だった事に依る。一つの城の利益に眼がくらんで、勝負の機微を見失ったのである。敵の勢力を押へる為に奪った城でも、大局的に手離さねばならぬ時は、一時不利の様に思えても、又敵に與へる。そして、次の情況に應じての戰ひを進めて、大きく勝を制するのが本当であり、城を取り、それを守り通す事が勝ではないのであるが、往々にしてそれを忘れて終ふものである。


 で、能くその彊きを欲すれども、その微、この”微”とは、カスカナモノ、目に見えないものと云ふ意味で目に見えない戰の大局の動きなのです。此の大局的な変化がまだ形となって現はれて来ない、これから潮が満ちて来ようとする気配、これから潮が引こうとする気配の様に、まだ働きとなって表現されないもの、然し、必然的に起ろふとするものの動き、これを、トバクで申しますと、付いて来た、付いて居るとか云ひ現はす、形にない運の浪の差し引の感じを微と云ひます。これが判らぬと、十目を捨てて十一目どころか、一度三目をひろっておいて、さて、次には二十目ごっそり頂く等の肚芸は出来なくなる。