事業をするにも、自分の靈に合った靈位の者が部下に付けば、命令せずとも働いてくれるし、失敗もない。兄、弟、妻の靈位の者が使用人になって呉れれば、仕事は安心して任せられる。


 若し、仇敵の様な、靈位のものと結んでは事業は道に頓坐失敗するし、自分より靈位の髙い者を部下にすれば、自分は社長としての椅子に在り乍ら、その部下に頭が上らない、遂には椅子も奪はれて終ふ。


 相手と取引するに当っても、先方が親める靈位であれば取引は相手任せでも順調だし、先方の靈位が自分より上なれば、先方の立場は良くとも、当方は左右されて終ふ。斯くては失敗する、失敗しても、ケンカする訳にも行かぬとさへなって終ふ。


 人事百般、斯く素朴な原理で左右されてゐるのである、隣に住み合ひ乍ら、親しめない相柄も霊位だし千里の外に遠く離れて思ひ合ふのも霊のなせる業である。立派な成功者と云はれ乍ら、くだらない生活をしてゐるせと心中までするのも霊位の現はれなら、其の日暮しの貧しい生活乍ら、王様とも平等に話し合へる霊位もある。では、その成功者とその女とはどの様な霊位であったろふか、仇敵相殺の霊位でなかったか。王様と貧乏人とは兄弟や父子の霊位であるに相違ない。


「霊」には尊重、富貧、老幼の差はないのである。

引き合って殺し合ふ霊位もある。一緒に夫婦とまでなり乍ら楽しめない霊位もある。


 どうして斯の様になったであろふか、「霊」の存在を忘れた人間の持つ宿業に依るものである。
 この説明も後に性命と云ふところで述べる、