小野神社:長野県塩尻市北小野175-1

矢彦神社:長野県上伊那郡辰野町小野3267

 

昨年は七年に一度の諏訪大社御柱祭、善光寺御開帳の年だった。僕は四月には下社の山出し、五月には里曳きを見たのだが、暮れも迫ってあの熱狂がなんだか懐かしくなり、諏訪を再訪することにした。この地は何度訪れても新たな発見のあるところで、今回は諏訪大社に加えて以前から気になっていた天竜川流域の神社に足を延ばしてみた。

 

小野神社、矢彦神社はどちらも信濃国二之宮である。二之宮が二社あるというのも変なのだが、同じ場所にそれぞれが鳥居、社殿を構え、祭神は異なるものの親兄弟、そしてともに社殿の四隅を御柱が囲んでいる。信濃国は一之宮の諏訪大社が有名に過ぎて二之宮以下に触れられることが少ないが、ここは諏訪とも大いに関係のある場所だ。まずはそれぞれの由緒を見てみたい。

 

小野神社

小野盆地の中央よりやや北寄りの通称「頼母(たのも)の森」のなかに、矢彦神社と並んでその北側に鎮座し、古くから「小野宮」「小野大明神宮」などと呼ばれ、また矢彦神社とともに「小野南北大明神」とも称して信濃国二の宮と崇められてきた。祭神は健御名方命、境内に八幡宮・胸肩社・子安社・稲荷社・剣社・水神社・天満宮などの摂社がある。社伝によると、健御名方命は信濃に入国し、諏訪へ入ろうとしたが洩矢神がいたので入れず、しばらく小野の地に留まってこの地方の統治にあたったことにより、ここに祀られたという。(中略)社伝によると、坂上田村麿の戦勝祈願がかなったので、桓武天皇の勅によって社伝の造営が行われ、四隅に御柱を建てるようになったのが当社の起源であるという。(出典*1)

 

矢彦神社は小野神社と由緒を同じくするが、二社に分かれたのは以下の理由だ。

 

松本領と飯田領の領地争いによって天正十九年(1591)小野盆地は北小野と南小野とに分割され、たまたま両社の森が北小野地籍となったため、境内も南北に分割されて南方の矢彦神社は南小野の氏神となり、社地は南小野の飛地となった。祭神は正殿に大巳貴命・事代主命、副殿に天香語山命(あめのかごやま)・熟穂屋姫命(うましはやひめ)、北殿に神倭磐余彦天皇(かんやまといわれひこ)・誉田別天皇(ほんだわけ)を祀っており、四殿とも同じ様式である。(中略)当社では古くから、諏訪大社に一年遅れた卯酉の年に正副南北四社の式年造営と四本の御柱建の特殊神事が行われていた。(出典*1)

 

小野神社

 

境内の北に設けられた駐車場に車を停め、小野神社から参拝する。森閑とした境内はうっすらと雪に覆われ、趣き深い。氏子と思しき男性二人、参拝者の老女一人、あとは僕だけだ。神楽殿には、御柱の里曳きに使われた太い曳綱がとぐろを巻いている。ふと縁側に目を遣ると紙が二枚並べて置いてある。「除夜祭、歳旦祭」諸手順書  平成30年度とあり、そこには年末年始の祭礼の次第や準備が事細かに書かれていた。こうして申し送りしていかなければ氏子であっても仔細が不明になるのだろう。

 

 

本殿は二棟あるが、これは諏訪大社の宝殿に同じく、御柱祭の際に一方からもう一方へ遷座するためらしい。社殿はいずれも寛文十二年(1672)に造営されたもので、松本藩主水野忠直の寄進によるという。

 

同社もかつては神仏習合しており、境内にはその名残の鐘楼がある。案内板の説明文を読んでいておもしろい事がわかった。鐘は永禄七年(1564)に武田勝頼が戦勝祈願のために奉納したもので、江戸時代以前のものとしては出来栄えがすぐれているらしいが、いつの頃からか村人が雨乞いのため、上の山から霧訪(きりだい)山へ引き上げて鐘を打ち鳴らし、帰りは山頂から転がし落としたので、鐘の一部が破損し、鐘銘も摩滅してしまったという。

梵鐘(出典*2)

 

このエピソード、守屋神社奥宮の祠を守屋山頂から蹴落とした話に酷似している。守屋山頂にある奥宮の石祠は周囲を鉄の柵で囲ってあり、はじめて見るとその異様さにぎょっとするが、これは祈雨信仰によるもので、守屋山の神が怒ると雨をもたらすとされたことから、過去には祠を谷底に突き落とす習俗があり、鉄柵はこれを防ぐために設置されたとの由。(詳しくは拙稿「諏訪 洩矢神のこと(その1) 」https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12746226812.html 参照)

守屋神社奥宮

 

じつは長野県は47都道府県の内、年間降水量がもっとも少ない土地柄で、全国平均の半分強、1位の高知県に比べると4分の1程度しか雨が降らない。山嶺は水をもたらす神とされた筈であり、この祈雨の習俗もそこから生まれたといってよいと思うが、それにしても乱暴な話である。

 

この梵鐘は資料館にあり、残念ながら実見は叶わなかったが、ここで思わぬ発見があった。小野神社と矢彦神社の境内地を分かつ中間地点に建つ宝蔵の真裏に神鉾(おぼこ)社という磐境があったのだ。二本の樹木に挟まれた間を玉垣で囲ってある。中に曰くありげな石が三つ。立札には「伝 古代祭祀遺跡」とある。さらにその後方には小さな池があり、奥の小島に石祠が見える。両社のちょうど中間に位置することがなにやら象徴的だ。ここが元々神を祀っていた場所だと思うと、眼前に祭祀を行っている景色が広がっていく。当地の樹叢は県の天然記念物に指定されているが、かつては鬱蒼とした森であったに違いない。その真ん中に石を四つ置き、神々を降ろしたのだろう。石が祭神を意味するとすれば、真ん中の穴のあいたものに健御名方命が相当するのだろうか。

 

 

なんにせよ、まったき神の祀りようである。社頭の案内板を読み返すとこんなことが記されていた。

 

小野神社の鐸鉾(さなぎぼこ)は、古くから祭事に使われたとの言い伝えが あるがどのように祭事に使われたかは不明である。諏訪神社にも同型の鉾があり、神領内を巡視する祭儀に使ったものと伝えられている。小野神社の鉾には、十二個の鉄鐸が結び付けられ さらに、麻幣がふさふさと結び付けてあり、七年目毎に行われ る御柱祭に一かけずつの麻幣を結ぶ習わしである。この鐸鉾がどのような祭事に使われたかは不明であるが、麻緒が多数取り 付けられており、しかもその古いものはぼろぼろに崩れるほど になっているところから、おそらく一定の祭儀に用いられたことが推定される。境内本殿に向って左方に藤池と呼ばれる御手洗池があり、そのかたわらの玉垣内に「御鉾様」といわれる石があり、神聖な場として足を踏み入れてはならない磐座となってい る。この石は方型で中央に孔があいているが、おそらくこの石に鉾を立て、祭儀のとき神霊を招き降ろした重要な磐座であり、この祭儀に神の依代として使用した神器ではないかと考えられている。

鐸鉾(出典*2)

 

さて、小野神社のお隣の矢彦神社へ。鳥居から参拝し直す。小野神社に比べると全体に威厳ある力強さを覚える。社殿造営の流派(立川流)によるものだろうか。どこか諏訪大社下社の春宮と秋宮の関係を思わせる。あえて擬えればこちらが秋宮か。

矢彦神社

 

 

 

両社の氏子は異なり、神事もそれぞれに行われているが、御柱祭だけは一緒に行っているようだ。だが、御柱を観察すると少し違いがあるようで、使われている材木は小野社が赤松、矢彦社は樅である。また削り方も小野社は樹皮をかなり残しているが、一方の矢彦社は丁寧に削ってある。こうした対比もまた一興だろう。僕には小野神社の方が古風をとどめているように思えたが、矢彦社の氏子の方々から怒られるだろうか。とはいえ、二社に分かれたのは前記の通り豊臣の治世であり、元々は一社であったことを踏まえればこうした比較にさほど意味はないのだが。

小野神社 一之御柱

矢彦神社 一之御柱

 

参拝を済ませて車に戻ると、近所のおばあさんが声を掛けてきた。車のナンバープレートを見て、あれと思ったらしい。聞くと矢彦社の脇の古い家が親戚でその家のお嬢さんが姪っ子だという。その姪御さんのいまのお住まいが杉並の上井草なので奇遇だと思い、声を掛けたとの由。我が家からほど近い住所だが知る由もない。矢彦社の脇の家の主は姪御さんになったが、たまに掃除に帰ってくるだけらしく、寂しくなったと仰っていた。姪御さんの旧姓は矢彦という。

 

(2022年12月28日)

 

出典

*1 赤羽篤「小野神社」および「矢彦神社」 黒坂周平・龍野常重「塩野神社」 谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第9巻 美濃・飛騨・信濃』

*2 公益財団法人 八十二文化財団「信州の文化財」 https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=2346&seq=0

https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=2345&seq=0