獅子窟寺:大阪府交野市私市2387
星田妙見宮(小松神社):大阪府交野市星田9丁目60
天田神社:大阪府交野市私市1丁目30−11

先日「日本の道教遺跡を歩く」という本を読んでいて、久しぶりに星田妙見宮の名を目にした。そういえば交野を訪れてから早や六年近くになる。大阪での会合が日曜の夕方にあって前乗りで行けるところはないかと探していたのだ。当地は物部氏の祖、饒速日尊のお膝元であり、一帯には磐座も多い。当時撮った写真を眺めながら関連することを調べていくと新たな興味が湧いてきた。

枚方といえば「ひらパー」で知られる郊外のベッドタウンだが、市内から車で15分も走ればそこは生駒山の山中である。最初に向かったのは磐船神社だ。社殿後方に巨岩が屹立しており、これを饒速日尊が乗ってきた天磐船に見立てたものだ。詳細は以前このブログに投稿した磐船神社に譲るが、この磐座は流星や隕石と考えられたともされており、星辰や妙見信仰との関連が気になる。当社には他にも長髄彦(神武東征以前の大和の統治者)を祀った磐座など巨石が多くあり、地下に潜る岩窟巡りも出来る。ぜひ一度訪れてみてほしい。

磐船神社拝殿

拝殿背後の天の磐船


続いて獅子窟寺に向かう。車がやっと一台が通れるほどの狭い道幅で、離合する場所がほとんどない。車が下ってくると厄介だなと思いながら急坂を進み、なんとか展望台に駐車した。時間があればハイキングがてら徒歩で参拝した方が無難かもしれない。ここから200mも歩けば獅子窟寺境内だ。文武朝(697年~707年)に役行者が開山し、聖武天皇の勅命で行基が金剛般若窟として堂塔を建立したと伝わる古刹である。後には空海が当寺で仏眼仏母の修法を行ったという。その仏像とされる本尊の木像薬師如来坐像は平安時代初期の一木造りで国宝である。
獅子窟寺本堂

 

本堂を参拝する。堂容は素朴なもので往時の隆盛の面影はないが、山寺はこういうものなのかもしれない。山内で見るべきものはなんといっても数多くの巨岩だ。本堂向かって右に天福岩、左に観音岩が聳え、脇の石段を上ると獅子の岩(女岩)の上部に出る。いかにもの行場で、空海がこの岩に籠って仏眼仏母を修したというのも頷ける。ここが女岩とされるのは仏眼仏母が密教における女性の尊格だからだろう。密教では「目を開いて仏に生まれ変わらせる」ことから仏像の開眼儀式でこの真言が唱えられる。ちなみに当寺の薬師如来坐像の成立年代は空海の存命中だ。史実としてこの修法を行った可能性は高いのではないか。

天福岩

観音岩

獅子の岩

 

当山は他にも男岩、鏡岩、みろく岩、袈裟かけ岩、八丈岩、龍岩窟、牛臥岩、虎噛石と多数の巨岩を擁している。元々は葛城修験の行場だったとの由。空海こと佐伯眞魚が大学を中退して、畿内を中心に山林抖擻を行っていたことは知られているが、葛城修験に交じって当地に足跡を残したことは想像に難くない。山中を駆け巡りながら時に岩陰で一心不乱に経を唱える姿が目に浮かぶ。ここで思い出すのは室戸岬の御厨人窟での修行中に口の中に明星が飛び込んできた話である。明星(金星)は道教の太白星君であり、密教では虚空蔵菩薩の象徴である。天磐船を嚆矢としてこのあたりには往古から星辰信仰が根づいていたのではないか・・・そんなことを考えながら星田妙見宮に向かった。



先にホームページから由緒を転載しておく。

当宮の縁起によりますと平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間(810~824年)に、弘法大師が交野へ来られた折、獅子窟寺吉祥院の獅子の窟に入り、佛眼仏母尊の秘法を唱えられると、天上より七曜の星(北斗七星)が降り、3ヶ所に分かれて地上に落ちました。現在もこの伝説は当地に残っており、星が地上に落ちた場所として、一つは星田傍示川沿いの高岡山東の星の森、もう一つが、この星田乾にある降星山光林寺境内、そしてもう一つがこの当宮の御神体であると伝わっています。後に弘法大師は当宮の地に赴き、大師自ら「三光清岩正身の妙見」と称され、「北辰妙見大悲菩薩独秀の霊岳」、「神仏の宝宅諸天善神影向来会の名山」としてお祀りされました。後世には淳和天皇、白河天皇、後醍醐天皇を始め楠木正成、加藤清正以下、農民にいたるまで崇敬を集めたと伝わっております。これらの由緒は平安時代貞観17年(875年)の『妙見山影向石縁起』並びに江戸時代に書かれた当宮の縁起書に記載されています。平安時代には「神禅寺」と称されており、河内長野の天野山金剛寺の古文書には「嘉承元年(1106)9月23日、星田神禅寺」と見えます。また『東和久田系図』延宝6年(1678)には、「采女迄三代妙見之別当ショクニシテ御供燈明捧ゲ御山守護到由候緒也」と記されており、応永9年(1402)生まれの和田出雲安直・将藍安道・采女安国の三代にわたり、当宮の別当職であったことが分かります。天文4年(1535)神明帳には、小松大明神と記されています。(出典*1)

住宅地に囲まれた森の中の参道を進む。途中で左に折れ、絵馬堂をくぐって長い石段を上っていく。各所に七星の石像が配され、台座には真言が刻まれている。この七星塚は紫微斗数の守護星に通ずる。読者には占いを生業とされている方も多いのでご存じの方も多いだろう。妙見は道教における北辰北斗の信仰が仏教の菩薩信仰と習合し、妙見菩薩として日本に伝えられたものだ。北辰(北極星)は宇宙の中心として万霊を司り、北斗(北斗七星)はこれを補佐するとされる。日本では天之御中主大神、鎮宅霊符神と習合し、日蓮宗においても護法神としての重要な位置付けにある。

 

参道は長く、境内は広い

七星の一、貪狼星の石像



 

上りきると当宮の拝殿があり、右に鎮宅霊符社、左に三宝荒神社が祀られていた。鎮宅社の脇から拝殿裏手を覗くと織女石を望むことができる。神の依代としての「磐座」というよりも、これ自体が神体を表す「石神」のように思える。祭神は造化三神(天之御中主大神、高皇産霊大神、神皇産霊大神)だが、江戸時代まで仏教では北辰妙見大菩薩、陰陽道では太上神仙鎮宅霊符神とされていた。仏教と道教の習合神であったのである。神様は神社、仏様は寺院という考え方は明治初めの神仏分離令に伴って一般化したものだ。近代日本は万世一系の天皇を頂点とする神道を国家宗教として政治に利用したわけで、これが後に一億総玉砕という狂気の行動につながっていくのである。古代東アジアは森羅万象を神とする多神教であり、多様性を許容するところがよいのだが。

織女石

 

続いて同じ社殿に祀られている鎮宅霊符社と三宝荒神社の祭神を見てみよう。

鎮宅霊符社:鎮宅霊符尊・須佐之男尊・饒速日尊
三宝荒神社:三宝荒神大神・大権霊大神(武甕槌命)・土公神

鎮宅霊符尊は最後に触れるが、鍵は太字の神である。饒速日尊は前段で述べた通り神武以前の当地の支配者であり、且つ物部氏の祖神とされている。一方の土公神は陰陽道における土を司る神であり、地霊である。土が絡んでくれば農業神の性格もあろう。当宮の後に訪れた天田神社の由緒にはこう記されていた。
天田神社

 

当社は私市、森両集の氏神社で住吉四神を祀る。古代この地方は地味肥え作物豊かな野であったので甘野といわれ、川は甘野川、田は甘田であった。この甘田に田の神を祀って建てた甘田の宮が当天田神社の起源である。交野地方は肩野物部氏の所領でその先祖饒速日命は天の磐船に乗って河内の哮が峰に天降った。先代旧事本紀に記され、長く交野祭神となっていた。その物部氏が西紀五七七年敏達天皇の皇后御食炊屋姫草(後に推古天皇)にこの地を献じて、ここが私市部となったのであるが、平安時代に入り京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。その頃住吉信仰が流行し、一方磐船の神も海に関係があると考えられ、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神社の祭神は饒速日命から海神であり和歌の神でもある住吉神に替わって  今日に至っている。境内から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土し、また近くに物部氏のものと推定される巨大な古墳群が発見されるなど、当地の歴史の古さを偲ばせるものがある。

七夕伝説にことよせて天で牽牛が耕す田を天田としたものだが、星田妙見宮のリーフレットには七夕伝説と八丁三所の聖地を結ぶレイラインが掲載されていた。これをどう見るかは読者に委ねるが、この天田神社の由緒は饒速日尊(磐船神社)と土公神(天田神社)との関係を伝えている。なんとなく当宮の成り立ちが見えてきたので整理してみよう。

 

まず、物部氏の動きだ。物部氏は神武東征以前に九州の御井郡(現在の久留米市あたり)を出発し、瀬戸内海を航海して難波に上陸、河内の日下(ひのもと 現在の東大阪市日下町)に居を定めた。元々日神信仰を持っていた物部氏が、生駒山の東から昇る太陽を見てのことだ。(参考*2)    後裔はその後大和朝廷に服属し、葛城を根拠地としていたが、饒速日命の六世孫にあたる伊香色雄命(いかがしこおのみこと)は、崇神朝に葛城から現在の交野に移り、以降肩野物部氏として一帯を統治するようになる。

一方、日本書紀の神武東征譚において、皇軍一行は瀬戸内海を航行し、難波から川を上って河内国草香村に入り、生駒山を越えて大和に攻め込んだと伝えている。この時、神武天皇を迎え、戦ったのが饒速日尊に帰順していた長髄彦である。神武は敗走し、熊野から大和に入り直して再び長髄彦と対峙するのだが、饒速日尊は降伏に応じない長髄彦を「性格のねじけた奴」と切り捨てて、自軍を率いて神武天皇に帰順した。その後裔の氏族が、後に交野を根拠地としているのである。したがって、饒速日命が磐船に乗って哮が峰(磐船神社の社地)に天降ったという日本書紀の記述は、肩野物部氏にとって神武に認められた「天孫」ということに意味があり、その根拠を船の形をした巨岩に求め、これを祀ったのではないか。

さて、当宮の境内には隕石が落ちたと伝わる場所がある。「登龍の滝」と称し、そこには不動明王が祀られている。火のないところに煙は立たずというが、実際に隕石は落ちたのだろうか。国立科学博物館の隕石リストによれば、明治以降に日本全国各地に35個の隕石が落下している。この頻度から考えれば十分あり得る事だろう。よってここが聖地となった直接の契機は隕石の落下であり、これを星辰や妙見信仰と関連させたものと考えてよいと思う。平安時代には道教の陰陽五行説を受けた陰陽道が隆盛した。陰陽道は天文、暦数、卜筮などで吉凶を占う方術で、星辰との関係も深く、星祭なども盛んに行われたらしい。だが、この信仰を奥深いところで支えたのは「祖神である饒速日尊は天降りした『天孫』である」という肩野物部氏の矜持ではなかっただろうか。

登龍の滝

 

参拝を終え、社務所の前を通りかかると「太上神仙鎮宅霊符」なるものが販売されていた。デザインがあまりに素晴らしく、しばらく見惚れていたのだが、結局、額と一緒に衝動買いしてしまった。インテリアにするつもりだったが、帰宅して祀り方を確認するとこれがけっこう面倒臭い。ご利益を当てにする性分ではないのでそのままにしてある。鎮宅霊符神は七十二の霊符を司り、家宅の安全を守る神で、四神の玄武を人格神に擬えた玄天上帝と同体とされる。玄武は北方を守護することから二十八星宿の北にあたり、北極星を中心とする星辰信仰とつながっている。星田妙見宮では主祭神の右側に祀られ、祭壇には蛇の巻きついた亀、玄武の木彫が据えられていた。

太上神仙鎮宅霊符

鎮宅霊符社の祭壇


今日は大相撲夏場所の中日。土俵の吊り屋根に下がる四色の房は四神を表している。日本の文化には宇宙観や死生観など、いたるところにいまだ道教の痕跡が残っているのだ。掘り起こしてみるのもまた一興だろう。


(2019年6月22日)

出典
*1 星田妙見宮ホームページ

参考
*1 福永光司・千田稔・高橋徹「日本の道教遺跡を歩く」朝日新聞社 2003年
*2 谷川健一「白鳥伝説(上)」小学館ライブラリー 1997年(物部氏の足跡がわかる)
*3 宇治谷盂「全現代語訳 日本書紀(上)」講談社学術文庫 1994年
*4 窪徳忠「道教の神々」講談社学術文庫 2001年 
*5 国立科学博物館「日本の隕石リスト