磐船神社:大阪府交野市私市9-19-1



「先代旧事本紀 巻第三 天神本紀」

饒速日尊禀天神御祖詔、乘天磐船而、天降坐於河内國河上哮峯。則遷坐大倭國鳥見白庭山。所謂乘天磐船而、翔行於大虚空、巡睨是郷而、天降坐矣。即謂虚空見日本國是歟。

(饒速日尊、天神御祖の詔をうけて、天磐船(あまのいわふね)に乗り、河内国河上哮峯(たけるがみね)に天降り坐す。さらに、大倭国鳥見白庭山に遷り坐す。いわゆる、天磐船に乗り、大虚空を翔行きて、この郷を巡りみて、天降り坐す。すなはち、「虚空見日本国」(そらみつやまとのくに)というは、是なり)


磐船神社は、天磐船に見立てられた巨石を御神体とする神社で、饒速日尊を祀る。延喜式内に列する神社ではないが、物部氏の祖神とされ、おそらく神武東征以前から祀られていた古社と思われる。また、中世には生駒修験の北端の行場として栄え、現在でも岩窟巡りで有名な聖地である。


京都に向かう新幹線の中で磐船神社の下調べをしていたら、岩窟巡りは一人では受け付けず、事前に予約が必要との由。数年前に参拝者の死亡事故があったからだろう。電話してみると、昨日夕立があったので岩が濡れており、受付は午後からになるという。枚方でレンタカーを借りるのが11時過ぎ。そこから磐船神社まで半時間。ちょうどよいではないか。名前と携帯の番号を告げて電話を切る。ひと安心だ。こと旅に関する限り、天候にはいつも恵まれる。数日前に見た当地の天気予報は雨だったのだ。呼ばれているのかもしれないと思いながら現地に向かった。


磐船神社はかねてから訪れたかった場所で、敬愛する宗教人類学者、植島啓司さんの講義でも写真や映像を見せてもらったばかりだった。たまたま大阪に出張があり、これ幸いと便乗したのだ。京阪宮之阪駅近くでレンタカーを借り、天の川沿いに車を走らせる。10km程の道のりだ。近づくにつれて緑は深くなり、道を左に折れて磐船街道を少し登るともうそこは目的地だ。参道らしき参道はなく、鳥居をくぐると左手直ぐに拝殿が見える。拝殿の背後には御神体の巨石が聳えている。かなり大きい。拝殿を押し潰してしまうかのような存在感だ。


拝殿の左手には朱の鳥居と格子の扉があり、鍵がかかっている。岩窟巡りはここから入るようだ。扉に「岩窟の掟」なるラミネートされた紙が結わえつけられている。なかなかに物々しい文面で、赤字だらけである。

岩窟の掟

一、無断拝観絶対禁止

一、一人だけでの拝観禁止(応相談)

一、荷物・携帯電話・財布持参の拝観禁止

一、妊娠中の方拝観禁止

一、酒酔いの方(怪しい方も)拝観禁止

一、七十六歳以上又は九才以下の方拝観禁止

一、説明を聞かない方、嘘をつく方拝観禁止


参拝を済ませて社務所に行ってみる。年配のご夫婦の先客があり、説明を受けている。「最近も救急車で運ばれた人が二人いる」とこれまた物騒な話をしている。拝観料500円を納めて所持品を預け、行衣という白い襷のようなものを首から下げれば準備は完了。これは修行なのだ。僕は先客のご夫婦と一緒に入ることになった。先に行ってくださいとの由。本日最初の入窟である。

岩窟巡り_入口

社務所の女性が鍵を開けてくれた。ステンレスの手摺がついた階段を降りていく。すぐに暗闇の中に放り込まれる。昨日の雨で岩は湿っており、中はひんやりしていた。暗いせいもあるのだが、とにかく足場を決めるのが厄介で、間違うと滑って転落してしまう。たしかにかなり危険な場所だ。しかも、岩の隙間をくぐり抜ける場所が随所にあり、なかなかのアドベンチャーなのだ。携帯持参で入ったとしても、写真など撮る余裕はないし、仮に撮ってみたとしても光に乏しい上に岩のアップしか写らず、後で見てもなんだかわからない代物になるだろう。
岩には白いペンキで矢印が描いてある。これを目印に進むのだが、時々矢印があらぬ方向を向いていたりして戸惑う。人によってはかなりのストレッチが必要だろうか。無理をするとふくらはぎあたりが攣ってしまうかもしれない。難所をなんとかやり過ごし、岩窟を出たのはおおよそ10分後。修行にしては意外なほど短いが、体験する価値は十分にある。登山で鎖場を経験したことがあればまず大丈夫だろう。
岩窟巡り_出口

岩窟から出てしばらく進むと、左手上方に天の岩戸に擬えられた巨石を見上げることになる。これもなかなか見応えのある磐座だ。岩戸大神、白龍大神、登美毘古大神などさまざまな神々が祀られている。登美毘古大神は長髄彦のことで、神武東征に抗って調伏されたこのあたりの豪族の長だ。日本書紀には、言うことを聞かない性格の歪んだ者とされ、当社の祭神である天孫、饒速日命に愛想をつかされ殺されたとある。

磐座の脇にはオキ大神の石碑も独立して立っている。なにやら怪しげだがどこかで聞いたことがあると思い、記憶を手繰り寄せてみたのだが、伏見稲荷大社のお山の塚にこの神名があったことを思い出した。日本の聖地は、あらためて八百万などと言うまでもなく、いろいろなカミが習合してしまうのだ。南の島々を除けばどこに行っても狐がいるわけで、摂末社というのは結局そういうことなのではないかと思う。

天岩戸宮の先にも巨石は続く。貝原益軒は「南遊紀行」にこう記している。「岩船とは大岩方十軒も有べし。船の形に似たり。谷に横たはり、其の外家の如く、橋の如く、或は横たはり、或は側立てる石多し。(中略)六月晦日には爰に参詣の人多しといふ。岩船の下を天の川流れ通る。奇境なり。凡大石は、何れの地にも多けれど、かくの如く大石の多く一所に集まれる所をいまだ見ず」。元禄二年(1689年)の京都からの紀行文だが、その風景は330年を経てもまったく変わっていない。


ふと見ると、巨石の間に巳ぃさん(蛇)のオブジェがいたりするのも一興。出口にあたる鳥居の先には、よくわからないのだがひつじのオブジェまであったりする。とにかくこの場所の持つ聖性は際立っていて、先のオキ大神に同じくさまざまな民間信仰を吸い寄せるのだろう。強烈なるスピリチュアルの磁場なのだ。


社務所に戻って行衣を返す。「聞きしに勝るとはこのことですね」と言うと、案内の女性は微笑んで「岩窟修行終了 磐船神社御守護」と書かれた神符をくれた。


磐船神社については、大和岩雄氏が「日本の神々」に寄せた論考が秀逸だ。いろいろなことを教えてくれる。関心のある向きは是非参照されたい。それにしても物部氏が奉じた饒速日命とはいったい何者なのか。少なくとも瓊瓊杵尊、つまり皇統とは別系統の天孫であり、神武東征以前に摂津、大和に先住していたことは間違いないように思う。


(2019年6月22日)


参考


磐船神社略記

「日本の神々-神社と聖地-第3巻 摂津・河内・和泉・淡路」谷川健一編 白水社 2000年