大室古墳群:長野県長野市松代町大室
八丁鎧塚古墳:長野県須坂市八町

積石塚古墳を取り上げる。きっかけは過日訪れた阿波の天石門別八倉比賣神社だ。この神社は前方後円墳の上に設けられていて、前方部に社殿、後円部に奥宮がある。後円部の奥宮は扁平な阿波片岩で造られた五角形の基壇の上に自然石が積まれ、さらにその上に石祠が載っている。磐境と云われているが他の神社に類例を見ない奇異なもので、一見して対馬の厳原町豆酘にある八丁郭を思わせた。通称「オソロシドコロ」と呼ばれる八丁郭は表と裏の二か所あり、表は天道法師、裏はその母親の墓所であるという。八丁郭や天道信仰についてはNHKアーカイブに「対馬の天道さま」という映像があるのでこれをご覧いただきたい。

帰京して積石を伴う聖地を調べてみると「積石塚古墳」なるものがあることに行き当たった。四国では香川県の石清尾山古墳群、徳島県では眉山周辺および天石門別八倉比賣神社を含む気延山山塊に存する。他には北九州の相島、山口県萩市沖合の見島ジーコンボ古墳群、対馬、瀬戸内沿岸部、東海、北信など全国に分布している。但し、15万基におよぶ古墳の中にあって「積石塚」とされる古墳は1%に過ぎず、そのありようも地域によってかなり異なるようだ。注目されるのは北信地域だ。まず訪れたのは積石塚古墳が蝟集する長野市松代の大室古墳群である。

大室古墳群は長野盆地南東の山岳地帯、長野市松代町大室を中心とした同町東寺尾、柴、若穂川田、にわたって位置する。約2.5㎞平方の範囲に、三つの山丘尾根とそれに挟まれた二つの谷部に分かれて古墳が分布し(古墳分布総数500余を数える大規模な古墳群である)、その分布状態から「北山」「大室谷」「霞城」「北谷」「金井山」の大小五つの支群に大別されている。 この大室古墳群は5世紀から8世紀の約250年にわたり、環境を意識して構築されてきた集団墓である。その大部分は、積石塚であり、中には合掌形石室をもつものもある。(注*1) 全体の7〜8割が積み石塚古墳と考えられ、わが国では稀な存在である積石塚がこれだけ多く密集する古墳群は他に存在しない。(長野市文化財データベース) 

この内、大室谷支群の240基は国指定史跡とされている。日本最大の積石塚古墳群ということはもちろんなのだが、積石塚は高句麗の墓制、合掌形石室は百済の墓制との関係が取り沙汰されていることにいたく関心を覚える。加えて文化庁は「馬具・馬骨等の馬に関係する出土遺物が多いことは、本古墳群の被葬者が古代の馬匹生産に深く関わっていたことを示唆し、『延喜式』にある信濃一六牧のひとつ『大室牧』の存在とも符合するとともに、古代の官牧の発生に関しても貴重な資料を提供した」とする。因みに、冒頭の八丁郭の被葬者とされる天道法師の出自伝承は高句麗の日光感精神話に類似することが指摘されており、対馬においても積石塚の成り立ちに渡来民の存在が見え隠れしていることを付言しておきたい。



大室古墳群は川中島合戦場跡から真東に3kmの尾根に挟まれた谷あいに位置する。上信越道の下をくぐり、山に向かって進むと芝地の丘陵が広がり、古墳が見えてくる。駐車場に車を停め、大室古墳館で概要を掴んだ後、おすすめコースを歩く。最初に遭遇したのは235号墳、半壊した円墳である。側面に回り込むと横穴式石室が見られる。ここからは遠く戸隠や北アルプスの山並みを望むことができる。続いて森の中に入り、33、32、31号墳を見学する。多くは近代から現代にかけて発掘され、展示を目的に復元されたものだが、積石塚というだけのことはあって、これまでに僕が見てきた盛土による円墳とは様相が異なる。これら積み石はこの古墳群のある谷の両脇の安山岩とされ、古墳の造替に必要な岩石は至近から容易に入手できたようだ。


235号墳(画像上下とも)



画像上:33号墳/下:31号墳


続いてケヤキの森の中の周遊路を歩きながら複数の古墳を見て回る。古墳間の距離は離れているところもあれば、数基が固まっているところもある。大きさも直径7〜8mのものから20m近いものまでさまざまだ。これらの差異は被葬者の属性によるものなのか、築造年代によるものなのか。大室古墳群は五つの支群を擁する広域の古墳群だが、500基以上もの数があるならばなんらかの規則性があるものと考えたいのだが、そう簡単ではないようなのだ。実は当方、積石塚古墳への興味が募って「積石塚大全」なる専門書を大枚をはたいて贖ったのだが、この中の「大室古墳群の実態」という小論を参照すると、狭い範囲には類似墳墓の集中(といっても数基)が見られるが、規則性のようなものは殆ど窺えなかった。といってランダムに配置したとは考えにくく、被葬者とその一族が属した社会階層、築造時期、周辺地域との関係などさまざまな要素が複合してこうした形になったのだろう。

画像上:245号墳/下:B号墳


いったん芝地に出て少し下る。標高の一番低い場所に244号墳がある。その大きさは大室古墳群最大であり、直径20m、高さ8mの円墳だが、唯一周溝を備え、全径は30mにおよぶ。古墳時代後期後半、概ね西暦600年前後に築造されたものとされ、副葬品として金銅製鈴、土師器が出土している。この時期は飛鳥時代、推古朝(593〜628)にあたり、聖徳太子が摂政としてさまざまな政治改革を行っている。同時期の科野国はすでに大和王権の影響下にあり、屯倉の設置とともに馬の生産において重視されていたようだ。大室古墳群では馬具・馬骨等の馬に関係する出土遺物が多く『延喜式』にある信濃一六牧のひとつ「大室牧」ともの存在とも符合するとのことである。信州の馬の生産は、古墳時代中期に大和王権が高句麗に倣って騎馬戦をものするため、高句麗の馬と渡来人技術者集団を招聘したことに始まる。馬の育成に適した信州は有力な拠点の一つであった。北信に現存する「高井郡」という地名は、平安時代の氏族名鑑『新撰姓氏録』に登場する高句麗系渡来人「高井造」に由来すると考えられており、この地域に高句麗系集団が定住していたことが窺える。馬と信州は切っても切れない深い縁で繋がっているのだ。ただし、現時点では積石塚古墳が高句麗からの渡来民の墓制によるものと断定することはできない。合掌型石室は百済の墳墓に由来するともされており、百済、任那、新羅などからの渡来民の混在も想定される。もうひとつは「環境自生説」の存在だ。容易に岩石が入手できるのであればこれを利用した方が盛土よりも堅牢で且つ技術的にも簡単という説である。



画像上:244号墳/下:同、横穴式石室内部


古墳館前の駐車場に戻ってきた。この間、約1時間。お盆明けのこの日は日差しもたいへん強く、大室谷の奥に向かって続くムジナゴーロまで登ることは諦めた。さて、もう一か所紹介しておきたい積石塚古墳がある。同じく北信の須坂市にある八丁鎧塚古墳だ。奇妙山の北麓を流れる鮎川の河岸段丘上を行くと、畑地の中に突如として石積みが現れる。絵心をくすぐる美しい風景である。考古学上の定義はさて措き、それは僕がイメージする「ザ・積石塚」そのものなのだった。

八丁鎧塚古墳群には6基の古墳が確認されている。1号墳と2号墳は近接しており、その間に6号墳がある。3号、4号、5号はここから300m東に行った畑の中にあるが、1、2号墳には規模も残存状態も及ばない。周囲には二か所の駐車場があり、県指定史跡として見学用によく整備されている。まずは、須坂市のホームページにリンクのある二本の動画からご覧いただこう。

GoPro Karma 八丁鎧塚古墳 


私が選ぶ須坂百景”21 八丁鎧塚古墳

続いてホームページの解説を要約しておこう。

両古墳は河原石を積み上げて造られた「積石塚古墳」で、直径25.5m、高さ3.5mの規模を誇り、東日本最大・最古級とされている。発掘調査では、盗掘による損傷が大きかったものの、1号墳からは南海産の貝を素材とする希少な貝製腕輪(釧)、2号墳からは中国華南産の素材を用いた極めて珍しい獅嚙文帯金具が出土した。また、後の調査で埴輪や6号墳も発見されている。これら出土遺物の研究から、築造時期は1号墳が5世紀前半、2号墳が5世紀後半、6号墳が6世紀中頃から後半と判明している。副葬品には九州や西日本陸とのつながりを示す特徴が見られ、被葬者は西日本の有力豪族と同等の地位を持ち、大陸とも交流があった可能性が指摘されている。


画像上:1号墳/下2点:2号墳




別の資料によれば、墳頂には家形埴輪が置かれ、円筒埴輪も樹立していたらしい。相応の権力を有する首長のものだったのだろう。ここでは大室古墳群に顕著であった馬具などの出土遺物は見られておらず、馬匹生産を職掌とする集団等は別系統の集団であったと思われる。積石塚古墳の遺物・儀礼の考察を行った高田寛太氏は、八丁鎧塚2号墳出土の獣面帯文金具を、先行研究に基づき「百済圏からの移入品」と指摘した上で「八丁鎧塚古墳群には、より小規模な3~6号墳が造営されている。おそらく、その造営集団の中には、朝鮮半島とのパイプを有し積石塚の構築にかかわっていたような渡来人も含まれていたと考えられ、それらを統括した首長層の存在を八丁鎧塚2号墳にみいだすことには、それほど無理がなかろう。その被葬者が獣面文帯金具を着装していたとすれば、その出自が朝鮮半島にあった可能性もまた考慮しておく必要はある。」としている。(参考*2) あくまで外見に過ぎないが、2002年に発掘された初期百済の積石塚古墳の画像を見ると、八丁鎧塚古墳に驚くほどよく似ているのである。

漣川鶴谷里積石塚(大韓民国 西暦2〜3世紀築造)


朝鮮半島からの人や文化の受容は弥生時代にはじまる。当初は北部九州との間で継続的な交流があり、稲作技術や金属器などの文化がもたらされた。次の画期は古墳時代であり、5〜6世紀には陶器・製鉄・金工・馬の飼育・灌漑などの技術を持った多くの人々が移住したとされる。以降も中国大陸を含めて波状的に移住が進み、多くの人と文化を受容してきたことは言うまでもない。またその間、弥生・古墳時代を通じてさまざまな混血が進んできたことも最近の古代DNA研究で明らかにされている(三重構造モデル)。歴史を学び、問うことは未来をつくることでもある。古墳一つからでもそのことは可能ではないだろうか。

(2026年8月23日、24日)

注
*1 古墳あれこれ(積石塚古墳・合掌型石室)長野市ホームページ

出典
*1   漣川鶴谷里積石塚 京畿文化財団

参考
*1 桐原健「積石塚と渡来人」東京大学出版会 1989年
*2 土生田純之編「積石塚大全」雄山閣 2017年
*3 史跡大室古墳群パンフレット 長野市教育委員会
*4 大室古墳群文化遺産オンライン 文化庁
*5 八丁鎧塚(積石塚古墳)須坂市ホームページ