益田岩船:奈良県橿原市白橿町8丁目20−1

牽牛子塚古墳:奈良県高市郡明日香村越131

 

飛鳥には不思議な石造物が数多くある。亀石、マラ石、猿石、石人像、二面石、酒船石、亀形石造物、須弥山石、鬼の俎・鬼の雪隠などがよく知られており、いずれも人為によるものだ。中にはなんのために造られたのかがよくわからないものもあり、古くから人々の好奇心をくすぐってきた。その中でも大きさにおいて群を抜く存在が益田岩船だ。江戸時代の「大和名所図会」(秋里籬島著 寛政三年(1791)刊)を見ても、この岩を取り巻いて大きさを測ったり、上に登ったりしている人々は蟻のように見えるほどである。幾何学的な形をした巨岩で上面には大きな穴が掘られ、側面には奇妙な文様が浮き彫りされているので、オカルト好きは「古代の宇宙船」とか宣うが、もちろんそんな筈はない。一見に如かずである。

 

「岩船」大和名所図会(出典:国立公文書館デジタルアーカイブ)

 

橿原神宮前駅からだと車で5分。周辺は典型的な郊外の住宅地だ。所在地の前には団地群が広がっている。こんなところにとも思うが、飛鳥の地はそこここに古代の遺物が散在し、民家の軒先に古墳があることなどざらである。早速、山道を登っていく。といっても岩船のある貝吹山は標高にして50mに満たず、丘陵といってよい。五分も歩けば目当ての場所にたどり着く。道の先に見えてきた岩船はほぼ想像していた通りの巨大な石造物だった。

 

 

 

岩船の周囲をぐるぐると回りながらためつすがめつする。見る角度によってかなり趣が変わり、全容を捉えるのがなかなか難しい。岩船の裏手を少し上り、竹林の間から眺めてみると上部に方形に穿たれた穴が二つ見えた。このアングルから見るとたしかに宇宙船と言いたくなるのもわかる形状なのだ。過去に見た写真には上に登っている人もいるようなので挑戦してみるが、助走をつけて登ろうとしてもなかなか岩にとりつけない。なにせ5m近い高さがあるのだ。脇に目を遣ると「お願い、危険です。登らないで下さい」との看板があった。

 

 

 

 

 

 

 

さしあたっての問題はこの石造物がなにかということなのだが、手元にある「石の考古学」という本には主な説として①祭壇説、②石碑説、③埋葬施設説等があるという。以下に要旨を記しておく。

 

①祭壇:ゾロアスター教の水の神であるアナヒーターを祀る祭壇/②石碑:平安時代、岩船の下方を流れている高取川を堰止めて益田池を造った際の碑文を立てた台石/③埋葬施設:現在の石造物は製作途中のものであり、完成時には上面の穴が南に向くように九十度回転させる。

 

著者の奥田尚氏は考古学者の立場から上記いずれにも与しないとし、皇極天皇の墓説をとっている。「二上山の南に岩屋峠がある。この峠の南側の石窟の中に石塔が建っている岩屋遺跡がある。一石の凝灰岩を加工して制作したもので、方形の台石の上には穴があり、水が溜まっている。舎利孔であろう。益田岩船の上に岩屋遺跡の塔のような石造物を二基並べて、方形の穴の上に立てるように上面に溝状の加工が施されていると考えられる」とした上で、皇極天皇の先代、舒明天皇陵には寺院建築の金堂か塔の様式が古墳に持ち込まれていることを踏まえ、「次の皇極天皇の陵となれば、塔そのものとなり、心礎の舎利孔に入れられる仏舎利の代わりに、死者を入れるようになる。そのために1.2mもあるような穴を開ける必要があったのだろう。斉明天皇(皇極天皇)は間人皇女とともに葬られている。斉明天皇陵を牡丹洞の凝灰角礫岩に二つの石質をくり抜いて造った石槨をもつ牽牛子塚古墳と、私は推定している」とする。

 

岩屋遺跡(出典*1)

 

「岩屋」河内名所図会(出典:国立公文書館デジタルアーカイブ)

 

先に挙げた三つの説以外にも、④占星術用の観測台説:二つの穴に石柱を建て、その上に横柱を渡して天体観測を行った/⑤火葬墳墓説:穴の中に遺骨を入れて石の蓋をした/⑥物見台説などがあり、現在は③の埋葬施設=横口式石槨説が有力とされている。僕もそう思っていたのだが、著者は(播磨の「石の宝殿」(参考*1)に酷似した巨大石造物を)九十度回転させ、下になる部分にまで加工が施されており、また閉塞施設とは関係のない東西の部分まで加工されていることから、この説には納得がいかないとしている。たしかに皇極天皇陵説がもっとも説得力がある様に思われる。著者はこう続ける。「斉明天皇の御陵があるのに、なぜ、益田岩船が皇極天皇(斉明天皇)の陵だといえるのだろうか。皇極四年(645)六月に蘇我入鹿が中大兄皇子らに板蓋宮で殺されたときをもって、皇極天皇は軽皇子(孝徳天皇)に譲位されている。翌年の大化二年には墓にたいする規制の薄葬令(注*1)が出されている。皇極天皇のときに皇極陵とする益田岩船を造営しかけたが、皇極四年六月に譲位したので造営を中止した。その後に出された薄葬令もあり、再度、陵として造営されることもなく、岩船は放置されていると考えている」。(以上「 」内の出典は*2)つまり、益田岩船は皇極天皇の重祚によって造りかけの墓がそのままにされた遺物なのである。

 

 

近くには皇極から斉明に重祚した後に造られた陵とされる牽牛子塚古墳がある。岩船から山の中を800mほど歩けば行けるが、往復には時間がかかるので車でアプローチする。近くに駐車できないので、手前の三叉路にある臨時駐車場に車を停め、丘陵を上っていくとやがて墳丘の上の白亜のドームのような建造物が見えてくる。二年前に復元された牽牛子塚古墳だ。春の陽光を浴びたその姿は遠目に輝いているようにも見える。造られた年代は遺物等から7世紀後葉と推定されており、この時代の皇族の陵墓に特徴的な八角墳だが、和製ピラミッド、或いは飛来した宇宙船に見立てられなくもない。たとえば、子にあたる天武天皇の陵墓(野口王墓古墳、持統天皇との合葬。画像下)も八角墳だが、今見るとただの大きな森でしかない。こうした復元は往時を偲ばせるものとしてとてもありがたい。

 

 

 

 

さて、益田岩船と牽牛子塚古墳の共通点は刳り抜かれた二つの穴にある。牽牛子塚古墳の石槨を覗いてみたかったが、生憎事前予約が必要とのこと。外から様子を窺うと二室に分かれているのはそれとなくわかる。穴の大きさを比較してみたい。

 

 

益田岩船

一辺1.6メートル、深さ1.3メートルの方形の穴が1.4メートルの間隔を開けて二つくり抜かれている。

 

牽牛子塚古墳

左右両石室とも長さ約2m強、幅約1m強、高さ1.3mの長方形。床面に長さ約2m、幅約0.78メートル、高さ0.08メートルの棺台が削り出しによってつくられている。間には間仕切りのための壁がある。

 

 

古代の石棺の長さは概ね2m強とのことだ。だとすれば益田岩船の穴は被葬者が女性で身長が低い可能性があるにせよ、一辺が1.6mではかなり窮屈であり、石棺は入らない。そもそも方形ということ自体、石棺を入れる穴ではないと思う。ここで考えられるのが薄葬令だ。発布は大化二年(646)、譲位された孝徳天皇によるが、実質は皇極天皇の御代(在位642-645)に準備されていたのだろう。よって築造されかけていた益田岩船は、薄葬令を垂範したものであったのかもしれない。日本で初めて火葬を行った天皇は持統帝とされるが、もしかすると皇極帝もその用意があったかもしれない。あるいは屈葬にでもする積りだったのか。

 

 

皇極天皇は神功皇后のモデルとされるという。意図せざる政争や内紛、外交問題に巻き込まれた悩める母は、政治的に画期をつくった可能性もある。ジェンダーについて意見する積りなどさらさらないが、政治も経済も女性がリーダーシップを取った方がよいのではないかと思う今日この頃である。

 

(2024年4月1日)

 

注)

*1 薄葬令(出典:山川 日本史小辞典 改訂新版)

646年(大化2)大化の改新に際して定められたとされる新しい喪葬の制度。従来の古墳築造に比して著しく簡素化されたところから薄葬令とよばれる。王以上,上臣,下臣,大仁・小仁,大礼以下小智以上,庶民にわけて,それぞれ墓の大きさ,役夫の人数,築造日数,葬礼に用いる帷帳(ゆいちょう)の種類を定める。また殯(もがり)を禁止したほか,殉死や馬の殉葬、宝物の副葬、髪を切り股を刺して誄(しのびごと)するなどの「旧俗」もことごとく禁じられた。その実効性と対象範囲については諸説ある。

 

出典)

*1:「岩屋」太子タウンー大阪府太子町情報発信サイト 

ttps://taishi.town/sekkutsujiin_iwaya2022/

*2:奥田尚「石の考古学」吉川弘文館 2023年

 

参考)

*1:拙稿「石の宝殿」

https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12521170692.html