川原毛地獄:秋田県湯沢市高松番沢
三途川十王堂:秋田県湯沢市高松三途川
日本三大地獄というものがある。恐山、立山はよく知られているが、もうひとつが秋田県湯沢市の山中にある川原毛地獄だ。ここを知ったのは2023年の4月から2024年の2月にかけて岩手、京都、東京を巡回した東北の仏像展「みちのくいとしい仏たち」だった。地方の民間仏像の展覧会はこれまでにないものだ。東京会場に足を運んだが、慶派の仏師たちとは違って技巧などは微塵も感じられないものの、逆にその分祈りや思いの強さが伝わってくる優れた企画だった。たしか円空仏も一点あったかと思うが、その意味や価値においてはまったく同質であり、あらためて文化財や美術工芸品というものについて考えさせられた。結局のところそれは見る人の絶対的な価値でしかないのである。
さて、川原毛地獄だ。湯沢というところはアクセスはよろしくない。新幹線で最寄りの駅は一関だが車で二時間近くかかる。僕は出張ついでに石巻から車を使ったが、栗駒山を越えねばならず、やはり三時間近くかかった。手前で小安峡に寄る。谷底の皆瀬川まで60mほど下るとすさまじい勢いで温泉が噴出していた。菅江真澄は「雷鳴の轟くが如し」と評したらしいが、さすがに地獄の手前だけあってけっこう驚かされる。ここもジオパークならではの名所だが、その筆頭に挙がるのはなんといっても川原毛地獄だ。気が逸る。
投宿する予定の泥湯温泉を通って山間を上っていく。すでにあちこちに立ち入り禁止区域がある。1623年に採掘を開始した硫黄鉱山の跡(1966年に閉山)であり、硫化水素ガスが噴気をあげているのだ。このガスは空気よりも重く、滞留しやすい特徴がある。近づくとほぼ即死だという。福島の高湯温泉で源泉管理のために山に入った方々が亡くなったことは記憶に新しい。当地でも亡くなった人夫を弔うために1987年に地蔵菩薩像が建立され、これ以来毎年慰霊祭を行っているという。
見晴らしのよい駐車場に車を停めて道を下っていく。眼下には荒涼とした風景が広がっている。草木の姿は一切見当たらない。カルデラの中央部分にあたるため、山のここだけが一面淡い灰白色に覆われ、まさに異界の趣である。入口の案内板を写す。
川原毛地獄は、古くから羽州の通融嶮と呼ばれ、南部の恐山・越中の立山と共に日本三大霊地の一つであり、王朝時代から多くの修験者や参詣人が訪れ、女人禁制の山であった。大同ニ(西暦807)年、月窓和尚が霊通山前湯寺を建立、天長六(829)年慈覚大師が訪れ、法羅陀地蔵と自作の面を奉献している。明徳四(1393)年、前澤寺は栴檀上人により三途川に移された。ここには血の池地獄や針山地獄など百三十六の地獄があり、極楽もある。この先では熱湯が噴出して湯の川となり、川原毛大湯滝や川原毛地獄温泉跡もある。硫黄の採掘は、元和久(1623)年から昭和四一年までに三百四十四年間に及んでいる。
通融嶮とは当地の古称だ。血盆経と称する経典に「爾時、目連尊者、昔日往到羽州追陽県。見一血盆池地獄」(爾の時、目連尊者、昔日羽州追陽県に往き到れり。一血盆池地獄を見ぬ。)との一節があり、羽州を出羽国になぞらえ、追陽県を通融嶮と誤記したものと思われる。この経典は10世紀以降に成立した中国の偽経典で、女性は血穢によって血の池地獄に堕ちると説き、そこからの救済を提示しているという。川原毛地獄は長く女人禁制の地であったが、赤不浄の対極にある白の聖地がゆえにこうした見立てを行ったものだろう。
ロープで囲われた道を進む。硫黄で地表が黄色く染まり、白煙が立ち昇っている。恐山と異なり、お堂や祠、奉納されたものなど一切ない。寄せつけもしないのである。二、三人の観光客に行きあったが人はほとんどおらず、灼熱の夏のさなかに寂寞とした景色の中を歩くといった白昼夢のような経験をしたのだった。日本のジオパークはそのほとんどがかつて修験者の行場であったところで、アニミズムを体感するにこれほどの場所はない。一個の人間は塵芥にも及ばない存在だということを思い知らされるのである。
山塊をぐるりと回った裏側には20mの高さから落ちる温泉の大湯滝がある。滝壺が天然の露天風呂になっているのだが、あいにく交通規制があって車では近くまで行けず、徒歩で片道40分もかかるとのこと。炎天下ということもあってこちらは遠慮して稲庭町でうどんを食べることにした。協同組合には18もの生産者の名が見えるが、僕は昔から馴染みのある寛文五年堂の本店で二種三味うどんをいただいた。乾麺と生麺の二種を鰹出汁、胡麻だれ、 味噌だれの三味で食す。地獄から極楽である。
昼食を済ませた後、廣澤寺に向かう。この寺は前記の川原毛の前澤寺を三途川の地に遷したもので、その後二度移転して正保四年(1647)に現在地に落ち着いたという。山門は小ぢんまりしているが風情があり、堂舎は落ち着いた佇まいだった。さらにこの寺の裏山にある熊野神社を参拝してから、三途川十王堂を目指す。現在の川の名は高松川だが、通称は三途川、地名も同じくしている。川原毛地獄との関係もさることながら、ここに三つの川が交わることも由来の一つにあるらしい。深い渓谷で秋には紅葉が美しいという。
三途川橋の袂まで来た。左に延命地蔵、右に閻魔大王の石像が据えられている。十王堂は橋の手前の道を少し入ったところにあった。手前に杉の双樹が聳え、奥に十王堂が立つ。観光協会が立てた案内板に由緒があったので一部繰り返しになるが記しておく。これを読むと川原毛地獄、前澤寺、廣澤寺、十王堂がつながると思う。
今から千百九十年程前に、川原毛地獄山に建立された霊通山前湯寺は、明徳四年(西暦1393)、栴檀上人によって此の地に移された。栴檀上人は自分の願いが叶ったとして、自ら”火定”によって大往生を遂げた。その場所は近くにあり”栴檀塚”又は”千駄森”と呼んでいる。長禄元年(1457)、稲庭城主小野寺道広は、この寺を住僧養国祖璨(ようこくそさん)和尚と共に稲庭に遷し、(寺号を嶺通山広沢寺と改め)小野寺氏の菩提寺とした。小野寺氏は前澤寺を移転するにあたり、この地に十王堂を建立した。昭和四十三年、十王堂内に祀られてある木彫仏像十王像は、湯沢市の文化財に指定されている。湯沢市 湯沢市観光協会
十王堂の戸を開けて中に入り、明かりを点ける。格子の向こうに木彫の仏像が立ち並ぶ。真ん中は閻魔大王だ。十王のみならず近隣の仏堂から持ち込まれたものもあり、三十三体あるとのこと。閻魔を除いてどれが十王なのかもはっきりせず、雑然とした感がある。模様が施された赤い布を被った像もいくつかあり、このあたりは地蔵を祀る習俗と通底するものだろう。いずれにせよ、東京駅の美術館で見た印象とはまったく異なる。この”ごちゃごちゃ”感こそが僕が求めていたものだったのだ。
なんといっても仏像の表情が面白い。険しいものはあまりなく、笑みを浮かべたものが多い。よくよく観察すると当地に住まう老若男女の普段の表情を写したのではないかとも思える。実に人間臭いそのありように僕は地獄ではなく身近にあるささやかな幸せへの祈りや願いを見たのだった。極楽も地獄も人間の頭の中で拵えた世界観だ。ただ、それを踏まえて極楽に行けますように、あるいは地獄に落ちませんように、と願うことは社会の規範につながり、名もなき民衆にとってなんらかの希望につながったのではないか。
さて、泥湯温泉に戻り、奥山旅館の湯に浸かる。果たしてそこは極楽だった。
(2025年8月2日)
参考
「みちのくいとしい仏たち」図録
血盆経 Wikipedeia