気比神宮:福井県敦賀市曙町11-68
椿大神社:三重県鈴鹿市山本町字御旅1871
ここでとりあげる二社は全国的にもよく名の知られた古社である。由緒や祭神などは読者にお調べいただきたいが、この二社は祭神を祀る社殿の外に「土公」と称する神域を持っており、管見ではこうした聖地は民間信仰以外で他に見当たらない。まずは「日本の神々 神社と聖地」から両社の「土公」について記された箇所を抜き書きし、併せて訪れた印象を記しておく。
【気比神宮】
気比神宮の境内地は11253坪に及び、そのなかに遺址として「土公」がある。境内末社大神下前神社の付近にある墳型の盛地で、周囲に卵型の石を八角形にめぐらしており、社殿や家屋を建てるときその土砂をまけば悪神の祟りがないと伝えられる。この土公については諸説あり、『敦賀郡神社誌』は、曰く保食神降臨の地と云ひ、伝教大師・弘法大師がこヽに祭壇を築き祈らざるかとも云はれてゐる。社家の伝承では此の墳丘には尊貴の品が埋蔵してあるとの口碑もある。当神宮は仏教関係も極めて濃厚であり其の墳丘様式より見て、或いは経塚ではあるまいか。と記すが、依然謎に包まれている。(出典*1)
土公
境内図では右上が土公の場所だ。駐車場の端に鳥居が立ち、そこから参拝できるようになっている。鳥居と土公の間の土地が古殿地とされており、背後に天筒山が望めることから古くはこの山を神体山として仰いでいたのかも知れない。土公は2021年に149年の歴史を閉じた敦賀北小学校(現在は児童クラブ)の校庭にある。訪れたのは閉校前で午後の校庭を駆け回る子どもたちの声で賑やかだった。学び舎の中に聖地があることは珍しい。後日、テレビ番組(参考*1)で紹介されていたが、キャッチボールで土公に入ったボールを取るなど、特に畏れている様子もなく、こうした共存は微笑ましく映った。鳥居の脇には大理石の碑が立っている。
氣比神宮古殿地の事
氣比神宮境内東北部に位置し当神宮鎮座にかかる聖地として古来より「触るべからず 畏み尊ぶべし」と社家文書にいい対絶えられているが 嘗て天筒山の嶺に霊跡を垂れ更に神籬磐境の形態を留める現「土公」は氣比之大神降臨の地であり 傳教大師・弘法大師がここに祭壇を設け七日七夜の大業を修した所とも伝えられる。土公は陰陽道の土公神の異称で 春は竈に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ 其の期間は其所の普請等を忌む習慣があったが此の土砂を其の地に撒けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた 戦後境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の已む無きに至ったが土公と参道はかろうじてそのままの形で残された (後略)
中央奥に天筒山を望む

【椿大神社】
社殿によると、垂仁天皇27年8月、倭姫命の神託によって御船磐座(現在参道入り口より進む途中左手の「土公神陵」の前にある。社殿に瓊瓊杵尊が船でここに到着されたという。また「土公神陵」は猿田彦大神の古墳と伝えられている)の付近に、伊勢の開拓神として猿田彦神を奉斎するために社殿を創建したという。(出典*2)
御船磐座
高山土公神陵。見るからに円墳である。

獅子堂脇の二の鳥居をくぐり、参道を行くとすぐ左手に御船磐座、その奥に高山土公神陵がある。参拝客はみな社殿に向かってしまい、関心を払う人は多くない。だが、ここは明らかに元宮といってよい場所である。背後の入道ヶ嶽山頂の奥宮ではない。往古に神体山として仰いだであろうことは想像に難くないが、里の者が山に入る事には禁忌があり、修験者たちが登拝をはじめたのは当社創祀の後と思われるからだ。あくまで仮説だが、土公神陵は奥宮が成立する以前から当地を治めていた有力豪族の長を祀った場所であろう。当社の創祀は、伝承上は紀元前3年(垂仁天皇期)だが、文献上は奈良時代である。伊勢神宮成立との関連からは、おそらく持統朝において伊勢への橋渡しをした重要な人物であり、彼こそが猿田彦という見方ができるのではないか。”道開き”というのは伊勢に持統の分身ともいえる天照大神を招きいれたことなのである。ちなみに猿田彦の末裔とされる行満大明神は修験道の開祖として役行者を導いたとされ、本殿に相殿する。現宮司も行満大明神の末裔であるという。
入道ヶ嶽。山頂に奥宮を戴く。

土公神は、一般には陰陽道に由来する土の方位を司る。年・月・節気ごとに「土公が宿る方位」が決まり、その期間・方角では土を掘ったり、工事を行うことが禁忌(土公殺)とされた。この禁忌は土地の霊を畏れる日本古来の信仰と結びつき、各地で地を犯してはならない場所を示す指標となった。これを鎮めて無事を祈るのが今も行われている地鎮祭だ。陰陽道と関連があるかは定かではないが、延喜式には臨時祭の一つとして「鎮土公祭」が推奨されている。ただ、祝詞全文や儀礼手順 は含まれておらず「臨時祭のひとつとして鎮土公祭を行うべし」という規定と、そのときに捧げられるべき「祭料目録(供物/布帛/道具など)」が記されているにとどまり、どんな神格であったのかはわからない。
臨時祭
凡常祀之外應祭者,隨事祭之。非辨官處分,不得輙預常祭。
鎮土公祭
絹一丈,五色薄絁各四尺,倭文四尺,木綿一斤,麻一斤,鍬二口,布一端,庸布二段。米五升,酒五升。鰒、堅魚各 三斤,海藻三斤。醋二斤。鹽二升。瓮一口,坏四口。匏一柄。槲十把,食薦一枚。(出典*3)
一方、神社では「土公」が古殿地・旧鎮座地・神が最初に降りた地を指す場合もあり、塚状の地形や禁足地として残されることが多い。このため民俗学では、土公が祖霊祭祀・墓的性格を帯びる例も指摘されている。気比神宮や椿大神社の土公についても同様の解釈をするべきだろう。土公と称されるようになったのはいわば後づけであって、陰陽道が隆盛を極めた平安時代に祭儀の一つとして持ち込まれたのではないだろうか。おそらく土公は「神」ではなく「地霊」である。違いを比較してみよう。

地霊はまた「ゲニウス・ロキ」とも称される。その定義は以下の通りだ。
事物に付随する守護の霊という意味の「ゲニウス(Genius)」と場所・土地という意味の「ロキ(Locī)」の二つのラテン語をもととし、場所の特質を主題化するために用いられた概念。物理的な形状に由来するものだけでない、文化的・歴史的・社会的な土地の可能性を示す。(出典*4)
僕はこの言葉が好きで時にハンドルネームにしたりもするのだが、建築や設計において使われることが多いようだ。聖地は空間のみ、物語のみでは生成し得ない。ある場所が持つ独特の雰囲気や歴史、文化が蓄積された結果なのである。神社の鳥居や社殿や御神体は構成する要素ではあるが、本質はそこにはない。では、歴史、文化はともかくとして、”独特の雰囲気”とは一体なんだろうか。本稿でとりあげた二社でいえば、それは古殿地の森や神体山への人々の畏れであり、悠久の時を重ねて堆積した祈りであろう。これらは人によるのだが、「場」に赴けば第六感的に感じ取ることも可能だ。(たとえば、沖縄の御嶽では特に女性がその気配を敏感に感じ、気分が悪くなったり気を失うことが度々ある)そうした意味から「地霊」は「神」の前段階であり、それらは和魂、荒魂のどちらにも転じると考えた方がよいのかもしれない。気比神宮も椿大神社も祭神の元々の姿は土俗的な地霊であり、これを手厚く祀ることによって「神」になったと言えまいか。さらには神社と古墳の関係からこの「地霊」の坐す場所は「墓」とも考えられるのだが、それはまたの機会にしよう。
前掲の表で整理した「神」は物語としてはあってよいが、これが国家祭祀にまで昇華され、さらに政治と結びついてしまうと話は別である。僕は、伊勢神宮、特に内宮を支配している独特の空気には一種の窮屈さを感じる。地霊、産土神の方が親しみやすく、肌に馴染むのである。もっとも神とはそういう存在ではないのかもしれないが。
(気比神宮:2019年11月17日、椿大神社:2022年3月27日)
出典
*1 西村英之「気比神宮」
所収:日本の神々 神社と聖地 第八巻 北陸 白水社 1985年
*2 中野泰志「椿大神社」
所収:日本の神々 神社と聖地 第六巻 伊勢・志摩・伊賀・紀伊 白水社 1986年
*3 延喜式 卷第三 神祇三 臨時祭
*4 伊藤幹 ゲニウス・ロキ アートスケープ since 1995
参考
*1 NHK BS 新日本風土記「入らずの森 畏れの杜」 NHKオンデマンドで視聴可能。
※当ブログでとりあげてきた様々な森の聖地を扱っており、僕が取材した方も登場する。是非ご覧いただきたい。





