石宝殿・生石神社:兵庫県高砂市阿弥陀町生石21


車窓から見る景色は壮観だ。削り取られた山肌が剥き出しになっている。これを眺めるだけでもこの地に赴く価値がある。一帯は古代から現代に至る一大採石場で、竜山石採石遺跡と呼ばれ、今も採石が続けられている。高砂市のホームページによれば、竜山石は、兵庫県の加古川下流右岸に産する流紋岩質溶結凝灰岩の石材上の呼称で、白亜紀後期(約1億年前)の火山活動によって噴出した火砕流堆積物が厚く堆積したものだという。古くは仁徳天皇陵はじめ畿内の大王や豪族の石棺に、鎌倉から室町時代にかけては五輪塔・宝篋印塔・層塔・石仏などに使われ、畿内に広がる。江戸時代には姫路城や明石城の城壁、近代以降も国会議事堂や造幣局鋳造所など国の施設、住友銀行本店や旧京都ホテルなどの建築資材に使われたらしい。

岩山の麓の鳥居から、長く急な石段を踏みしめるように登っていく。見上げると城門のような入口が目に入る。神楽殿だろうか、石塁が木造の建築物を戴いている。門をくぐると正面に社務所を兼ねた拝殿があり、そのまま中を通って御神体の石宝殿を拝するようになっている。「日本三奇 石の寶殿」の看板。拝観料百円を投じて中に進む。




〆縄を巡らした巨大な石のモニュメントが壁のように眼前に立ちはだかる。まるで、妖怪ぬりかべが石になって固まったかのようだ。偉容であり、威容であり、異様でもある。訪れる前にも映像で見たことはあったが、実見すると岩穴の中に窮屈に収まっているためか、威圧感がすごい。巨石の下には水が張ってあり、周りに細い道が通じている。ぐるっと回ってみる。さまざまな角度から仰ぎみる。拝所のある真裏の側面には屋根のような、頂部を表す突起が張り出している。家に模した石造物を横倒しにしたものだということが、それとなくわかる。岩山の中腹を掘り下げながら家形状に形を整えていったもので、底部は岩盤と繋がっているらしいが、僅かだが宙に浮かんでいるように見える。いきなりこんなものを見せられたら、普通の人は混乱するだろう。現代に生きる僕たちの常識からは明らかに外れているのだ。モロッコとかエジプトとか、北アフリカのどこかの国の辺境で、巨大な宗教的モニュメントに出くわして、茫然している自分を想う。






拝殿の脇から岩山を登ると、上からも石宝殿を眺めることが出来る。天面には砂礫の上に樹や草が茂っていて、やはり全容が掴みづらいが、大きな穴の中に聳える巨石は、上から見ても異様で、こうして文章で伝えることに限界を感じる。だからだろうか、描かれたものは多いようで、司馬江漢やシーボルトによるスケッチがよく知られている。こちらの方が全体像がよくわかるだろう。



シーボルトのスケッチ


さて、この巨石は「播磨国風土記」の印南郡大国の里の条に、以下のように記されている。「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈、広さ一丈五尺、高さもかくの如し。名号を大石といふ。伝えていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」。播磨国風土記は元明天皇が風土記編纂の勅命を下した和同六年(713年)、八世紀前半に編まれたとされ、石宝殿に関するもっとも古い記録となるが、ここに神社として祀られたという記述は見当たらない。また、平安時代前期に編まれた延喜式神名帳にも生石神社の名前はなく、鎌倉時代も近くなった頃にやっと史料にその名前が見えはじめる。おそらく、この巨石の来歴は風土記の頃まで知られていたが、人々の記憶が風化するにつれて得体のしれない巨石になり、そこに畏れるべきもの(つまり神)を見るようになったのではないか。人は、正体のわからないものを畏れ、何事にも意味を求めようとするのだ。


では、誰が、いつ、何のためにこれを造らせたのだろうか。また、これを引き起こし、運び出して設置しようとしたものと思われるが、横倒しにされたまま残されているのはなぜだろうか。風土記の記述では、弓削大連、物部守屋が、聖徳太子の御世にこれを造らせたことになっている。本稿の参考とした「日本史の謎・石の宝殿」の著者で考古学者の間壁忠彦・葭子の両氏は、これを様々な角度から考証し、蘇我氏の権威の誇示のために造らせたものの、大化の改新で中座されたのではないかという仮説を提示している。石宝殿の築造年代は古墳時代とされているが、悠久の時を経たとはいえ、造らせた者、それが物部であろうが、蘇我であろうが、この巨石に込めたであろう意味が、いまだ見る者に迫ってくるのである。なにせ一個の石としての巨大さは他に類を見ない。ピラミッドに積まれた石は一個2.5t、モアイ像は一体20t、ストーンヘンジは一個50t、そして石宝殿は500tと桁違いであり、その石の大きさは意志に比例しているのではなかろうか。

アメリカの衛星放送の歴史エンターテイメントチャンネルに、ヒストリーチャンネルというものがあって、その番組メニューに「古代の宇宙人」というものがある。日本ではスカパーやJ:COMなどで見ることが出来るが、この番組の29話目で石宝殿が取り上げられた。番組冒頭、GIORGIO A. TSOUKALOS(PUBLISHR, LEGENDARY TIMES MAGAZINE)なる人物と、日本の現「ムー」編集長、三上丈晴氏、通訳の女性三人で石宝殿を訪れてこんな会話を交わす。

「わぁーっ、巨大ですねぇ」「この石だけで、およそ500tの重さがあります」「すごい」「この下を見てください」「信じられない。水の上に浮かんでる」「この石はかつて日本に最初に降り立った神の一人と関係があると言われています。その神は巨大な石で出来た乗り物で日本中を移動していたということです」「つまり、石で造られた巨大な乗り物に乗って日本の上空を飛び回っていた神がいたと。こういうわけですね」「まさしくそう」「確かに」。この後、ナレーションが入る。「彼らは何者なのか。その目的とは。何を残したのか。そしてどこへ旅立ち、再び地球へと戻るのだろうか」テロップはANCIENT ALIENS、そしてA SPACESHIP MADE OF STONEだ。さらにこの後、益田岩船やうつろ舟などが取り上げられるのだが、僕は石のUFOだってあっていいと思う。歴史には、比定はあれど真実そのものなどないに等しい。あるのは解釈だけなのである。

拝殿脇の磐座


ところで、ここは今は神社だ。まったく触れてこなかったが、一応神社としての祭神、そして由緒にも触れておこう。「神代の昔大穴牟遅、少毘古那の二神が天津神の命を受け国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時 二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多神々を集め(当時の神詰 現在の高砂市神爪)この賊神を鎮圧して平常に還ったのではあるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである。時に二神のたまはく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を鎮めんと言明せられたのである。以来此の宮殿を石乃寶殿、鎮の石室と言はれて居る所以である」生石神社略記


時代はかなり下るが播磨鑑(江戸中期・宝暦年間)には、以下の縁起がある。「(前略)石宝殿の由来を尋るに、神代の昔大己貴命天の岩船に乗り此山に止り、高御位大明神と号し、一神は少彦名命生石の大明神と号す(後略)」。この後は、神社略記同様なのだが、磐船に乗って当地にやってきたくだりが付け加えられている。これがUFO説のもとなのだろう。

いま一度、この巨石の正体を考えてみよう。巨石の周囲に大己貴命、少彦名命の小祠が配してあるが、誰がどう見ても付け足しにしか見えない。まして、これは彼らが乗ってきた天の磐船などではない。神社の御神体は正に巨石そのものなのだ。前掲の書の著者らが指摘する通り、おそらくは付近に放置された竜山石の石棺を磐船に見立て、万葉集や記紀神話を拠り所に、後世に付会したものだろう。では、この巨石は何なのか。僕の見立ては、ストーンサークル、ピラミッドがそうであるように、死者の永遠を願うモニュメント、即ち墓石だろうと思う。大規模な古墳もそうだが、為政者とその周辺は死後にまで自らを誇示しようと思うのだろう。誰にとっても死は喪失であり、生前には恐怖でしかない。生は不平等だが、死は平等なのだ。


(2019年7月27日、8月24日)

参考

「日本史の謎・石宝殿」間壁忠彦・葭子著 六興出版 昭和53年