高原神社:山梨県甲斐市下福沢
菖蒲澤八幡神社:山梨県甲斐市菖蒲澤1767
明野町上手の祠群:山梨県北杜市明野町上手
御崎神社:山梨県北杜市明野町上手8742

「お腰掛け」の最終稿では旧敷島町、明野町の四ヶ所を巡る。最後に僕なりの考察を加えてみた。少し長くなるがご容赦願いたい。

高原神社
“たかはら”と訓むらしい。前々稿の「甲斐のミシャグジ(その2)」でとりあげた下福沢の道祖神と同じ場所にある。高台の境内の一角、樹木の下に堂々とした石造のお腰掛けが設けられていた。入口と思しき注連柱から見て正面に位置するのでこれが社殿の代わりであり、祀りの場所なのだろう。あるいはこれが御神体なのか。周囲を回りながらためつすがめつしてみる。上部に石の桟が渡され、新しい細い竹の幣帛が三本立っているが祭神が三柱とも思えない。境内の道祖神や石祠(中に石棒がある)との関係はあるのだろうか。また、どちらが先に祀られたものなのか。当社は甲斐国志に「清澤明神 上福澤村  ◯山宮明神 下福澤村 祠ナシ」とあり、元より社殿はなかったらしいがその他のことはまったくわからない。






菖蒲澤八幡神社
東側に一大メガソーラー地帯がある。これを回り込むようにして林道に入っていくとすぐ左手にある。境内入口には数メートル離れて注連柱が並んでいた。右側が木造、左側が石造だ。まず右側から入ってみよう。郷社八幡宮の社号標が立つ。社殿はない。巨樹の下に苔生した石祠。中には石棒があり、脇にも石棒が二つ立ててある。八幡神社というが、祭神は誉田別命とは思えない。どう見てもミシャグジを祀っているのだ。典型といってもよい。





左手に離れて木造のお腰掛けがあった。造替して数年しか経っていないと思われる、かなりしっかりとした造りだ。お腰掛けの中の立石に”山神宮”と彫ってあり、その前に線香を手向けた跡。脇にワンカップの酒とミネラルウォーターの2Lボトルが供えられていた。お腰掛けの後ろには石積みがあるが、これがなにかはわからない。





山梨県神社庁は当社を「創立年月不詳なるも、日蓮宗寺院の守護神として当八幡神社に住寺が祭事に加はる慣習あり、よって往古は氏神なく寺の守護神として残存せるを、明治維新神仏分離の際、部落民の産土神として祭祀せられ、爾来里民の信仰厚く今日に至る」と紹介する。甲斐国志に名が見えないのは神社として認識されていなかったからだろう。地図で確認すると氏神とした寺院は昌栄山法泉寺のようだ。おそらく諏訪から信玄棒道あたりを下ってきたミシャグジ信仰が風化し、いつの間にか寺の守護神になっていたということのようだが、別にお腰掛けがあってそこには山の神が祀られているのである。どう解釈すればよいのだろう。

明野町上手の祠群
韮崎市から北杜市に入り、諏訪に近づいていく。お腰掛け探訪の最後は明野町である。目的地手前で車を停め、上手の祠群を探したが見つからない。集落の家から出てきたお婆さんが訝しげにこちらを見ている。祠が並んでいる場所はないかと尋ねてみたが要領を得ない。道祖神と言い直すと「この辺は道祖神だらけだ」との由。ゴミ箱のところにあるというので行ってみると、たしかに立派な丸石道祖神があったがお腰掛けはない。



道を戻りながら先に目を遣ると三叉路に火の見櫓が立ち、その下に石祠が並んでいた。小躍りして駆け寄る。真ん中にあったのが小さな石造のお腰掛けである。中には石棒が横たえてある。二日後の正月に備えてのものか小さな丸餅が二つ供えてあった。左隣の石祠の一基には石棒が認められ、右には剥き出しの楕円の石がごろんと横たわっている。道祖神かミシャグジかなどという詮索はどちらでもよくなる。その素朴な祀りのありようはなんとも美しく、そして愛らしい。心が和む。




車に戻り、お婆さんに見つかった旨を伝えると、部落によって祀る道祖神は異なり、お腰掛けのあった石祠群を祀っているのは「山ノ神部落」だと教えてくれた。どうやらお腰掛けは「山ノ神」を祀っていることが多いようだが、これについては後述する。

御崎神社
栃沢川沿いに下っていった先の森の中に坐す。社頭にはきれいに区画された田畑が広がっている。近くにもう一社御嵜神社があるので訪れる方はご注意を。鳥居が二基並んで立っており、右は高さ1m程度の小さなものだ。正面が祀りの場だとすると二柱の神を祀っていることになる。左の鳥居の先には赤い屋根と扉を備えた社殿が建つ。こちらが御崎神社で、武田の家臣が五穀豊穣を祈念して稲荷神を勧請したと伝わる。



参拝も早々にお腰掛けを探すと、社殿右手奥にそれはあった。ここも石造だ。中に紛れもない石棒、それも男根様のものが一つ屹立している。脇に小さな石祠が一基。とくに祀られている様子もなく、忘れ去られたかのように落ち葉に埋もれている。いや実際忘れ去られているのだろう。赤と白のコントラストが鮮やかな社殿と比べるとどこか侘しさが漂う。





だが、このお腰掛けにはなんだか逞しさのようなものを感じる。石造ということもあるが、なによりも中の石棒の存在がすべてを表しているのだ。稲荷神を祀る前からここを祈りの場としていたのはミシャグジだったのかもしれない。境内には他にも石祠が三基、その隣には地蔵尊。脇に二体の眷属が従っている。この地区の神仏への信仰の篤さを思わせた。



さて、これまでに十基のお腰掛けを訪ねてきた。最後に僕なりの考察を述べてみる。まずはそれぞれのお腰掛けのプロファイルを比較した。お腰掛けの所在地をプロットした地図と、それらの特徴を整理した表をご覧いただきたい。




地図の上では同じ圏内にあるといえるが、どこかに固まっているというわけではない。もっとも所在が知られている場所はわずか十ヶ所であり、この構造物が神々を祀る様式の一つであるならもっと数があってもおかしくない。韮崎市民族資料館の学芸員氏が言うようにお腰掛けの成立が江戸時代半ば以降だとすれば、おそらく明治初めの神仏分離令以降に、石棒があるがゆえに淫祠と看做され、潮が引くように姿を消していったように思える。

次に特徴の比較だ。半数程度の共通項はあるものの、確たるものではない。手掛かりとなるのは、石棒もしくは石を御神体もしくは憑代としていること=諏訪信仰の原点「ミシャグジ」との関連である。ここで思い当たったのが、拙稿「甲斐のミシャグジ(その2)」で紹介した宇津谷の諏訪神社の御神体である。社頭の案内板にはこう記してあった。

御神体として祀られている石棒は、高さ四二センチメートル、直径二〇センチメートル円筒形で上部が丸くなっており、倭文(しずり)神社大同二年(八〇七)と刻まれています。この石棒は縄文時代中期に作られたものとを土中から掘り起こし、祀ったのではないかと考えられ、大同二年に銘文が刻まれたという根拠はありませんが、古くから御神体として祀られていたのではないかと思われます。

この石棒に酷似したものが前稿とりあげた本宮倭文神社の御神体である。そこには大同二年の銘はないものの、倭文神社の下に建葉槌命と織女姫命の神名が並んで刻まれている。 

続いて甲斐国志にあたってみよう。

諏訪明神 宇津谷村 御朱印社領壱石九斗餘 社地五千四百六十坪 社記ニ曰ク 地主神ヲ保阪明神ト云 日本武尊北山逸見武川ノ地ニ住ム毒龍惡鬼ヲ誅戮シ給ヒ 殘黨マタ興ラサル為ニ倭文神 建葉槌命ヲ祀リ 良民保居セル處ヲ初ツ在家ト云(後略)

現在の祭神は諏訪大社上社に同じく建御名方命だが、地主神である保阪明神に加えて倭文神を祀っていたのである。穂坂町宮久保にある延喜式内社、倭文神社の摂社の位置付けだったのだろう。倭文神社はかつて降宮明神と称されていたのだが、甲斐国志を参照すると意外なことがわかってきた。

降宮明神
宮久保村ニ鎮座ス 柳平 三ツ澤 三村の産神ナリ 黒印神領十二石五斗五升 五石ハ宮ノ久保 五石ハ三澤 二石五斗五升ハ柳平ニ在リ 社地千六百八十坪 山宮ノ地柳平村境ニ在リ 方一町許第一華表ノ蹟本村ニ在リ 其地ヲ鳥居原ト呼フ 社地ノ前ハ穂坂渠南ヘ流レ後ハ御嶽道北ヘ通ス 社記ニ云フ 天ノ羽槌雄ノ神 棚機神ヲ祀ル所ニシテ本邦衣服ノ祖神ナリ 州俗織女ト称シテ七夕ニ群聚ス 又産婦ノ守護神ト称ス 古棟札ニ穂坂總社倭文神社降宮大明神トアリ正月奉射ノ神㕝 七月七日神子神樂九月廿九日コレヲ大祭禮トス 祠後ノ松樹大サ五圍ナルヘシ 中間ヨリ數幹に分ル御腰掛ケ木ト称ス 又五鬣松三圍餘ナルアリ 此外老樹多シ 武田家奉納ノ太刀等ヲ蔵ム 又神明御﨑原山ノ祠アリ 神主横森仲口九男三女六

太字で記したが「祠の後ろに幹回り6mの松の大樹があり、いくつかに枝分かれしている。御腰掛けの木と称する」のである。枝分かれした幹の間に腰掛けるのは神であろう。つまり、樹木を伝って神が降ろされているのだ。甲斐国志では降宮にフリと当て字されているが、神名からすると「織(オリ)宮」である。と同時に「降(オリ)宮」である。そして、神が降りてくる樹の下の祠の中にはおそらく石棒、つまり現本宮倭文神社の御神体が収められていたと思われる。だとすれば、この倭文神社では太古にミシャグジを祀っていた可能性がある。さらに「柳平村境に山宮がある」と記している。現在その地には本宮倭文神社があって、前述の通り石棒を御神体とし、本殿脇に石造のお腰掛けがある。甲斐国志ではこの山宮を神明宮としている。

神明宮 柳平村 八幡宮ヲ配祀ス 除地両宮領二段二畝十歩 社地五百坪 宇津谷村神主兼帯ス ◯貴布禰明神 同村 社地方一町無税地ナリ 宮久保村神主兼帯ス

宇津谷村の諏訪大神社、宮久保村の倭文神社、それぞれの神主が神明宮および貴布禰明神の神主を兼務していると読めるので、両地域は信仰圏を同じくしていることが察せられる。因みに、本宮倭文神社は「宮久保の倭文神社の山宮であった七夕社と上村組にあった神明社、窪村組の貴船神社それに武田時代烽火台といはれてゐる城山の天神社が貴船神社地に合併して本宮倭文神社と社名を改め昭和三十四年神社本庁より許可された」(山梨県神社庁)といい、倭文神社山宮の七夕社を中心に、天棚機姫命、天羽槌雄命、神明社、天照大神、豊受大神、貴船社、伊弉冊命、天神社、菅原道真公を合祀している。

仮説を要約する。

穂坂町とその周辺一帯は古代諏訪信仰圏にあり、ミシャグジ祭政体に属していた。祭事の際に降ろされたミシャグジは石棒に依り憑き、その神威を発揮する。この石棒を囲う結界=祠を「お腰掛け」と称した。

ただ、お腰掛けがどうしてこのような形になったかはわからない。江戸時代の中頃までしか遡れないとすれば、宮大工の誰かが民俗神を祀る場の祠を造替するにあたって簡易なデザインを試みたところ、意外にも氏子の村人の評判がよかったので普及したという程度のことではなかったか。ここでいう民俗神は原初はミシャグジに連なると思われるが、近世にはすでに山の神にその姿を変えていたとも考えられる。そして地図をみる限り、その「山の神」は茅ヶ岳山頂に坐す神ではないかと思える。茅ヶ岳は「日本百名山」で知られる深田久弥が登山中に脳卒中に倒れ、没した山である。

(2024年11月3日、12月30日)

(出典)
甲斐国史34 国立公文書館デジタルアーカイブ
山梨県神社庁ホームページ

(参考)
拙稿「甲斐のミシャグジ(その2)」
拙稿「お腰掛け」甲斐 山神社
拙稿「続・お腰掛け」