高原神社:山梨県甲斐市下福沢
諏訪神社:山梨県甲斐市漆戸
道祖神:山梨県甲斐市漆戸
諏訪大神社:山梨県甲斐市宇津谷1016
道祖神:韮崎市穂坂町三ツ澤(2ヵ所)
倭文神社:山梨県韮崎市穂坂町宮久保6051
本宮倭文神社:山梨県韮崎市穂坂町3195
道祖神:山梨県韮崎市穂坂町上今井
諏訪神社:山梨県韮崎市穂坂町三之蔵4992
引き続き甲斐のミシャグジ探訪である。前稿で記した通り、ミシャグジは樹下に坐し、石棒または石皿を御神体とする。本稿でとりあげたところも殆どがこの条件に適合していたが、やはり御社宮司あるいは社宮司との社名は一つもなかった。
高原神社
景勝地の昇仙峡から山を越えたところにある。境内の一角の樹木の下に丸石道祖神と小さな祠が二基あって、中を覗くと片方には石棒が収められていた。
ここは道祖神祭りで知られており、案内板には以下の様に記されている。
小正月行事として、1月14日、15日にかけて行う行事で、道祖神の祭礼としての「どんど焼き」と「七福神のねりこみ」、「氏子めぐり」(悪魔払い)が行われます。特に「七福神のねりこみ」は有名で、七福神の諸役割をきめられており、行列の役割は次のとおりです。 道祖大神(青年長)、恵比寿、大黒天、福禄寿、寿老人、弁財天、毘沙門天、布袋の各1名、本神輿2名、練御輿4名、神楽獅子1名、笛1名、太鼓1名、お供1名、田楽2名となります。七福神のねりこみは厄払いと御祝儀祝の2通りがあり、厄払いは男子42歳の厄払い、御祝儀祝は新婚の家庭や新築の家などで行われる行事となっています。なお、対象者がない場合には、ねりこみは行いません。 現在は、小正月に近い土曜日、日曜日に行われます。
御祝儀祝は七福神に仮装していて面白い。無形民俗文化財とのことだがこうした祭事は末長く続けてほしいものだ。
諏訪神社・道祖神(漆戸)
高原神社から下った山間の集落にある。諏訪神社は山を少し登った森の中の覆屋だった。右の柱に秋葉三尺坊、左の柱に正一位道祖大神宮のお札が貼ってある。ミシャグジなのかどうかは判断がつかないが、佇まいはいかにも諏訪のそれらしい。ほど近くの道沿いにある道祖神には丸石が祀ってあり、中に石棒が紛れていた。推測だが元々は諏訪神社の御神体として石棒が祀ってあり、これを道祖神と看做してこちらに移したのではないか。ミシャグジと丸石の関係は他の場所でも伺える。
諏訪大神社(宇津谷)
中央本線沿いの小山の麓に鎮座する。鳥居の左側に丸石道祖神。
御神体として祀られている石棒は、高さ四二センチメートル、直径二〇センチメートル円筒形で上部が丸くなっており、倭文(しずり)神社大同二年(八〇七)と刻まれています。この石棒は縄文時代中期に作られたものとを土中から掘り起こし、祀ったのではないかと考えられ、大同二年に銘文が刻まれたという根拠はありませんが、古くから御神体として祀られていたのではないかと思われます。
甲斐市の有形文化財にも指定されているが残念ながら実見は叶わない。ところで境内を見渡すとポツンと立つ樹の下に小さな石祠と石狐がある。石祠は木の板で塞がれていて中を窺うことは出来ないが、ミシャグジを思わせる。社殿の右奥の竹林の前には石祠の集積があるので、この場所にあえて稲荷神を祀るのはいかにも唐突なのである。社殿に掲げられた由緒板には、正しくは穂坂惣社拾五社大明神宇津之谷諏訪大明神と称し、四世紀初頭に日本武尊が創建したとあるが、それ以前に祀られていたのはミシャグジだったのではないか。御神体、社名ともに日本武尊とは縁もゆかりもないのである。御神体の石棒に倭文神社と刻まれていることに鍵がありそうなので、韮崎市穂坂の倭文神社に赴くことにする。

道祖神(穂坂町三ツ澤)
たまたま通りかかった路傍の道祖神。丸石ではなく石棒と思しきものが屹立している。すぐ近くの道祖神でも石祠の中に石棒が横たわっているのが確認できた。石棒を擁する道祖神は他にもあることを確信する。いずれも樹木はなかったが嘗てはミシャグジだったのだろうか。
倭文神社
まず由緒だ。案内板を写す。
祭神 天羽槌雄命(あめはづちおのみこと)・天棚機姫命(あまのたなばたひめのみこと)
由緒 甲斐国所在の延喜式内社二〇社の一。甲斐国志には倭文神社降宮明神とある。穂坂総社といい、郷中で最も格式高い神社であった。倭文はしずおりで、麻などの繊維を赤・青などに染めて横糸として織った古代織物である。穂坂御牧が栄えたころ、御牧の役人の妻や娘などが中心となって織った精巧な織物でこれらの女性たちが技芸の上達を祈るために天羽槌雄命・天棚機姫命を祀ったのが、この神社の起りである。降宮はおりみやで、織宮を意味する。江戸時代に幕府は一二石五斗の社領を寄進した。
この由緒に諏訪の信仰やミシャグジとの関わりは認められない。だが、倭文は主にカジノキの樹皮からつくられたこと、諏訪大社の神紋がカジの葉であること、当地で紡織が盛んであったことには何らかのつながりを求めたくなる。ちなみに山梨出身の文化人類学者、中沢新一氏の家は代々養蚕と藍染を生業としており、家紋はカジあったという。(参考*1)
神門、神像、社殿と廻廊で繋がる神楽殿など、ところどころに青い顔料が施されており、趣があってよいのだが、ミシャグジの跡を伺わせるものはない。これ以上長居は無用と当社の本宮に向かうことにした。
本宮倭文神社
倭文神社から昇仙峡グリーンラインを北に2kmほど上り、右に少し入ったところに車を停める。権現川に架かる橋に獣除けの柵がある。開けて対岸に渡ると本宮の鳥居。長い石段を上る。社殿、神楽殿ともに新しいものでこちらも青が配されていてシックで美しい。拝殿の脇に回ると拝殿の後ろに石段があり、その上に本殿があるようだ。上ってみると本殿の扉が開いている。中を窺うとなんとそこには木箱の中に収められた石棒があった。なにやら文字が刻んであるので目を凝らすと、倭文神の下に建葉槌命と織女姫命の神名が並んでいる。
やはり御神体は石棒だった。しかし、なぜ織物の神の御神体が石棒なのか。倭文神を祀る神社は日本各地にあるが、その源は織物を生産する部民の倭文部(しとりべ)で祖神を建葉槌命とし、本源を奈良県葛城市の葛木倭文坐天羽雷命神社に置いたとされる。検索する限りでは御神体がなんなのかはわからないが、そもそも織物と石棒の関係は考えにくい。おそらく当社の前身はミシャグジであろう。倭文部の後裔が当地に織物の技術を伝えた際に神名を正に”上書き”したのではないだろうか。
道祖神(穂坂町上今井)
路傍の一角にあり、石仏や念仏供養塔と同じ場所に祀られていた。覆屋の中にたくさんの丸石や〆縄、色紙で作られた幣帛などが雑多に放り込まれている。よく見るとここにも石棒があり、背後の竹林の左手には古木が斜めに立っている。ここも元々はミシャグジだったのかもしれない。塞の神や道祖神とどこかで習合したものと思われるが、民間信仰ゆえに記録などなく、それがいつのことなのかは見当もつかない。確かなことはミシャグジは最古層の神ということだけである。
諏訪神社(穂坂町三ノ蔵)
ここに石棒があることは事前の調査でわかっていた。どこかと探すと拝殿の右奥に小祠が立っていて、紙垂の下がる〆縄の向こうにはたしかに石棒が四つ並んでいた。どこか愛嬌があって嬉しくなってしまう。境内には樹々の間に石祠が一基あるのだが、石棒の一つはここに祀られていたと思われる。他の三つは近隣で祀られていたものを当社に移し、一括で祀ったのだろう。
おそらく国家神道の確立に向けて明治政府が講じた淫祠邪教を排除する政策に伴うものだった筈だ。当時、修験道や陰陽道、巫術や託宣などおよそシャーマニックなものはすべて禁じられた。諏訪神社であればその禁制から逃れられると考え、御神体としてではなく別の祠に寄せたのである。神仏分離、廃仏毀釈の際に仏像を土の中に埋めたり、神社の御神体にして隠したのと同じで、僕はそこに庶民の信仰の勁く、強かな心性を感じるのだ。
甲斐のミシャグジ巡りはいったんここで終える。ミシャグジ、塞の神、道祖神の関係はいずれまた考察してみたい。次稿では韮崎市穂坂町あたりにしかないという謎の「お腰掛け」を訪ねることにする。そこにはとんでもないものが待ち受けていた。
(2024年11月3日)
参考*1 映画「倭文 旅するカジの木 」パンフレット