洩矢神社:長野県岡谷市川岸東1丁目12
藤島神社:長野県岡谷市川岸上1丁目1
守屋神社:長野県伊那市高遠町藤沢
守屋神社奥宮:長野県伊那市高遠町藤沢(守屋山東峰山頂)
今年は諏訪大社御柱祭の年だ。諏訪周辺の人々は七年に一度のこの祭に心血を注ぐ。僕も諏訪には幾度となく訪れており、かねてからこの祭の様子を見たいと思っていた。今回こそはと下社山出しの木落し観覧席の抽選に応募したところ、なんとSS席を入手できて小躍りしたのである。だがコロナ禍での開催ガイドラインに準じ、山出しはトレーラーに変更、木落しも中止となり、残念ながら見学は叶わなかった。とはいえ、宿は取ってあったので迷いなく諏訪に向かう。諏訪は何度訪れても飽きないのだが、今回の目的は御柱祭に臨む人々の熱量を肌で感じることと、洩矢神社、守屋神社を再訪、上社の神体山とされる守屋山にも登ってみて、「洩矢神」について考えてみることにした。
ここでとりあげる神社はいずれも諏訪信仰の源流に関わる神社だ。記紀に連なる由緒を持つ神社ではないこともあり、手元で参照できる史料はいささか乏しい。それでも諏訪信仰に関する研究は近年充実してきており、ネット検索でもかなりの情報を得られるようになった。だが、百聞は一見に如かずだ。まずは、洩矢神社を参拝してみよう。
洩矢神社
洩矢神社は諏訪湖の北から西に入った天竜川の傍にある。概要を把握するため社頭の由緒略記を写しておく。
諏訪大明神画詞 延文元年(1356)によれば昔諏訪には先住の国津神の洩矢神がおられた そこへ建御名方命(諏訪明神)が侵入されようとした 川岸の地で洩矢神は「鉄の輪」を 建御名方命は「藤の枝」を持って争ったが 洩矢神は命の稜威に服した その時建御名方命は持っておられた藤の枝を投げた処 その枝は根づいて繫茂して藤洲羽の森となったのが現在の荒神塚、藤島神社(三澤区)である 洩矢神は建御名方命に服属しその最高の職 神長官(みわのちょうかん)となり建御名方命を助けて諏訪の地開発につくされた 氏子は洩矢神のために天竜川をはさみ藤洲羽の森の対岸の地に社を建て洩矢神を祀った これが洩矢神社の始めである 洩矢神は一男一女があり、女は多満留姫といい建御名方命の第二子 出早雄命(いずはやおのみこと)に嫁し、男は守宅神(もりやのかみ)といいその子孫は茅野市宮川高部に住み神長官を代々世襲した
要するに諏訪の国譲り神話である。古事記の葦原中国平定のエピソードでは建御名方神は大国主神の次男とされ、国譲りを迫った建御雷神と力比べで負け、諏訪まで追いつめられて所封じとなった。史実そのものではないにせよ、大和朝廷成立前後に、出雲と諏訪の国譲り神話が入れ子のようになっていることが興味深い。これら神話に見えるのは、侵攻すれども現地の民族や文化を否定せず、上手に懐柔していく方法であり、今般のロシアのウクライナ侵攻とは質が異なるのだ。どちらが人間らしいだろうか。
さて、神社の佇まいは諏訪によくあるもので、とくに特徴があるわけではない。敢えていえば覆屋の扉が格子になっていることだろうか。この格子は諏訪一帯の社殿で見かけるもので、当地独特のもののように思う。趣きがあって僕はとても好きだ。もちろん、本社両脇に合祀された小祠を含め御柱が建つことは言うまでもない。当社は洩矢神の旧居跡とのことなのだが、中央道の開設に伴い、当地に遷座されたらしい。それまでの鎮座地には洩矢大神御舊趾碑が建っており、当社からは徒歩で行ける。(参考*1、2)
藤島社
次に、天竜川を挟んだ建御名方命の旧蹟、藤島社に向かう。以前は藤の多く茂る丘に鎮座していたらしいが、ここも道路拡張工事で移設され、いまは印刷会社の脇に小祠がひっそりと佇む。元々荒神塚古墳の上に祀られていたが、県道の拡張によって墳丘は失われ、まったくその姿を留めてない。祠の基壇には石室天井石が使われているらしい。(参考*2) それどころか僕が信頼を寄せる「諏訪大社と諏訪神社」というWebサイトによれば、どうやらここは藤島社ではないようで、県道を挟んで北東にある藤宮がその地であるらしい。(参考*3)
翌日は早い時間に諏訪湖畔の宿を出立し、一路守屋山へ向かった。登山コースは三つあるが、距離が短く、巨岩怪石の多い立石コースを選ぶ。杖突峠を越え、右側に小さく見える「守屋山立石コース(入口)」と記された茶色の案内標識にしたがって右折し、しばらく進むと駐車スペースがある。さらに急坂を登り詰めたどん詰まりにも車が停められる。ここなら車を降りてすぐに登りはじめられる。但し、車の停め方には土地のルールがあるようなのでご注意を。 立石コース登山口
亀石
登りはじめてすぐに亀石と名づけられた巨石が出迎える。斜面に人為的に配されたように見えるが、これは自然の産物だろう。ここから山を巻くように平坦な道を行くと右手に「御陰核石」なる陰石。その先にある「立石」を陽石に見立てて対比したのだろう。大らかと言えば大らかなネーミングだが、いささか品がない。立石から先は、岩巡りコースとされ、その後も十文字岩、平成のビーナス、親子岩、夫婦岩、屏風岩、鬼ケ城と名前のついた巨岩怪石が続く。浸食に弱い凝灰岩でできた山ならではの風景である。鬼ヶ城から先は少し傾斜がきつくなる。登山口から一時間半で東峰山頂へ。360度に視界が開けており、眼下には諏訪湖を、また日本百名山のうち33座も一望できる。標高は1,651mだが、高低差は400mに満たない。道もよく整備されており、登山初心者でも登ることができるだろう。
御陰核石
立石
鬼ヶ城
守屋山東峰山頂
守屋神社奥宮
ところで、守屋山は一般に諏訪大社上社の御神体とされているが、これは上社本宮には拝殿はあっても本殿(神殿)がないことから、奈良の三輪山と大神神社の関係に擬えて解釈されたものらしい。実は、上社本宮には拝殿向かって右手の硯石を臨む場所に東西一対の宝殿があり、布橋から参拝できる。宝殿は御柱祭の時に一方が建て替えられ、中にある御輿が遷される。ここには上社の宝物が入っており、「諏方上社物忌令」によれば、黄金の御蓋・三組の御宝・八栄の鈴・神サノウ刀・真澄の鏡・御手洗水・御鞍が収められているという。(参考*5) 伊勢神宮の式年遷宮や三種の神器を引き合いに出すまでもなく、宝殿は本殿≒御神体に準ずるものと考えられるだろう。では、現在の拝殿との位置関係はどうなるかという問題が残るが、これは幣拝殿の背後にあったストゥーパ(仏塔)を拝んでいた名残りで、その延長線上にはかつて神宮寺の普賢堂跡があった。
神仏習合時代は、上社の大祝は普賢菩薩の生まれ変わりという思想があり、祈りの対象が交差したまま明治時代を迎え、神宮寺や仏教色が廃されて神社の建物だけがいまに残ったということらしい。上社が守屋山を御神体としたことは古文書等の記録にも見えず、これらを踏まえれば、守屋山は本殿≒御神体ではないとしてよいだろう。さらに、中世の諏訪大社においては神殿は固定された場所にあるというより、現人神である大祝がいる場所を神殿としたようで、御射山祭の穂屋のように大祝と共に移動したという説もある。(参考*6)
考えてみれば、古代における神々は祭祀者が設えた神籬や磐座を目印に依りつくのだ。正に臨機応変に降りてくるものであり、一ヶ所に留まるものではなかったことからすると、古層の信仰を留めてきた諏訪においては当然のことかもしれない。
では、守屋山の神、伊那の守屋神社に祀られている神とは、いったいどのような神なのか。洩矢神ではないのか。次稿ではこのことについてもう少し考察してみたい。
(2022年4月9日・10日)
参考
*1 洩矢神社公式ホームページ https://moriyajinja.amebaownd.com/
*2 長野県諏訪建設事務所他 『郷土の文化財25:荒神塚古墳』 2005年
https://sitereports.nabunken.go.jp/7549
*3 諏訪大社と諏訪神社 from八ヶ岳原人 https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/index.htm
洩矢大神古宮跡 https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/hurumiya.htm
洩矢大神御舊趾 https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/moreya2.htm
三沢の藤島神社は藤森氏の氏神 https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/mieru2/misawahuji.htm
藤宮様(藤島神社) https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo2/hujimiya.htm
*4 原直正「守屋山の習俗と伝承」 山本ひろ子編「諏訪学」 国書刊行会 2018年
*5 神長官守矢史料館周辺ガイドブック 2018年改訂第4版
*6 田中基「水霊の柱=御柱と諏訪のドラゴン」 諏訪市博物館研究紀要1所収 諏訪市博物館 1993年