早瀧比咩神社:岡山県玉野市滝773・774
穴門山神社:岡山県倉敷市真備町妹895
こと磐座については「汲めども尽きぬ」といった形容に相応しい地域の一つが備州である。地質の関係もあるだろうが、これだけ広域に様々な形状の磐座が多数分布する地域は珍しいのではないか。当地は大和朝廷成立以前の四大王権の一角であり、古墳も数多い。巨石を巡る祭祀も一様ではなく、さまざまに営まれていたと思われる。本稿では神社を二社紹介するがいずれも巨大な磐座を擁し、その祭祀の源には龍穴との関係が見え隠れしていた。
岡山市内から南下し、玉野市へ赴く。由加山に向かうバイパスの先を右折して、旧由加往来に入る。田畑と住居が混在する川沿いの細い道をしばらく行くと早瀧比咩神社の鳥居が迎えてくれる。自然公園として整備されているようだが、土曜の午前中にここにいるのは僕ひとりだ。
鳥居をくぐる。すぐに左手に威圧感を感じる。振り返るといきなりまるで怪獣のような巨岩と対面する。高さは目測で5mほどか。幅や奥行きも同じくらいありそうだ。岩石については明るくないが、どうやら安山岩のようだ。節理にしたがって風化しており、畳岩のように見えないこともない。飛鳥の亀石をさらに巨大にして甲羅をつけてみたらこんな感じになるだろうか。趣のある磐座である。因みにこの磐座は「龍岩」の名を持つようだ。
社殿まで真っ直ぐに参道が続く。以下、境内のいくつかの案内板に記されていることから、この神社の本貫がどこにあるのかを考えてみる。当社の創祀は大宝元年(701)三月十五日、紀州熊野十二社の一社を勧請したと伝えられ、瀬織津姫命、天吉葛命、速秋津姫命を同時に合祀した。当社には文安二年(1445)二月に、阿波国細川氏の家臣の飯尾因幡守入道真覺が奉納した懸仏の木製基盤が残るが、種字から十一面観音の懸仏と推定されており、これを本地仏とすれば当社は天照大神を祀る筈である。天照大神は瀬織津姫と同体とされ、その瀬織津姫は水の神、瀧の神、川の神とされている。また、相殿の天吉葛命(あまのよさつら)、速秋津姫命(はやあきつひめ)も水に因む神である。これらのことから考えると奈良時代の創祀は後世の付会ではないかと思われる。つまり、先に地主神である水神への信仰があって、この由緒を正すために熊野十二社権現の中から祭神に相応しい仏を勧請したのだろう。本地と垂迹の関係である。おそらくそれは熊野信仰が盛んになった中世初めのことのように思われる。
本殿は元禄に造替されたものだが特に見るべきものはなく、川を挟んで対岸にある素戔嗚神社を参拝してから急坂を上り、上流にある龍王宮に向かった。手前に一の滝がある。案内板には「寛永年間の洪水で崩れるまでは老松さんさたる間を約10mの落差を流下していた」とある。対岸に渡る橋があり、その先に木の鳥居が立つ。
一帯は岩塊になっているようだ。岩盤の上の覆屋の中に石祠が一基。ここでは旱魃の際に雨乞いが行われていたという。一の滝のありようを踏まえると、ここは龍穴と看做されていたと思われる。龍王宮は早瀧比咩神社の末社で、大宝年間に紀州から勧請されたと伝えられる。祭神は豊玉姫命。海神豊玉彦命(綿津見大神)の長女であり、火遠理命(山幸彦)の奥方、神武天皇の祖母である。彼女もまた神格の一つに龍神を持つ。
旧由加往来を上っていくと弁財天宮を経て、由加神社(蓮台寺)のある由加山に至るが、この山から湧き出ずる水が信仰の源であったのだろう。帰りに対岸の山に目を遣ると当社の磐座によく似た異形の巨石が目に入った。やはり岩と水は切っても切れない関係なのである。
さて、次は真備町の高山の山頂近くにある穴門山神社を目指す。町名の由来は、遣唐使であり、陰陽道の祖とされる吉備真備だ。彼に関する伝説には非常におもしろいものがあるのだがここでは措く。旧山陽道から山に入っていく道の傍らに当社一の鳥居が立つ。間の抜けた顔つきだが愛嬌のある狛犬がいた。
しばらくは平坦な道だが徐々に勾配がきつくなる。行き交う車は一台もない。山を上りきったあたりで右に急坂が見える。ここを上っていくとそこそこの広さの駐車場があった。眼下には長閑な田園地帯が望め、眺望はよい。山間の境内は意外に広く、岩壁の下にある社殿も落ち着きを持った構えである。
実は社号を同じくする式内穴戸山神社が高梁市高山市(こうやまいち)にある。こちらの方が名が通っている古社で参拝客も多いようだ。明治8年7月末には両社ともに式内社と定められたが、政治的な経緯から同年8月25日に真備町妹の当社が式外社に格下げされてしまったらしい。さぞかし残念なことだったのだろう。「永遠社格ニ関係仕候一大事」と明治14年に岡山県令に対して再調査を要請したが結局叶わなかったようだ。現代では式内社かどうかは参拝者にとって大した意味を持たないが、官からの奉幣の有無やブランド価値を考えると当時は”一大事”だったのである。式内社とされた高山市の穴戸山神社は、本殿裏の崖下にある鍾乳洞から常に清水が流れ出し、末社磐屋神社が祀られているという。備中には鍾乳洞を神体とする式内社が他にも二社あるのでいずれ訪ねてみたい。
当社を訪れた目的は鍾乳洞ではなく磐座である。早速奥宮とされる場所に赴く。社殿向かって右の奥にトイレがあり、そこから平坦な山道が続く。200mほど進むと前方に巨岩が見えてくる。全貌をつかめないほど巨大な岩の塊である。回り込むと巨岩の重なり合った奥に小祠が据えてあり、ここを奥宮としたことがわかる。前には瓦がたくさん打ち捨てられていたので、近年までは瓦葺の大きい祠があったのかもしれない。
しかし、どうしたらこのような複雑な岩のオブジェができるのだろうか。自然の為せる技と思いたいがここは山頂である。人為の可能性も捨てきれない。というのもこの磐座の周囲、道のきれた奥にも広範囲に巨石の散在が見られ、それらが祭祀遺構に見えないこともないからだ。一般に奥宮は神社の創祀と深く関係するが、社殿を設える前の祈りの場はここだったと確信する。
あらためて当社の由緒を引く。
本神社は創立年月不詳ではあるが、祭神は穴門武姫命を祀る。また、延喜式(下道郡)に穴門山神社と見える。社伝によると、社地の正面南方数町に馬場、また遊場、示場、神子免、宮地、殿田等の地名があり、吉備の名方の浜の宮もこの地であると伝えている。(後略。出典*1)
吉備の名方の浜の宮とは、天照大神の御杖代として安寧の地を求めて行脚した倭姫の巡行地の一つ、いわゆる元伊勢である。但し、名方の浜の宮に比定される神社は岡山県内6ヶ所、広島県1ヶ所、和歌山県2ヶ所で、いずれも比定の根拠を持たない。そもそも倭姫命世記自体、鎌倉時代中期に編纂されたものであり、神宮に伝わる古伝承が含まれるとはいえ、基本的に創作と看做してよいだろう。一方、祭神の穴門武姫命は、穴門神で本来は倭建命の熊襲征討譚に登場する海峡の神である。
当社および奥宮にはこれといった水の気配は感じられないが、僕がこの磐座を龍穴としたいのは以下三点に因る。一点目は社名だ。穴門は関門海峡および長門国の古称として知られるが、字義通りに洞窟の入口とすれば、そこに龍穴の意を汲むことができる。二点目は、当社のある高山の山腹や山麓に小さな池が数多くあり、山腹の一つの池から東に向かって末政川が流れていることだ。当社周辺にも湧水地があるかもしれないが、それがなくとも水をもたらす源として山頂に神を祀ったことは間違いないだろう。
三点目は、当社の祭事に旧暦2月巳の日に春巳の日祭があることである。巳の日に祭事を行うのは、水神を祀ることで麓の田畑を潤し、豊作を願うことに他ならない。巳(蛇)が龍神と同体であることは言うまでもないだろう。当社では7月最終日曜日に夏祈祷祭、10月23、24日に秋大祭を行うが、山麓の農耕における豊作祈願とその年の収穫への感謝に密接に関わっているのである。
以上、岡山の二社において龍穴と磐座の関係を見てきたが、いずれも源にあるのは「水」への信仰だった。結局のところ人間の生存においてもっとも大切なものは水である。人体の60%は水であり、食料を得る農耕にとっても水は不可欠である。さらにいえば、あらゆる生物は水なくして生きることはできないのである。
(2024年11月16日)
参考
穴門山神社 岡山県神社庁ホームページ