岩屋荒神社:広島県尾道市向東町104
立岩(天津磐境):広島県福山市金江町藁江616
今年の7月にNHK教育で「TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇」なる特撮テレビドラマが放送された。番組ホームページでは以下のように紹介されている。
観てみるとこれが滅法おもしろい。制作そのものに岡本太郎が関わっているわけではないが、番組制作者らの岡本太郎への愛が満ち溢れていてうれしくなる。岡本太郎の感性はフツーの人のものではない。このブログのテーマである聖地では、恐山や津軽の川倉賽の河原地蔵尊、沖縄の久高島や斎場御嶽、諏訪の御柱祭、熊野は古座の河内祭りや那智の火祭りなどを訪れ、いたく興奮する愛すべき芸術家なのだ。また、シュールレアリズムはもとより、ソルボンヌ大学で文化人類学を学び、一顧だにされなかった縄文の美を世に知らしめるなど、常に時代の先駆けでもあった。文末に彼の書いたものを紹介しておくので、関心があればぜひ読んでみてほしい。斯くいう僕はしごとのスケールこそ足下にも及ばないが、感性だけは同じくすると自認していて、若い時分から私淑していた。僕も旅をしながら「なんだこれは!」を探し求めているのである。ここでは瀬戸内の磐座をふたつ紹介するが、いままで数百という磐座、磐境を見てきた僕が唸ったものである。
今治方面から尾道に向かってしまなみ海道を行くと、尾道大橋の手前の山の頂に巨石群が露出しているのが見える。目に入った瞬間、ぎょっとするのだが、尾道はちょっとした巨石スポットで千光寺山の周辺は見応えある奇岩怪石も多い。一帯の地質は花崗岩中心にできているらしく、これら巨石は風化したコアストーンと思われる。なにはともあれ一見しておかねばならない。
かつては岩屋山ミステリーツアーと名づけられたトレッキングルートで、登拝口には案内板があったようだが、現在は土砂崩れのために立ち入り禁止の看板が立っている。様子を窺うと大きな崩落はなさそうだ。せっかく当地まで来たのだ、構うものかと先に進む。山を巻く細い道を進むと石の鳥居、その先に石仏、さらに石段を上がるともうそこは山頂だ。標高102mの山なので十分もかからない。心月之光と刻まれた石柱、裏には大正八巳未年九月吉祥日とある。堂々たる巨石が連なり、その前に瓦葺の簡素な拝殿が建っている。
拝殿の後ろが磐境となっているのだが、向かって左側にも岩窟がある。いかにも修験の行場といったさまだ。吸い寄せられるように中に入っていくと、奥に薬師如来像が祀られており、酒が供えてある。立ち入り禁止といえど修験者が訪れるのだろう。窟の中をぐるり見渡すと入口上方の岩肌には梵字が刻まれていた。一応神社の体裁をしているが、この山の周囲には寺院が密集していることから、神仏習合の聖地だったと思われる。
拝殿の先には本殿と思しき小さな祠、その後ろに累々と巨石が居並んでいる。神々が思い思いのかたちに姿を変えたようにも見え、ずっと眺めていても飽きることがない。なぜこんなところにこんなものが、などと考えるのは野暮というものだ。聖性の受け取り方は人それぞれでよいが、僕は聖地空間の中に自らを埋め込み、一体となってみることをお勧めしたい。空間に溶け込み、自らが自然と不可分であることを感得するだけで、景色がずいぶん変わって見える筈だ。山岳抖擻で至る境地とはそういうものなのかもしれない。
巨石群に向かって右側に上に続く道がある。薬師堂が建ち、これを回り込むとまた巨石群、そしてその奥には巨岩の大きな裂け目がばっくりと口を開けていた。晩い午後の太陽が差し込むと、その場は神秘を増す。こうした場所ではよく二至二分が沙汰されるが、ここも夏至の太陽が昇り、冬至の太陽が沈むように造られているという。また、対岸の千光寺、西國寺、浄土寺の三つの古刹はこの山に向かって建てられており、風水学的にも重要な山だったとのことだ。いずれも見立てであって確証などないが、古代からこれら巨石への信仰があったことはたしかだと思う。
ふと右の岩壁を見ると摩崖仏のような線刻がある。一見、不動明王のように見えるが、右手に三鈷剣は持つものの、左手に羂索は握っておらず空手である。頭に被っているのはおそらく山伏の兜巾(ときん)だろう。天狗のように見えないでもない。どなたが彫ったかはわからないが、このでたらめさ、なんともいい具合だ。
下山して空を見上げると秋の鰯雲がたなびいていた。当地での安全は保証しかねるが、一見以上の価値があることはお約束しておこう。さて次は福山の巨石だ。
こちらは尾道と福山のほぼ中間、岩田山の中腹にある。広島県立福山少年の家の近く、一帯はウォークラリーのコースにもなっている。脇道を入っていくのだが、とにかく非常にわかりづらい。同好の士と思しき初老の男性四人が近くに車を停めてうろうろしていたのであたりがついたが、訪れる方はご注意を。
またまた「なんだ、これは!」である。モニュメントとしての形状は秀逸で、人為によるものであることがわかる造作だ。中央の巨石の左右にも、巨石が囲むように配されており、入口の右側には天磐舟を模したような扁平な岩石もある。この巨石の前に額づいて祭祀が行われていたことは想像に難くない。立岩、または天津磐境と称するが、公的な資料は見当たらないので、地域の歴史を研究する「備陽史探訪の会」の紹介から一部を引用しておく。
現在は「岩田山神社」として宗教法人登録されており、祭神は神武天皇となっている。氏子も350戸ほどある。ただし、本殿や拝殿はなく、岩盤の上に巨岩が屹立しているのをそのまま拝するようになっているので神社には見えない。立岩の高さは約4m、周囲は11mを測る。岩盤の上に、舟形の巨石二個があり、そのLに円筒状の巨岩が乗っている。見た目にはスルメイカに似たユーモラスな形をしている。また、背後には環状の列石が認められる。
社伝によれば、神武天皇が、安芸の埃宮から海路藁江に入り、この岩田山に宮を置いたという。昭和15(1940)年、皇紀二千六百年を記念して、記紀に記載のある吉備の高島宮址を国が指定することとなった。その際、各地の伝承地はそれぞれその候補地をあげて盛んに運動を行った。金江と柳津も一体となって、吉備高島宮顕彰会を組織し、村議会で予算を付けてこの立岩や、柳津の御陰山を神武天皇の聖蹟として整備を実施した。立岩には、矢来をめぐらし、注連縄をはり、神楽を奉納し、当時の広島県知事も視察に訪れたという。その際、立岩にはかなり手が加えられたという古老の話もある。(出典*1)
なるほど。郷土史家の方々でなければここまではわからない。ここから直線で4kmほど南西に下ったところには神武天皇柳津御上陸之地とされる史跡があり、石碑が立っている。日本書紀巻第三にも、当地に行宮(高島宮)をつくり、三年ほど滞在して船と兵や糧食をととのえて東征を再開したというくだりが見える。また、一帯には古墳時代後期の古墳があり(現存18基)、横穴式石室の露出が確認できる。(参考*1)
この磐境の方位を確認すると真南を向いていた。近くの古墳の開口部も南面していることからすると、神武云々は別にしても、岩田山南麓が古代氏族の根拠地であり、この磐境は祖神を祀る祭祀遺跡であったことはたしかだと思われる。
日本中どこに行っても岩石祭祀の聖地がある。その数は書籍やインターネットで公にされているものだけでも、二千ヶ所は下らない。海外ではドルメン、メンヒル、ストーンサークルなどヨーロッパの巨石文化が知られるが、その成立は紀元前4000年~5000年、或いはそれ以前まで遡れるという。これは人類に共通した文化なのだ。葬制、墓制と結びついているものが多いが、二至二分など天体の動きを知るためにつくられたものもある。いわば、宗教、科学、芸術が巨石を通して一体化しているのである。
(2022年10月21日、23日)
出典
*1 TAROMAN - NHKオンライン https://www.nhk.jp/p/taroman/ts/M7359Q6PQY/
*2 「立岩遺跡」備陽史探訪の会 https://bingo-history.net/archives/15552
参考
*1「藁江古墳群」備陽史探訪の会 https://bingo-history.net/archives/15639
岡本太郎著書
「日本の伝統」光文社知恵の森文庫
「日本再発見」角川ソフィア文庫
「神秘日本」角川ソフィア文庫
「沖縄文化論」中公文庫
「美の呪力」新潮文庫