阿智神社前宮:長野県下伊那郡阿智村智里489

阿智神社奥宮:長野県下伊那郡阿智村智里497

 

長野と岐阜の県境、恵那山の神坂(みさか)峠は古代東山道の難所として知られ、その麓に開かれた阿智駅は交通の要衝であった。別称「昼神」という地名は日本武尊伝説に因み、阿智川を遡った園原は「帚木」という歌枕にもなっている。都にも名の聞こえた場所であったのだろう。当地には50年前に温泉が湧出し、現在は阿智川沿いを中心に二十軒程の宿が立ち並ぶ。いわゆる中山間地域で過疎化が進んではいるが、近年は日本一きれいな星空を謳い、「日本一の星空ナイトツアー」には年間六万人もの観光客が訪れるという。

 

 

 

阿智神社前宮は昼神温泉への入口の北側、万葉茶寮みさかという店の脇から入った高台の上に鎮座していた。伊那郡の式内社二座のうちの一社で、前宮は天八思兼命(あめのおもいかね)を主祭神とし、その子である天表春命(あめのうわはる)を配している。思兼命は記紀の天の岩戸神話でどうやって岩戸を開くかを思慮し、周囲の神々に諮った神であり、多くの人々の知恵と思慮を一人で兼ねもつほど知謀に長けた神とされる。
 

 

社頭の由緒板には「大古越後より信濃に蟠踞する出雲系諏訪族に対抗する天孫降臨系氏族の尖兵として国境を押さえる最重要地点御坂の東麓この地に来たり駐留し、その部曲(かきべ)の民を率いて阿智の地方を中心に伊那西南部一帯の経営開拓にあたった信濃国三大古族の一つ阿智族の本拠」とある。要は、当地を治めた大和系氏族の祖を祀る神社ということだろう。境内は広くはないが、樹木に囲まれた佇まいはたいへん清々しかった。

 

前宮といえば諏訪大社上社である。これは本宮に対してのもので、諏訪信仰発祥の地との意味から呼称されたものだ。諏訪大明神の居宅のあった地ともされている。同じ祭神を祀る複数社がある場合、山宮・里宮(田宮)、本宮・新宮、本宮・奥宮、上宮・中宮・下宮などの例が知られるが、阿智神社は前宮・奥宮である。いかなる関係か奥宮を訪ねてみた。

 

 

奥宮は、前宮から阿智川に沿って園原方面に2㎞ほど行った、黒川との合流地点の台地の上にある。鳥居をくぐり、少し上ると樹叢の中に境内が広がる。前宮の社殿は流造だったが、こちらは一見すると山小屋のような造りだ。ガラス張りの格子窓で囲われており、こうした様式は諏訪でよく見かけるものだ。茅野市糸萱の折橋子之社(諏訪大社前宮の旧精進屋を移築)と同じものである。覆殿ということなのだろう。

 

 

 

折橋子之社

 

阿智村のあたりは大和の氏族が治めていたとはいえ、社殿の造りは諏訪周辺の風と折衷しているのがおもしろい。社殿の前には正方形の石の台座があるが、御旅所(御輿の休み処)にしては社殿前にある上にかなり大きい。舞や神楽の奉納など神事につかっているものだろう。

 

さて、この奥宮の見所はなんといっても磐座だ。社殿よりもこちらの方がはるかに存在感がある。小山のてっぺんに玉垣を巡らしてあり、その中に巨石が据えてある。自然石ではない。明らかにどこかから運んできてここに据えたものだ。

 

 

 

 

 

 

そもそもこの小山自体、円墳のように見えなくもない。為政者を祀ってあるのであればその可能性もあるかもしれない。因みに阿智村には古墳が二基あり、いずれも円墳である。案内板には以下のように記されていた。

 

この丘陵は昼神に祭られている阿智神社の奥宮です。昔から村人は「山王さま」と親しみをこめて呼び、小丘を阿智族の祖天表春命の墳墓「河合の陵」と名づけて信仰を集めてきました。丘の頂、玉垣に囲まれた巨石は磐座であると云われて きました。このごろこの巨石を囲む遺構が発見され、いよいよ磐座であることが確かになりました。磐座とは古代の祭祀場において神霊が降りてきて鎮座 したところです。この地が阿智神社の祭神、八意思兼命(天思兼命)・天表春命の鎮座地であるとともに、全国の総本社であることがうかがえます。この二神は信濃国に天降って阿智の祝の祖となっ たことが平安時代初期に編された「先代旧事本紀」に記さ れておりますし、天思兼命は「古事記」「日本書紀」に高天原随一の知恵の神として登場しています。

 

ひとつ気になったのは、社殿が磐座を向いておらず、神坂峠を拝するように建てられていることだ。これまでの見聞だと、祖神を祀る古墳や磐座はたいがい本殿の下や後方にあることが多く、当社は社殿、磐座それぞれに設けられた位置の文脈が異なるように思える。

 

この磐座を調査したのは神道考古学を提唱した國學院大学の大場磐雄博士だが、「峠神の一考察」という論考の中で、神坂峠で数多の陶器(祝部土器)が発見され、さらに峠下の園原及び小野川部落の各地から土器に伴って多量の滑石製模造品(鏡・刀子・勾玉・管玉)が発見されたことに触れ、以下のように記している。「古墳の存在を肯定することの出来ないかヽる山上に滑石製模造品が多数発見されてゐることは、祭祀用遺物以外にこれを考察することは出来ない。即ち自分はこれ等土器のあるものとこの滑石製品とが、上代御坂峠に於ける手向の神の祭祀に関係する唯一の資料であるとしたいのである」(出典*1)大場博士はこの論考の前段で「たむけ(手向)は言ふ迄もなく峠であって、古く峠には神の存在を認め、道行く人はその怒りを和むる為幣を奉って通行する風習があった」とし、「この習俗は長く一般に行はれたので、後には単に神に奉幣することをたむけと言ひ、又は旅の餞の意味にも転化するに至った」としている。

 

この奥宮の地は元々神坂峠を拝した祭祀場だったのではないか。だとすれば社殿と磐座の位置関係が理解できる。おそらく磐座のあるじは、後から祀られたのであろう。因みにこの磐座は菱形様の巨石だが、出っ張りが東西南北と一致し、冬至には東の延長線上に太陽が昇るらしい。西はもちろん神坂峠である。

 

ところで、冒頭に紹介した日本武尊伝説だが、峠に大いに関係がある。ひとつは古事記、景行天皇の条で蝦夷を平らげた帰途のエピソードとして、足柄の坂の神が日本武尊の食事中に白い鹿に化けて行手を遮ろうとした際、食べ残した蒜(ひる、今のにんにくか)を投げつけ、目に当てて退治した話がある。これにそっくりな話が日本書紀の巻第七景行天皇の条にも出てくる。舞台は神坂峠だ。こちらは原文訳を引いておこう。「即ち、日本武尊、信濃に進入しぬ。是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。然るに日本武尊、烟を披け、霧を凌ぎて、遥かに大山をわたりたまふ。既に峯に逮りて、飢れたまふ。山の中に食す。山の神、王を苦びしめむとして、白き鹿と化りて王の前に立つ。王異びたまひて、一箇蒜を以て白き鹿に弾けつ。即ち眼に中りて殺しつ」。(出典*2) 当地を「ひるがみ」と称するようになった由縁である。ドラキュラではあるまいが、荒ぶる峠の神にはにんにくを投げつけておくのがよいらしい。

 

最後に前宮とはなにか、という問題が残ったが、これは奥宮の手前にある里宮ほどのことで、元宮ではないと思われる。奥宮、神坂峠を望める、より生活に近い場所で里人が日々拝したものだろう。

 

ふと気づくと男の子をふたり連れた家族。社殿を拝した後、磐座の前の案内板を眺めていたが、磐座そのものは瞥見しただけで素通りしていった。神様は社殿の中にいるのだ。僅かに雪の残る境内に、午後の陽光が差し込んでいる。

 

(2022年12月28日)

 

出典

*1 大場磐雄「神道考古学論攷」雄山閣 昭和46年

*2 「日本書紀(二)」岩波文庫 2009年

 

参考

黒坂周平・龍野常重「塩野神社」 谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第9巻 美濃・飛騨・信濃』