最近、暗記ができない子が増えている印象です。
体感でしかないから確かかはわからないのだけれど、とにかく、覚えない。
覚えようとしてないとか、やる気の問題とかそういうわけではなくて、どうもやってるのに覚えられないという感じがあります。
一度理解したことを、数分後には忘れたり、次の日には覚えてなかったり。
反復不足、本当は理解していないと言われればその通りかもしれないのだけれど、めちゃくちゃ繰り返したのにやり方は何も覚えてないとか、時には、「やった」ということすら覚えてないなんてことも多々あります。
これは一体なんなんだろう。
昔からそういう子たちはいましたけれど、増えている印象。
これを「バカだから」とかそういう言葉で切り捨てたり諦めたりしたらそれまでで、なんでそうなのかを考えないといけません。
たぶん、覚えるには覚えるという訓練が必要です。
幼い子が何度も何度も同じことを繰り返すように。
その訓練をしながら、脳を覚えられるような状態にカスタマイズしていく。
ベイビーを見ていると、一つ言葉を覚えるにしても何度も何度もやらないと覚えない。
でも、そうしているうちになんだか覚えてくる。
そして気がついたらいろんなことがわかってきて、覚える速度が上がっていっている。
最近凄まじい勢いで言葉を理解していってるんですよね。
そうして何度も何度も繰り返すことによって、覚えられるように脳がカスタマイズされていっているように感じる。
そこの根源には「知りたい」「話したい」「気持ちを伝えたい」などの欲求が、言葉にはならないけれどあるのだろうとは思います。
だから、そういう欲求がないと、覚えたりしようと思わない。
ベイビーと小中学生は流石に状況が違うけれど、子どもたちを見ていると「覚えよう」「覚えなきゃ」と意識が向いてすぐ覚えられるようにはならないんですよね。
覚えられるようになるたまにカスタマイズする時間はかかる。
覚えるには覚えるという訓練が大切で、それをしてこなかった場合、なかなか覚えることができない。
小学校の授業では、あまり覚えるということが徹底されないように感じます。
せいぜい、九九。
漢字テストとかもあるけれど、別に覚えていなくてもそんなに困ることはない。
すると、覚えねばならないという意識は希薄になって、その意識の希薄さは、脳を鍛えることから遠ざける。
覚えられる脳へのカスタマイズがされない。
さらに、最近は覚えてなくても記録しておけるようになっている。
例えば何かの動画、画像、ストックしておけばいつでも、何度でも見られる。
わからないことは検索すれば教えてもらえる。
外部記憶装置が発達しすぎていて、覚えていなくても調べればよくなる。
脳の昨日を外部に委託する感じ。
この「困らない」って話は、「覚える」という面での話だけれど、生活空間においても特に何にも覚えてなくても困らない現実がある。
誰かがなんとかしといてくれる。
何もしなくても誰かがやっといてくれる。
整えといてもらえる。
わかってもらえる。
そういう「くれる」「もらえる」の積み重ねが、いつしか困らないという状況を作り上げ、外部記憶装置がそこにさらに「記憶する」ということすら不要にしていく。
困らないから現状をどうしようかと考えることもない。
そうして気がつかないうちに、満ち足りた生活が、覚えることや考えることを蝕む。
それだけが原因とは言わないけれど。
「やる気ない」「勉強したくない」そういうタイプの子達が中1,2あたりではサッパリでも、中3の受験期になると徐々に変わってきて覚えるようになったりする。
受験に間に合わないことの方が多いけど。
現実を直視し、どうにもならないんだよというにっちもさっちもいかない状況に追いやられて、動きだす。
これはたぶん、「困るから」なんだと思うんです。
それまでは「やる気ないのでやらないからできない」なわけだけれど、もっと突き詰めるとその出来ない状況に困ってない。
それが、いよいよ受験を目の当たりにしたときに「困り」動き出し、そこでやっと、「覚える」という方向に脳の意識がいき、だんだん覚えられるようになっていく。
だから、覚えられないという人は多分、困ってない。
ということは、まずは覚えていないということによって困る必要があるように思う。
どうすれば困るのか。
困るのに必要なことは、欲求かな。
知りたい、理解してもらいたい、お腹すいた、刺激が欲しい などなど
そういう欲求を自分で満たそうとすることが大事なのであって、それを先回りして与えられ続けるとどんどん脳は自分で何かをしなくなっていく。
先回りするのは安全かもしれないけれど、子どもの力を伸ばす機会を奪っているんじゃないかな。