阿曇磯良の眠る磯良塚と磯良丸神社 | 筑前由紀のプチトリップ

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2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
着物を着たり着なかったり
たまにバイクに乗ったり
季節の草花を見に行ったり
お寺や神社に行ったりしています。

 

磯良塚・磯良丸神社

福岡県大川市大字酒見780-1


風浪宮のすぐ側。


幼稚園の中にあるので近くに行くのは無理だろなーって、みんなで外から眺めていたら、園の方がどうぞと入れて下さったよ。

やったね!

さすが、がっつり「歴史と自然をまもる会」って書いたバスに乗って移動している甲斐があったというもの☺️

個人じゃあなかなか頼みにくいからさ、こういうのありがたい。


立派な楠の木を囲むようにして、磯良塚と磯良丸神社。


磯良丸神社


阿曇磯良丸を祀っています。

磯良丸は、干珠満珠をもって皇后に従い船団の海上指揮をとった航海熟達の海士です。


磯良丸は海洋族の酋長として、当時大陸との交易により大陸文化を導入し日本の農業、工業基他全般の産業を興して日本開国の基を築き、ここ大川の地の木工産業発祥の守護神として信仰されております。 


今日船名に「××丸」と丸を附するのは磯良丸の丸に起因するとされています。


↑風浪宮の拝殿前にある阿曇磯良の像。


神功皇后の勅命で風浪宮初代神官としてこの地にとどまり代々その後を襲ぎ現宮司を以って第六十七代を数える一系であります。 


磯良丸に仕えた船頭のうち七名も此地に生業を得て当時の船名(興賀丸、六郎丸、古賀丸、石橋丸、徳丸)を襲ぎ宮乙名と称して恒例の神事に奉仕します。


塚は磯良丸の墓とされ、昔から「岩薬師さん」とも呼ばれていました。



磯良塚


直径が約4メートルもある巨石です。

神功皇后が新羅遠征からの帰国の折に袂に入れて持ち帰られた小石が、年を経るごとに大きくなったという伝説があり、 「たもと石」とも言われています。


袂に入れてた石🪨

大きく育ったねぇ(笑)

 


この巨石は明治三十六年(一九〇三年)、当時の風浪宮宮司が、西豊吉氏に依頼して巨石の発掘調査を行なったところ、出土した合わせ甕の中に人骨が埋葬されていたので、恐ろしさのあまり、合わせ甕を元に戻して土をかぶせたそうです。


すごいね!

石はさておき、その下に甕棺と人骨あったよ。


その記録から、磯良塚は合わせ甕を埋葬してその上に巨石を置いた「支石墓」と考えられています。


で、支石墓としては日本最大だってさ。



支石墓といえば、糸島でたくさん出てきている。

仲間かなぁ。


この辺りからは甕棺の口縁部と思しき土器片等が たくさん見つかっており、大昔の墓地だったのでは、とも推測されています。


塚が阿曇磯良の墓って事は、出て来た人骨は阿曇磯良って事になるよね⁉︎

埋め戻して、まだ石の下にあるのなら確認してみて欲しいものだ。



遺跡の副葬品については皆、発掘しようしようとするけれど、「人骨」となると躊躇する人はいるよね。


でも、阿曇磯良とされる骨を調べる事によって神功皇后達の時代の人を考古学的に知ることが出来るかもしれないわけだから、調べてみて欲しい。

それで違う事実が出て来たとしても、それはそれ。

ただ、知りたい。


※青字の説明文は現地案内板とHPの説明文より。