国乳別皇子を祀る弓頭神社 | 筑前由紀のプチトリップ

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2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
着物を着たり着なかったり
たまにバイクに乗ったり
季節の草花を見に行ったり
お寺や神社に行ったりしています。

 

弓頭(ゆがしら)神社
福岡県久留米市三瀦町高三瀦521

 

 

祭神は、12代景行天皇の息子であり日本武尊(やまとたける)の兄弟でもある国乳別皇子(くにちわけのみこ)

 

 

景行天皇には子供がむちゃくちゃ沢山いて、古事記によると80人いたそうな。

そして、日本武尊と稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと=13代 成務天皇)と、五百城入彦(いおきいりひこ)皇子とを除いた子供達を、それぞれ国や郡の領主としたという。

 

 

これさ、養子含んでそうな気がするなぁ。

徳川家とかもそうじゃなかったっけ。

よさげな子を養子にして、そしてそこここの大名家と結婚させて仲間に引き込む戦法。
 

 

景行天皇と襲武媛(そのたけひめ)の間に生まれたというのが国乳別皇子。
水沼別(みぬまのわけ)という、今の三潴町(みづままち)を治める先祖となった。

 

 

そしてここが何故、弓頭神社というかというと、国乳別皇子は神功皇后の征韓の際に弓大将だったからだそうな。

 

 

夫の父親の兄弟が家臣だったんだ!

 

 

父親の兄弟っていっても、日本武尊の方がずっと年上で、国乳別皇子は仲哀天皇と年が近かったかもしれないよね。

とか思ったけど、この神社の宮司さんや

 

同じ国乳別皇子を祭神とする神社の宮司であり、かつ国乳別皇子の子孫によると

国乳別皇子は日本武尊のお兄さんだそうだよ。

 

※三島神社は元々この日行く予定だったけど、手違いで行かなかった神社。

動画あったから見た👀♪

 

襲武媛が水沼一族の姫って言ってるからやっぱり、動画作った人も、景行天皇は元々のこの地の有力者と自分の子供を結婚させたって考え方なんだろね。

しかしね、新羅を攻めた際の武内宿禰がおじいさんで国乳別皇子が若いデザインなのは間違ってるよ~。
日本書紀によると、景行天皇40年の時に日本武尊は30歳で亡くなっていて、46年の時に成務天皇は24歳で皇太子になったとある。(※景行天皇紀では皇太子になったのは景行天皇51年。)
武内宿禰は成務天皇と同じ年だから、国乳別皇子の方がずっと年上のはず‼

 

水沼君が祀っていたのが田心姫で、襲武媛が水沼の姫で。

景行天皇が丁重に扱ったのは田心姫であり襲武媛なのかもねって思うと、ちょっと良い☺️

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この辺りの地域の木鼻の狛犬は、顔の向きが横でなく、正面が主流なのかな👀