赤司八幡宮(豊比咩神社)応神天皇生誕地 蚊田行宮 | 筑前由紀のプチトリップ

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2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
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季節の草花を見に行ったり
お寺や神社に行ったりしています。

赤司八幡宮続き。

 

大城村郷土読本より。
 
神功皇后が西征の途に於て中ツ海(有明海~当時の筑紫平野)を渡られるに際しては、 水沼君は軍船をととのえて有明海を渡し、蚊田行宮(稲数村)を建ててこれに迎えました。
皇后三韓退治後ふたたび蚊田行宮に入らるるや水沼君はこれを迎え、軍船の名残をとどめてその記念としました。
遺卯の御船といって後世長くのこされたのはこれなのです。
 

 

皇后は蚊田宮に応神天皇を分娩されるに際しては、水沼君は高天原よりうつしたという潟の渟名井の霊水を産湯として奉りました。潟の渟名井は道中の神井として神聖を保った霊泉でした。

皇后は縁故ふかい道中の当社に妹豊姫命を道主貴としてとどめられ、長く西海の鎮護として重要視されました。

そのために当社を豊姫之宮と稱するようになりましたが、 神名帳には止誉比咩神社とあります。

 

応神天皇の生まれた蚊田というのはここだという。

曰く、ここで出産の後、宇美八幡宮でお祝いをされたとか。

 

 

応神天皇の出生地は「蚊田」だとされていて、じゃあ蚊田ってどこなのよ問題。

 

 

宇美町とここ、両方とも蚊田と呼ばれる範囲に含まれていた可能性はあると思ったのだが、「ここで生まれた」と言うには両者は距離がある。

飯塚市には、神功皇后は出産後にショウケ峠を通って飯塚に入ってくるという伝承があるので、宇美町が出産地と考えた方が自然である。

 

じゃあ赤司八幡宮の間違いなのか。

ここで、「蚊田皇子」というキーワード。

「蚊田宮という名前は、神武天皇の息子の名前から来ている」というのを聞いたので、調べてみた。

 


 

鞍手郡誌に、蚊田の里で荒木の女志津姫が神武天皇との子、蚊田皇子を生んだと書いてあるらしい。

記事には蚊田の里が粕屋郡宇美町とあるが、鞍手郡誌にどう書いてあるのか確認したいところ。

 

 

 

 

こちらは豊姫縁起と王城神社縁起を参考にしているようだが、応神天皇と蚊田皇子を同一人物と捉えているようでよく分からない。

豊姫縁起と王城神社縁起にどう書いてあるのか確認したいところ。

 

 

鞍手郡誌や豊姫縁起、王城神社縁起そのものを読み比べてみないと分からないけれど、それを見たであろう人達の説を見て私が考えるには、本来は異なる場所や人物を混同して取り違えてしまったのではないかということだ。

 

 

それと、これは私が勝手に考えているのだけど、神功皇后の出産は一度きりではないのではないか。

そうしたら、出産地が一ヶ所に限らなくて良い事になる。

 

 

でも、もしそういう記録があったとしても、次期天皇が仲哀天皇の子ではないってはっきりしてしまうから、宮内庁から弾かれる事になるだろな、と思うのであった。

 

 

さて。

ここでの重要ポイントはここ、「妹豊姫命を道主貴としてとどめられ」ってとこ!

景行天皇は息子を、神功皇后は妹をここに置いてるって事は、この地はかなり重要視されていたって事なんだろう。

 

 

神功皇后の妹も、豊姫と淀姫、虚空津姫が同一人物なのか別々なのか等はっきりしない。

こちらも、複数って事なんじゃないかと思ったりするんだけど、どうでしょね。

神功皇后伝承として伝わっている事の一部は妹の話って可能性もあるし…。

 

まだまだ深掘りしがいのある神社ですよ。