神功皇后と斉明天皇が新羅征伐を祈った福成神社 | 筑前由紀のプチトリップ

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2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
着物を着たり着なかったり
たまにバイクに乗ったり
季節の草花を見に行ったり
お寺や神社に行ったりしています。

 

福成神社

福岡県朝倉市入地1673

 

境内のいたるところに紫陽花が。

ちなみに写真撮ってはないけど、この日の私の服装は紫陽花イメージで、緑のズボンに紫のキャミと水色のカーディガン。

 

 

ショックなことに、ここの社殿を引きで撮った写真がなかった😨

多分、人が少なくなってから撮ろうと思って忘れていた。

仕方がないから参考に、綾杉先生の過去のブログを貼っておく。

 

(これ貼ってたら、私が説明文書く必要性ない気になるけど、頑張って書く💪)

 

木鼻。

過去、こんな感じのお花と一緒になった狛犬は見たのだけど、狛犬なしの立体的なお花ってなのは珍しい気がする。

 

中。こちらも、太刀八幡宮同様、立派な絵馬と恵方干支盤。

 

 

 

きっとすごく大事に思われているのね。

 

祭神

宗像三女神(田心姫命・市杵島姫命・湍津姫命)

斉明天皇

天智天皇

 

37代斉明(さいめい)天皇は、その前に35代皇極(こうぎょく)天皇と同一人物。
34代舒明(じょめい)天皇の皇后で、38代天智(てんち)天皇・間人皇女(はしひとのひめみこ/36代孝徳天皇の皇后)・40代天武(てんむ)天皇の母。
神功皇后を天皇に含めなければ、推古天皇から1代おいて即位した2人目の女性天皇。


以下、境内の説明文より


別名を「印鑰(いんやく)大明神」ともいい、朝倉町で最も古い神社である。

毎年10月26日には祭礼が行われる。


 

その昔、神功皇后が熊襲を征伐し、三韓に兵を進められた時、宗像三神を祀り海路の安全を祈られ、この地に来られたといわれている。


 

この時皇后は、「神の助けによって大いに福成りぬ。」と言われたことから、福成神社といわれるようになったと伝えられている。


 

そんな、神功皇后伝承地である☀️


 

出典を見つけられなかったのだけど、ここは神功皇后以前、景行天皇が三女神を祀っていたらしい。



また斉明天皇も、百済救援の時、中大兄皇子らと共にこの神社で戦勝祈願をされたといわれている。



斉明天皇はずっと奈良の方にいたんだけど、朝鮮半島の戦争に備えて、こっちに移って来ている。
それが、斉明天皇7年(661年)、68歳の時の話。
5月9日に、朝倉橘広庭宮に遷幸とある。

この辺りの事があるから、斉明天皇をモデルに神功皇后が創作されたってな説がある。
けどそうでなくて、斉明天皇が神功皇后にあやかってここに来たと考える方が自然。
そういう説が出た当時は、神功皇后の時代に朝鮮半島進出なんてありえない!って考えだったんだろうけど、広開土王碑等の朝鮮側の考古物や文献に4世紀の日本の朝鮮半島進出は見られる事だから、斉明天皇がモデルではない。


斉明天皇は、同年7月24日に朝倉宮で亡くなってしまう。

本当にごくごく短い、2ヶ月ちょっとしか居なかったのね💦



斉明天皇が亡くなった後、息子の中大兄皇子(後の天智天皇)は白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に敗北した。

うーむ、神功皇后やここの神様にはあやかれなかったか💦



斉明天皇は病死ではなく筑紫君磐井の残党に討たれ、宮家を焼かれたと言う説もあるらしい。

バスハイクでしばらく磐井巡りをしていて馴染みがあって、こうやって色々繋がっていくのが楽しい😊


こちらの祠、小さいながらも細やかな彫刻が施されている。

 


奥には神輿休め。

 


なお、神社の東方には、謡曲で有名な「綾の鼓」の舞台となった桂の池跡があり、謡の中に出てくる「源太老人」を祀ったといわれる地蔵尊が、神社の西側にたてられている。


これがまた面白かったので、次回それだけピックアップして書く📝