No.173 春日須玖の老松神社と事代主と荒木しず姫


宮原誠一の神社見聞牒(173)
令和3年(2021年)06月26日

 

少名彦神(すくなひこ=事代主)に因む福岡県春日市須玖(すく)の老松神社二社、住吉神社についてさらなる紹介です。

 老松神社 福岡県春日市須玖南三丁目102(春日村大字須玖字竹末)
 老松神社 福岡県春日市須玖北五丁目167(春日村大字須玖字虚空蔵)
 住吉神社 福岡県春日市須玖北三丁目42(春日村大字須玖字宮ノ根)

三社は開化天皇を祀りますが、老松神社のその前の古宮の祭神は少名彦(事代主)です。
竹末の老松神社を上の宮、虚空蔵の老松神社を中の宮、宮ノ根の住吉神社を下の宮と称しています。上の宮は竹末にあり、竹末は「武末」の置き換えの地名と思われます。事代主は別名「荒木武彦」であり、竹(武)末とは武彦の末孫と意味から採られたと思っています。その竹末及び虚空蔵の老松神社の氏子さんは「武末さん」が多数おられます。大字須玖は少名彦神(事代主)の地であり、そのご子孫が古昔から住んでおられるのでしょう。

各神社の紹介ですが、特段特徴のある社殿ではありません。 しかし、老松神社はよく観察しないと、本当の祭神、本来の社殿の姿を見失いがちです。難しい神社です。

 

 

 

老松神社(上の宮) 福岡県春日市須玖南三丁目102(春日村大字須玖字竹末)

道路は狭く車の駐車の余地がありません

 

六角灯籠が両脇にあります

 

 

 

波と龍の彫刻です

 

武末さんが多数おられます

 

 

老松神社(中の宮)  福岡県春日市須玖北五丁目167(春日村大字須玖字虚空蔵)

 

 

 

 

武末、秋枝さんが多く、藤さんが6軒、荒木さんも居られます

 

 

住吉神社(下の宮)  福岡県春日市須玖北三丁目42(春日村大字須玖字宮ノ根)

梛(ナギ)の杜に社殿はあります

 

 

境内には75本の梛(ナギ)の木が群生し、神社改築のたびに建築材に用いたとのこと

 

 

住吉三神の「右三つ巴」紋です

 

 

■二系統の物部
事代主は母親の立場からみれば鴨族ですが、父親の立場からみれば物部族である、という二つの性格を掛け持っています。よって、猿田彦大神(彦火々出見命)を祖とする物部も二系あり、物部本流の宇麻志麻遅命とするもの、弟の事代主とするものの二系となります。
三重県には物部の祖・ニギハヤヒ(猿田彦大神)を祭神とする神社が二社あります。
鈴鹿市の宮司・山本氏の椿大神社(つばきおおかみやしろ)と伊勢市の宮司・宇治土公氏(うじとこし)の猿田彦神社です。どちらも猿田彦大神(大田命 彦火々出見命)の直系の子孫であると主張されています。
ニギハヤヒ(猿田彦大神)を祭神とする神社、祠の神紋は椿です。
また、猿田彦大神・彦火々出見尊の神紋は木瓜です。

 

 

猿田彦神社
宇治土公が邸宅内の屋敷神として祖神の猿田彦大神を祀っていた。
明治時代に入り、神官の世襲が廃止されることになって、屋敷神を改めて神社としたのが猿田彦神社であるという。本殿は「さだひこ造り」と呼ばれる特殊な妻入造で、千木は平削ぎの女千木です。

 

 

彦火々出見命(天磐船)の息子達は、鵜草葺不合命(天鳥船)、宇麻志麻遅命(ウマシマジ物部本流)、事代主であることも注目です。
鵜草葺不合命は本来の住吉大神で、住吉の神権を開化天皇に譲られました。

 

 

百嶋神代系譜・天忍穂耳命・崇神帝・ニギハヤヒ 神代系図

 

 

■事代主と神功皇后 及び 誉田別王と鴨玉依姫
前回のブログにより、事代主→五十鈴姫→崇神天皇 となりことを紹介しました。
さらに、崇神天皇の皇子が誉田別王(贈応神天皇)となるのです。

開化天皇を祀る老松神社を巡っていて、そこには神功皇后を祀る宮地嶽神社と事代主を祀る神社をよく見かけます。開化天皇・神功皇后と事代主がどのように関係するのか不思議でした。
さらに、福岡県北野町大城の「蚊田の宮」が誉田別王の蚊田の宮と事代主の蚊田の宮が重なることも不思議でした。
王城神社縁起に出会うことにより、ようやく解決が見えてまいりました。

 開化天皇(田中大神)・神功皇后・田中物部→事代主=荒木武彦←五十鈴姫・崇神天皇

豊姫縁起と王城神社縁起から、事代主は神功皇后と五十鈴姫と係わります。
また、蚊田皇子(誉田別王)は崇神天皇を父として、母親は神功皇后と五十鈴姫と係わります。どちらが本当の母親でしょうか。
王城神社縁起が正しいとした場合、誉田別王(贈応神天皇)の両親は崇神天皇と五十鈴姫(荒木しず姫)となります。

 

応神天皇と鴨玉依姫と十字剣
高良大社を支えられた方の紋は横幅が長いなと思われたら木瓜紋、四角いと思われたら剣花菱紋です。剣は必ず十字剣でないといけません。最初に九州王朝親衛隊長をされたのは金山彦で、熊本の山鹿地方が本拠地です、櫛稲田姫(いなだひめ)の生まれた所であり、お姉さまの吾平津姫(あいらつひめ)が誕生された所も同じ山鹿です。吾平津姫は本当の初代・神武天皇の皇后です。そして、神武天皇僭称の崇神天皇の皇后は荒木のしず姫(荒木のしずちゃん)で、福岡県久留米市荒木で、大善寺玉垂神社の東隣です。更にそれに割り込んでいる勇ましい方がいます。その代表が応神天皇です。誉田別王(ほんだわけおう)です。天皇の祖先であることには間違いありませんが、正当皇統ではありません。鴨玉依姫から金山彦の紋章・十字剣を誉田別王(贈応神天皇)にバトンタッチされたので、別王の座、兼、八幡宮の祭神の座を取得されました。

 

日本古事記、日本書記は、神功皇后の女傑武勇伝と誉田別王の出生を二章にわたって豪快に述べます。
神功皇后の武勇伝も三韓征討も「うそ」で、全ては開化天皇の事蹟とは分かっていました。誉田別王の出生は父親曖昧の神功皇后が母親であると「記紀」は記述します。
しかし、これも「うそ」でした。
誉田別王(贈応神天皇)の両親は崇神天皇と五十鈴姫(荒木しず姫)でした。

仁徳天皇(大鷦鷯尊)は開化天皇と神功皇后の皇子、応神天皇(誉田別王)は崇神天皇と五十鈴姫であり、二皇子は同世代の人です。仁徳天皇は応神天皇の子ではありません。


■八幡神について
初代八幡神 正八幡大幡主
二代八幡神 石清水八幡豊玉彦
三代八幡神 誉田別王(応神天皇)

九州の八幡神社の祭神・八幡神は、多くが正八幡大幡主です。


■宮中式内社・御巫祭神八座
豊玉姫と事代主神は式内社宮中神36座の御巫(みかんなぎ)八神にもなられ、高格な場所に祀られていて、天皇家の祖先に係わりの大きい地位を秘めておられます。

神産日神(かむむすひのかみ) 正八幡大幡主
高御産日神(たかみむすひのかみ) 高木大神
玉積産日神(たまるむすひのかみ) 豊玉彦
生産日神(いくむすひのかみ)
足産日神(たるむすひのかみ)

大宮売神(おほみやめのかみ) 豊玉姫
御食津神(みけつのかみ)
事代主神(ことしろぬしのかみ)


■大城の「蚊田の宮」
稲数天満神社横の道路が拡幅工事中で、天満神社も境内変化で改築中でした。(2021.5.23)
康保年間(964~967)に鎮座、加田天満神社は大正13年稲数天満神社に合祀されました。本殿内の左側に天満神、右側に蚊田神が祀られています

稲数天満神社 福岡県久留米市北野町稲数107

 

福岡県北野町大城の赤司八幡宮の宮崎(水沼)宮司は大幡主の流れであり、豊姫縁起では、ご先祖は誉田別王出産の折、神功皇后と係わりを持たれますが、本当は事代主と五十鈴姫の係わりであり、引いては、豊姫神社の祭神、豊玉姫に繋がっていくことが理解できました。大城の赤司の起源は豊玉姫と事代主にありました。豊姫縁起では、五十鈴姫の件が完全に隠されて消されていました。蚊田宮は事代主と五十鈴姫と誉田別王の親子三代に亘る共通する宮でした。大城=王城(おうき) です。新しい発見でした。
事代主は赤司八幡神社の境内社筆頭に祀られています。

赤司の八幡神社 福岡県久留米市北野町赤司1765

 

赤司八幡神社境内社
右から、少彦名神社(少名彦・事代主)、大三輪神社(大己貴・大国主)、池王神社(国長明神・道君首名)、天満神社、祇園神社(素戔嗚尊)


豊比咩神社がある大城日比生(ひるお)の古名は蛭尾であり、蛭尾は事代主に関係した地名です。北野町大城は豊玉姫(田心姫)と事代主が基底にあり、次に崇神天皇・五十鈴姫(荒木しず姫)・誉田別王の時代、次に開化天皇・神功皇后・豊姫(ゆたひめ)の時代と変遷があります。

日比生の豊姫神社 福岡県久留米市北野町大城(日比生)1115


本殿内部を拝見できました
2021年5月23日(日) 加田天満神社と日比生豊姫神社に写真更新のため伺いました。豊姫神社ではたった一人の氏子のおばあさんが境内、社殿の掃除をされていました。おかげで氏子さん目線での話しを聞くことができ、また色んな話をすることができました。さらに本殿内部も拝見させて頂きました。そこには現状では想像できないことがありました。豊玉姫様の導きに感謝です。次回に報告したいと思っています。



■天児屋根命と事代主を誰がどうして王城山に祀ったか?
天児屋根命と事代主に共通することは、舵取り(船長)であり、武人です。神を祀って祈願するとなれば、航海安全、武運戦勝です。これは天児屋根命と事代主に共通します。
古代の航海安全武運戦勝に関する出来事は、新羅征討、近畿東征があります。
崇神天皇の近畿東征、開化天皇の新羅征討を考えますが、時代は崇神天皇の方が一世代古くなります。王城山の王城主は開化天皇、天児屋根命と事代主に身近な人は崇神天皇となります。ここは、崇神天皇か開化天皇のどちらかということでなく、曖昧でよろしいかと思います。
また、伝教大師の最澄は遣唐使の折、船長兼博学の事代主神に航海安全と遣唐使任務達成、帰国無事を祈願されています。その事蹟が那珂川市の山王宮日吉神社、朝倉長渕(後八坂に移転)の南淋寺に残されています。

崇神天皇と事代主・荒木しず姫(皇后)親子は親族であり、崇神天皇の祖父である天児屋根命と事代主が四王寺山(王城山)に祀られていたこともあり、私にとって天児屋根命が随分と身近になりました。天児屋根命・大山咋神(親子)の子孫が緒方(尾方)家であり、ご先祖の嫁さんに朝倉田島の緒方家から来られています。田主丸町門ノ上の宮原家は大山咋神を奉斎されています。
本当に、春日(はるひ)はそこまで来ていました。

「来る春と 待ちわびつつも 去る春に」と「去る春に」とはなりませんでした。春日は留まっています。(春日はそこまで来ていますよ~♪ 2021.3.22 つれづれ)


■荒木のしずちゃん(荒木しず姫=五十鈴姫)
五年前は「荒木のしずちゃん」という意味が全く理解できていませんでした。
こうして、王城神社(おうぎじんじゃ)縁起に出会い、天児屋根命と事代主(少名彦)のことがかなり理解できました。蚊田宮が誉田別王と事代主と五十鈴姫に関係する宮とは意外でした。
そして、一気に、誉田別王の出生の秘密まで知ることができました。
これで、私のブログの目的も自分なりに果たせたかな、と思っています。
思えば、神様にずーっと導かれ、やっとここまで来れた、という感です。

今までの話は天上界の話で現実離れしていました。難しい話だったと思います。
でも、ここで本当のことを究明しないと、又の機会がいつ訪れるかわからないのです。
これからの神社界は色んな意味で難しい現実に直面することでしょう。
ウソも千年続ければ、本当になります。
藤原不比等によって作られた「記紀」の神代記は日本文化の基礎になりました。
しかし、ウソに未来はありません、限界があります。
持統天皇によって封印された古代は解除される時期を迎えました。