コロナコロナで、

気持ちがすっかり、いまのコロナがどうなっているか、

そういうことばかりにいっていたが、

考えて見ると、秀樹が死んでからもう二年たつ。

二年前の今日、2018年5月18日にこんなブログを書いた。

西城秀樹さんが亡くなられて、なんだか何かにせっつかれたように、

彼の思い出をいますぐ書かなければいけないような気がして、この文章を書いている。

5月17日のデイリースポーツは彼の死をこんなふうに伝えている。

………

西城秀樹さん死去 家族の前で倒れ意識戻らず 歌手の西城秀樹さんが16日に急性心不全のため亡くなっていたことが17日、分かった。63歳。広島県出身。西城さんの関係者によると、西城さんは4月25日に家族と一緒にいた時に意識を失い倒れて、横浜市内の病院に搬送。「20日ほど頑張った」(関係者)ものの、意識は戻らず、16日に力尽きたという。仕事の予定はしばらくいれていなかったともいい、仕事面での混乱はないという。西城さんは03年、11年と2度、脳梗塞で倒れ、右半身に麻痺が残りながらも、リハビリを続けながら歌手活動を行っていた。テレビなどでは懸命なリハビリ生活を公表することもあり、ファンからは病魔を乗り越えて闘う姿に感動の声が届けられていた。

………

彼の闘病のいろいろな話を聞くにつけ、もしかしたらいつか

こういう日が来るかも知れないとは思っていたが、

その予感があたってしまった。彼との思い出を書いておきたい。

わたしが思うに、1972年3月の西城秀樹の出現こそは、芸能界の〝黄金の七十年代〟の幕を開けた衝撃的な〝最初〟の事件だったと思う。西城のデビュー曲は「恋する季節」なのだが、この曲はスマッシュヒットに終わったが、73年の6月に発売した第5弾の「情熱の嵐」が大ヒットして、トップアイドル歌手へと成長する。

この前年に新人デビューしたにしきのあきらや野村将希が半ば演歌の色合いを帯びた歌を歌いつづけていたことを考えると、西城の出現は新しい「ポップス歌謡」ともいうべき歌謡曲の潮流の誕生であり、それが和製のロックンロールへとつながる道を作り出していったといえるかも知れない。この流れは当時大流行していた吉田拓郎等のフォークソングのブームとはまた、別のものだった。

同時期に、野口五郎は演歌からポップスに転身して「青いリンゴ」のヒットを飛ばし、郷ひろみの「男の子女のコ」でのデビューがあり、小柳ルミ子も南沙織も天地真理も、みんな、この1972年からいわゆる、アイドル歌手としてポップスを歌って大活躍を始めたのだった。どの人も青春を謳歌する歌をうたい、恋愛への思いを歌にしていた。

わたしの印象では、西城、野口、郷と三人並んだ〝新御三家〟が出来上がったとき、郷と野口は男の子(まだ子供)だったが、西城は半分くらい男(大人)に見えた。

だから、三人のなかではファンの年齢層が一番上だったのではないかと思う。

わたしが芸能記者として仕事したのは1970年の春から1982年までの13年間なのだが、最初のころ、西城、野口がデビューした当時、わたしはフォーリーブスを担当していたから、当然、担当編集者になることはなく、他の人が担当した。そのあと、わたしは郷ひろみを担当することになるから、タレント本人たちと直接仲良くなっていくのにはちょっと時間がかかったが、それぞれのマネジャーたち、西城は芸映のハタノ氏、野口はプロダクション名を失念したがコダマさんとはすぐ仲良くなった。野口、西城とも性格的にはいい人間で、とにかく一生懸命にアイドルをやろうとしていて、好感が持てた。

わたしは野口五郎とはそれほど大仕事はしていないが、週刊平凡当時の取材スケジュール帳などを見ると、回り持ちの連載企画で、[マネジャー日記・野口五郎の巻]とかなんやかんやで何回か取材している。また、はっきり覚えていないのだが、新雑誌(1975年創刊の『スタア』)でインタビュー取材をしたような記憶もある。

西城秀樹とは、これもゴローと同様に年に何度か、コメントをもらったり、写真撮影をやらせてもらったりしていたが、一番懐かしいのは、1983年の11月のヨーロッパ旅行だった。わたしはこのときはもう芸能雑誌の記者ではなく『平凡パンチ』という男性週刊誌があったのだが、この雑誌の特集デスクのキャップだった。それで、スポーツメーカーのミズノがギリシヤのロードス島で主催したロードス島マラソン参加ツアーというのがあり、ミズノのマスコミ招待旅行というか、マガジンハウスの雑誌だけを対象にした招待旅行だったのだが、業務命令があり、当時アンアンの表紙モデルだった甲田益也子と西城秀樹の二人を連れて、フランスとギリシヤに出張したのだった。

これはじつは『平凡パンチ』の取材ということではなく、わたしにとっても初めての経験だったのだが、マガジンハウスを代表してみんなを取材旅行に連れていくという話で、甲田益也子はパリで『アンアン』用の取材をして、西城秀樹は『週刊平凡』の取材でギリシアのロードス島のマラソンに参加するツァー客にまじって、10キロマラソンを走るというものだった。

どのくらいの日数のヨーロッパ出張だったか細かいことを忘れてしまったが、そういうことで西城といっしょにフランスとギリシアを旅行した。このとき、いろんな話をした思い出がある。この人も、好青年だった。月刊平凡時代から同じ職場みたいなところがあって、始終顔を合わせていたが、親しくしゃべったのはこのときが初めてだった。

西城はこのころにはすでに、若いアイドルではなく、デビューしてもう10年以上経過して、安定した人気を持つ歌手という立ち位置のタレントになっていた。ギリシアのロードス島のホテルで彼といろいろに話をしたなかで、覚えているのは、なにを話していてそういう発言になったか前後を忘れてしまったのだが、「ボクも芸人の端くれですから」といったことだった。ちょうど、それまで所属していた芸映から円満に独立した前後で、〈見かけは派手だが、考えていることは地味でしっかりした人生観を持っているな〉というのがこのときの率直な印象だった。わたしは西城秀樹はまぎれもなく時代の産んだ純正のアイドルだったと思うが、彼の場合はそれだけではなく、アメリカでいうとクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのジョン・フォガティやディープ・バープルのイアン・ギランのような絶叫型のロック歌手だったと思う。こういう歌手はそれまで日本にはいなかった。

ジョン・フォガティやイアン・ギランが不世出のロックンローラーであったのと同様に、西城秀樹もエネルギッシュにシャウトする前衛的な歌唱技法を持ちながら、突出した大衆性を合わせもつ希代のアイドルだった。そんな尖鋭的でありながら、広く性別年齢を超えてみんなに愛される歌手は残念ながらいまはいない。ヒデキは本当によく戦った。冥福を祈る。お疲れさまでしたといってあげたい。

このあと、何度か秀樹について書いているのだが、それらのブログは

いまも相変わらず、たくさんの人たちに読まれているようだ。

秀樹について書いたブログを集めたら、これだけあった。

……

https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-12382591104.html?frm=theme

https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-12382591186.html?frm=theme

https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-12387834394.html?frm=theme

https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-12390625600.html?frm=theme

https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-12390855135.html?frm=theme

https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-12392004424.html?frm=theme

https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-12396836616.html

https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-12397283366.html

https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-12397733455.html

https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-12397937405.html

https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-12405033811.html?frm=theme

https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-12405125130.html?frm=theme

https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-12405462511.html?frm=theme

https://ameblo.jp/yukiton-4030/entry-12409913829.html

ずいぶんたくさん、秀樹のことを書いていたので、本人もビックリ。

でも、いい加減なことは一つも書いていない。

……

整理して、発表順に並べた。

わたしが週刊誌で秀樹について書いていたのは、

いまからもう40年近く前だが、芸能記者時代のことである。

何度か直接インタビューして、彼の原稿を書いている。それらをもう一度、

読めるようにした。このなかには、〝いいね〟が百を超えている読みものもある。

1983年、秀樹が芸映から独立した直後に、ギリシアのロードス島でした

インタビューとか、死ぬほど懐かしい。秀樹は歌っている最中はパワフルだが

ふだん、いっしょにいると物静かで、温和な雰囲気を漂わせる若者だった。

[死者、日々に疎し]という。

人は生きるのに忙しく、いつまでも死んだ人の記憶に縛られているわけにはいかない、

という意味だ。生きていると、必ず、目の前に解決しなければならない問題が

立ち現れる。一生懸命に生きようとすればするほどそうだ。

残酷かも知れないが、わたしは、亡くなられた人について、何度も

くり返して、同じようなことを書く気になれない。

………

わたしが知っている西城秀樹は行儀のいい男だった。秀樹について、

思い出すのは、いつも彼が、抑制的に、まわりの人たちの事情を

理解しようとして、相手のいうことを黙って聞いている立ち姿だった。

私考するに、秀樹はもちろん、最初のところには、

自分の夢を追いかけた、ということがあったのだろうが、そのあとは

はっきり意識して、家族のため、支持してくれるファンのために生きる、

あまりエゴイズムの匂いのしない人生を生きた男だったと思う。

いっては悪いが、そのへんが野口五郎や郷ひろみと少し違う気がする。

五郎やひろみは好きなように生きている(ホントは違うかも知れないが)

印象がある。そういう生き方の違いも彼の寿命を縮めたのかも知れない。

秀樹の人生が悲劇的である所以だろう。

人に言えないさまざまの悩みを抱えながら、みんなに笑いと幸福感を

放射しながら生きた、そういう彼の生き様だけは、

「お願いだから、西城秀樹がそういう男だったことを忘れないでくれ」

と、あらためて特筆して書いておくだけの価値がある、

いまもそう思っている。

今日はここまで。しばらくぶりに、秀樹のことを書いた。

 

Continue.

 

★★★

 秀樹の関係の本。

 

 

 

 

この本は安くて2万6千円もする。最高値90万円。

買う人いるのだろうか。

ところで、命日の16日を発行日にして、こんな本が出ている。

一種の追悼本だと思うが、

こういう本はともすれば、死人を商売のネタにしたと

同業の出版社、編集者のひとたちから陰口をたたかれやすい。

元・主婦と生活社(「週刊女性」の版元)にいた編集者が

作った本。

 

ここまでやるのだから、奥さんや秀樹のプロダクションと

相談しながら作っているのだと思うが、読んでいないから

なんともいえない。

アマゾンでは品切れになっていることもある。

死せる孔明、生ける仲達を走らす

というところだ。

いい本だといいがと思う。