これは野口五郎さんと西城秀樹さん、ふたりの男の五十年近い、長きにわたる人生の友情の、そもそもの発端の物語である。

昨日(7月13日・金曜日)のテレビ、「中正広のキンスマ」で、西城秀樹さんについての追悼番組といっていいのだろうが、ゲストに野口五郎さんを迎えて、二人の人生を通して変わらなかった親密な友情の有り様を、映像でなければ不可能な形で描きだしていて、見ていて、とても興味深かった。

オレは本当に彼らと仲よく仕事をしたのは、いまから30年、40年前の話で、自分が芸能記者を廃業したあとのことについてはほとんど知識がないのだが、1970年から83年までの芸能界のことだったら、ある程度、わかる。

それで、実は、《珍○コ図書館》じゃなかった《沈黙図書館》の読者の方からこういうコメントをいただいていた。

 

初めまして。野口五郎さんのブログをリブログしている方のところから、こちらのページを知りました。今日は元芸能記者のユキトン様にご相談があって、書き込みをします。ご存知かと思いますが、秀樹さんが亡くなって、にわかにファンになってしまった「にわか組」、かつてファンだったけどご無沙汰で戻ってきた「ブーメラン組」が急増しています。「彼のすべてを後世に残したい」という活動をツイッターで始めた方々もいらっしゃいますが、一つの大きな流れができているとは言い難く、業界関係者に届いているのか疑問です。

全盛期にヒデキに触れていなかった方々からは、A面だけじゃなくB面も絶版になっているライブ盤LPの復刻や、彼が出演したミュージカルやNHKのドラマ(現在はオンデマンドでも見られません)、若かりし頃の雑誌の記事など、すべてを見たいという声が多いです。素人にはこれが「商売」として成立するのかわかりませんが…。秀樹さんのオフィシャルHPにはファンクラブのBBSしかなくく、自由に書き込める場所が無いので、彷徨い人は五郎さんのブログに殺到していますが、五郎ファンの情報交換の場で、「ヒデキの残し方」を語るなんて無理がありますよね。また、秀樹さんの事務所は縮小され自宅に移されたとも聞きますし、スマップの時と比べるときっとファンクラブ会員の数もさほど多くはないのと、年齢的にもムーブメントを起こすのは難しい世代なのかな・・と思ったりもします。どんな風にアクションを起こしたら、業界に声が伝わるでしょうか。なにかヒントをいただけるとありがたいです。ちなみに私はヒデキのファンクラブ会員ではありません。中三トリオと同世代なので、新御三家全盛期に中高生ではありましたが、長年別の人のファンクラブに入っていて、ヒデキのことは一般大衆として知っていただけです。なのに、亡くなってから自分でも驚くほどの喪失感を覚えてしまった「にわか組」です。

 

この問いに対する直截的な答をオレはまだ、書くことは出来ないが、ふたりがまだ若く、その物語が始まったばかりのころのことは、ある程度、記憶にある。

それでそのことを書いてみようと思った。

この話も一度で終わらないかも知れない。前編・後編に分けて書くが、最終、野口、西城、郷ひろみの三人が〝新御三家〟と呼ばれることになる〝歴史的経緯〟、西城と野口の結びつきと、それにつねに対立的に存在することになる郷ひろみとのそもそもの因縁を描きだすことができるかも知れない。

冒頭に掲げた頁はオレたちが作っていた月刊雑誌の『平凡』のなかの一頁である。

まず、今回は、ふたりの46年前のおしゃべりを読んでいただこう。

《希望対談 野口五郎・西城秀樹》

★張本人がまちがえた!?

野口 このごろ、ヒデキ、ものスゴイ人気なんだってネ

西城 ゴローちゃんほどじゃないけど、サイン会なんか開くとメチャクチャ。とてもすわっていられないんダ。

野口 ボクのファンは中学生や高校生が多いんだけど、ヒデキクンのファンは、もっと年上の人が多いんだってネ。

西城 ウン、何だか幅があるみたいだネ。自分じゃどうしてか分からないんだけど……。

野口 ボクにはわかるような気がするなー、ヒデキくんの人気の秘密が……。

西城 また、何か言いたいんでしょう?

野口 と、思うでしょ?それがシロウトのあさましさ。(笑)

西城 早く教えてョ。

野口 まずカッコイイってこと、そしてスマート、もうひとつは男らしいってこと。どう?

西城 ナーンダ。ゴローちゃんと共通していることじゃないか。

野口 残念でした。ボクには最後の男らしいってとこが、ちょっと欠乏してる。(笑)

西城 そのかわり、カワイイってとこがある。ファンは正直だネ。

野口 この間、ボクの家に遊びに来たでしょ?

西城 レコード聞かしてもらいに行った時?

野口 そう。あのとき、お母さんがホメてたョ。礼儀正しくって、とてもしっかりした人だって。

西城 よく気のつくいいお母さんだネ。一緒に生活できるゴローちゃんがうらやましいよ。

野口 ヒデキクンのお母さんは?

西城 広島にいるんだけど、これがまたよく気がつきすぎる。

野口 いいネエー。

西城 ところがダメなんだョ。広島の実家でテレビを見ていて、「タッチャン」(西城クンの愛称)が出ているって大喜びだったらしいんダ。でもよく見たらどうも違う。「青い日曜日」歌っているんダ。

野口 ボクと間違えたの? そういえばよく言われるョ、ヒデキクンに似てるって……。それにしても、気がつきすぎだネ。(笑)

西城 笑ってる場合じゃないョ。仕事でフジテレビに行った時、うしろから〝ヤッチャン〟ってポンと肩をたたかれた。

野口 またボクと間違えられたの?

西城 ところが肩を叩いた人は誰だと思う?

野口 〝ヤッチャン〟って呼ぶのは身内しかいないんだけどナア。

西城 イエース! ゴローちゃんのお父さんだョ。

野口 えっ! まずいナア。ボクをこしらえた張本人がまちがえるなんて……。

西城 お父さん恐縮して苦笑いしてたョ。(笑)でも、似てるからわが子のように可愛がってくれたンダ。

野口 それはヒドイョ。ボクのお父さんとらないで!

西城 ワカッタワカッタ。(笑)

★野口秀樹VS西城五郎

野口 このごろ、似てるって言われるからじゃないけど、どういうわけか、ヒデキクンが気になるんダ。

西城 ボクはデビューした時からゴローちゃんのいいとこ盗みつづけてきた。

野口 なんかこわいなアー。

西城 目いっぱい歌っているところがウラヤマシイんダ。

野口 ヒデキクンだってかなり……。

西城 ボクはまだカメラを意識しちゃうから……。

野口 それはボクも同じだョ。でもきょうのステージは素晴らしかったとか、もう少し動いたらいいのになアー、なんてヒデキクン見てつい思ったりしちゃう。

西城 まだギゴチないでしょ?

野口 とんでもない、すごいライバルがあらわれたと思って内心燃えているんダ。

西城 これからもいいとこ吸収させてもらうョ。

野口 それじゃあ、全部吸収しなくちゃダメじゃない。(笑)

西城 そしたらますます似てきちゃう。

野口 そのうちぼくは野口秀樹、ヒデキが西城五郎って言われるかもネ。

西城 なんか頭がおかしくなってきた。(笑)

野口 でも、たったひとつ似ない方がいいものがあるョ。

西城 なに?

野口 新人賞がもらえなかったこと。

西城 ああ、ゴローちゃんは不運だったんだネ。

野口 いや、ボクの場合はそれが実力だったんだけど、ヒデキクンは有力候補でしょ? それだけは似ないこと祈ってる……。

西城 サンキュー、ガンバルョ!

 

おしゃべりのやりとりは他愛のないものだが、このつきあいが二人が63歳、62歳になるまで変わらずにつづいたというから羨ましい。オレにも何人か若いころからのつきあいの友だちがいるが、男の友情は距離感が難しい。

この対談が載った『平凡』の72年12月号というのは、こういう表紙。天地真理、郷ひろみ、伊丹幸雄の三人がイントロダクション(表紙のタレント)を受け持っている。じつはこれも大きな意味を持っているのだが、そのことについての説明は後回し。

この雑誌の日付的なことを言うと、その年の10月25日発売で、締め切りが10月の初旬、取材は9月に行われているはずで、更に細かくスケジュールを調べると、野口五郎はすでに前年すでに「青いリンゴ」を大ヒットさせていたが、西城はデビュー曲の「恋する季節」はオリコン42位までと振るわなかったが、セカンド・シングルの「恋の約束」が18位、8月にファースト・コンサートを開催して、人気急上昇アイドルとなるとば口に立っていた。

この時期の月刊『平凡』はじつは、発行部数的なことをいうと、120万部〜150万部という巨大な部数が出版されている。最高部数の153万部は1973年の正月号(2月号)で、この雑誌の次々号である。正月号は返本率3.5パーセント、実売部数147万4千部という恐るべき数字で仕上がっている。当時の調査だが、一冊の「平凡」を三、四人の人が回し読みして読んでいたというから、読者は若い世代に限定的だが、本のなかで社会の若い人たちに対する巨大な力が働いていたのだと思う。

この雑誌の中に並ぶ企画を総ざらいしてチェックすると、1970年代の芸能界の基本構造が出来上がっていったプロセスがある程度わかってくる。詳細は次号で説明する。

 

今日はここまで。 Fin.