百恵ちゃんのことで『週刊新潮』の取材をうけた。

今週号(6月20日号)の30頁に載っている。

月刊『平凡』の編集者だったガサコ(折笠光子さん)と百恵ちゃんの話。

とりあえず、興味がある人は買って読んでください。

 

オレはひとに顔を知られたくないけど、名前は知って欲しいという、

苦しいところにいる。

顔写真の載らない取材は大歓迎なのだ。

★★★

原稿を書きつづけている。

いまの芸能界がどうやって出来ていったかという話。

たぶん、この話を書けるのはオレだけ。

昨日から今日にかけては、渡辺プロダクションの創業期の話を書いた。

 

 渡邊晋は早稻田の学生の身分で、大学の学費を稼ぎだすために見よう見まねでベースギターをマスターしてバンドマンとして演奏活動に参加した人で、もともとは音楽が大好きでというような、ジャズメンがジャズにはまり込みするような形でジャズの世界に入ったわけではなかった。

 彼のバンドには中村八大のようなピカ一のピアニストもいたのだが、彼自身は本然の音楽のことよりその周辺の演奏環境の方が気になるタイプだったらしい。

 彼は運の強い人だったのだと思う。バンドの仕事が減っていくなかで、女子大生時代からずっと学生ジャズバンドのマネジャー仕事をしてきた曲直瀬美佐(のちの渡辺美佐)と知り合い、彼女に自分のバンドのマネージメントを任せる。このときの渡邊晋の考えのなかには、大きく分けて三つのことがあったのだと思う。ひとつは、進駐軍での演奏活動、ショービジネスの経験を通して、アメリカには既に存在していて、日本にはまだない新しいタレントマネージメントの形をある程度勉強できたこと、これについてはそういうことを学習させてくれる人間がいた。この人のことは後段で述べる。そして、もうひとつは自分の音楽的才能への見切りと自分でも確実に判断の付くバンドのマネージメント仕事の概要と方向性、そして、曲直瀬美佐がもっている具体的なタレントのマネージメント技術、これらがふたりが新しく音楽プロダクションを始めるために用意されたものだった。

 渡邊晋自身はこのころの音楽の状況と自分自身について、次のように語っている。

 

 しかし、(戦後のジャズ)ブームというのは短いものだね。最盛期は二年か三年じゃないかな。二十五年はそのはしりで、二十六年から七年、八年ごろがピークだったんじゃないかな。ブームがだんだん下り坂になってきたでしょう。そうすると、マーケットがなくなってくる。ジャズマンがみんな失業してきたので、『うん、これはマネージャーが必要だな。よし、俺がやろう』と思ったわけです。それで渡辺プロを作ったんです。

 俺の、途中で覚えたようなベースじゃ、一流ミュージシャンになれないということはわかってるわけでしょう。あの当時、僕は何年か(註=ジャズメンの)人気投票でナンバーワンになっていますけど、実際のレベルというのは自分が一番わかる。進駐軍の兵士で来ていた、アメリカのジャズ・ミュージシャンなんて、大変にみごとなものだもの。とてもかなわない、これは無理だと。(と)

 

 もともとそういう思いがあったから、音楽そのもののことより、音楽の周辺のいろいろな関係性に興味を持った、ということなのだろう。このとき、どういう方向性をとればいいのかというマネージメントの基本になった思想を教えてくれた人がいたようだ。誰かというと永島達司である。永島達司さんというのは、後年はビートルズを日本に呼んだ[呼び屋]として名をはせた人なのだが、この人も出発点は進駐軍のベース。日本生まれだが、二歳の時、銀行員だった父に連れられてニューヨークに移住し、十五歳までアメリカで育った。大学はこの人も早稻田(ちなみにオレも早稻田)。ジョンソン基地(埼玉県入間にある米軍のベース)で通訳のバイトから芸能のマネージメントをするようになった人だった。学生ながら、ニューヨーク育ちの流ちょうな英語を話し、アルバイトの身分で将校クラブのフロア・マネジャーをやっていたという。永島は仕込みでやってきた日本人たちのバンドと進駐軍のスタッフのあいだを取り持つ仕込み役だった。大学卒業後、しばらくそのままジョンソン基地で働いたあと、アメリカの知人二人と進駐軍クラブに日本人のジャズ歌手を斡旋するプロダクションを創立する。

 このプロダクションというのが実は二つの機能を持っていた。ひとつは進駐軍クラブにミュージシャンを斡旋する手配の仕事(SNプロダクションと名乗った)と、その当時は進駐軍クラブを中心に歌手活動していたジャズ歌手の笈田敏夫とナンシー梅木のマネージメントの仕事(新々プロダクションと名乗った)である。最終的にこのうちのこのうちの外国人タレントの招聘業務が主要な仕事として残り、国内のタレントマネージメントは渡辺プロダクションが引き継いでいくような形になる。これが後々の有名外人タレント(海外一流アーチスト)の日本公演を一手に手がけるキョードー東京というプロモーションの会社になっていくのである。

 永島の部下に内野二郎さんという人がいるのだが、その内野さんが書いた『夢のワルツ』という本のなかにこんな一節がある。文章には[誰もが心酔した永島達司の魅力]という小見出しが付いている。

 

 進駐軍からショーの出演者に支払われるギャラは、日本の舞台とは比較にならないほど高額だ。うまく入り込めば、街ではとても手に入らない豪華な食事や酒、煙草なども手に入る。基地には日本のジャズ・バンドや歌手がひきもきらずに売り込みにやって来た。みんな必死だ。永島さんの仕事は、そうした芸能人をワン・ステージいくらで買い入れることだった。人を惹き付ける魅力にかけて永島さんは卓越していたし、それは私のような地味な人間には、光輝くような魅力に溢れて映った。当時シックス・ジョーズというバンドを率い、後に渡辺プロダクションを作った渡邊晋さんも、暇さえあればジョンソン基地を訪れて永島さんから進駐軍ビジネスのノウハウを教えてもらっていたという。(な)

 

 ここでは伝聞の形で永島達司と渡辺晋の接触を書いているのだが、はっきりとそういう証言を記述している紙媒体資料があるのかも知れない。年齢的なことを書くと、永島も渡邊晋も昭和二年の生まれで同い年だった。日本のアメリカ的なショービジネスやエンターテインメントとしての芸能のマネージメントの源泉になったのはたぶん、曲直瀬美佐が必要にかられてやっていた学生バンドの手配、仕込みと永島達司が米軍のクラブでやっていたジャズ・ミュージシャンたちへのマネージメント作業と、このふたつあたりではないかと思う。それをひとつにまとめたのが渡邊晋だったということだろう。

 

これはまだ、昭和三十年の状況。

昭和はあと、三十五年もある。終戦直後からココまでの十年間に四百字原稿用紙で計算すると七、八百枚書いているかも知れない。原稿が、どんどん長くなっていく。要領よくまとめるということが出来ない、というよりそういう文章がイヤなのだ。

今週は『週刊新潮』を読んでください。

今日はここまで。Fin.