また一人、昔の仕事仲間が亡くなった。
クマさんこと、ゲージツ家の篠原勝之さん。
撮影は三浦賢治。
ネットにこんなニュースが乗っていた。
公式インスタグラムは「篠原の体調についてご心配をおかけしておりましたが、4月17日に他界いたしました」と報告。亡くなる直前の様子について「ヒトからどう見られようと、どんな時も、今おかれている状況を面白がって、一生懸命に力のかぎりを尽くす。その在りようは最後の最後まで変わりませんでした。『残っている力をぜんぶ出しきって終わりたい』 語っていた通りに離陸(晩年、好きで使っていた言葉です)しました」と明かしました。
また、亡くなる日の朝、篠原さんが口頭で託したという「皆さまへのメッセージ」を公表。篠原さんは「ついにね、オサラバの時がきちゃったよ。いろいろ、みんなに親切にしてもらって ありがとう。いっぱい感謝して旅にいきます。アバヨ」と感謝の言葉をのこしたということです。 通夜と葬儀は、本人の遺志により行われず、20日に親近者で旅立ちを見送ったということです。
クマさんというのはこういう人。
篠原さんは、1942年に札幌で生まれ、室蘭で育ち、高校卒業前に上京。武蔵野美術大学中退後にグラフィックデザイナーとして広告制作会社に数年勤務。退職後はサラリーマンと決別するためスキンヘッドに。日雇いのアルバイトをしながら挿絵画家、絵本作家として活動。1973年〜1979年に状況劇場のポスター・舞台美術を担当し、1981年にエッセー『人生はデーヤモンド』で注目されました。
1985年には、都心のビル解体現場でガレキからむきだしになった鉄の姿に衝撃を受け、『鉄のゲージツ家』を宣言し、スクラップ鉄を素材に作品を精力的に制作。1995年からは、山梨県北杜市に作業場を構え、鉄やガラス、石などを素材に、光・風・土・水といった自然のエネルギーに呼応するダイナミックな造形の作品を制作し、国内外で制作、展示、常設されるなど高い評価を受けました。
通夜も葬儀もやってくれるなというのは
いかにもこの人らしい。84歳で身罷られた。
豪放磊落な人柄でものごとをなんでも肯定的に考えるだった。
繊細な感性を駆動させて鉄の作品を作る芸術家だった。
クマさんとは一冊だけ、わたしの編集で本を作った。
1994年のこと、それがこの本。
『天外天風 ゲージツ無頼帖〜内モンゴル熱風篇〜』
チューゴク(中国)の人たちからリクエストがあり、
内モンゴル自治区で鉄のオブジェを作った時の記録、
けっこうリアルなドキュメンタリーだった。
3,000部くらい作って、発売時2,000部位売れた。
増刷はかけられなかったが、まずまずだったと思う。
この本は1994年の発行で、このころ、わたし自身も
編集者から作家になっていく途中にいた。
1995年に『平凡パンチの時代』を上梓した記憶がある。
もし、わたしが作家にならず、編集者のままでいたら、
多分、もっとクマさんとの付き合いは深くなり、
この後も彼の本を何冊も作っていたのではないか、
わたしは編集者兼作家になってから
自分のことで忙しく、クマさんとの付き合いも
自然と途絶えてしまった。
一度だけ、山梨県の山奥にアトリエを移した時に、
彼の地を車で訪ねて行った思い出がある。
この人と知り合ったのがどこだったか、
はっきり覚えていないのだが、
わたしが雑誌のガリバーの編集長をやって、
10億円損したと言ったら、クマさんは
「アンタはえらい! それだけ損したら
なかなか平気ではいられない」
と言って、変な褒め方をしてくれて仲良くなった。
隅田川沿いのビルの一角にアトリエがあり、
花火大会の夜に招待してくれて、
特製のお稲荷さんを食べながらどんちゃん騒ぎして、
花火を鑑賞した楽しい思い出がある。
私の作った本の帯の表4側にこんなコピーがある。
錆びつき、古び、滅びていくものが美しい。
これはクマさんの思いをわたしが文章にしたものだが、
時代の中で生々しく躍動したものを記録しておきたい、
これが私と熊さんが共通して抱いていた詩想だった。
遠く離れてそれぞれの仕事をしていたが、
その思いは変わらず、ときどきクマさんのことを思い出し
元気にゲージツしているだろうかと思っていた。
⭐️
Amazonで私が編集したクマさんの『天外天風』を調べると、
4300円という値段がついていた。そもそもは1300円の本である。
今でもたくさんの人に読んでもらえたらとは思うが、
本を出してからもう30年以上経っている。
世の中にこの本が何冊残っているか知らないが、
この本も稀覯本になっていくのかもしれない。
わたしたちの営為がこういう形で歴史になっていくのであれば、
それはそれで肯定しなければならない、そんなことも考えた。
クマさんの冥福を祈りたい。
Fin.


