こんな写真もあります。

何してるのかね。

 

★★★★★★★★★★★★★★★

 

915、916で紹介した[芸映プロダクション]の6ページの最後のまとめ書きの部分。こんなふうに書いている。

 

●芸映プロダクション 音楽評論家・伊藤強さんのコメント

「歴史が古いわりに大所帯じゃない。でも、タレントはみんな第一線で活躍しています。あれくらいがプロダクションとしてもっともいい大きさじゃないですか。あそこはタレントとスタッフが本当に和気藹々とやっている。見ていてほほ笑ましいくらい。着実で堅実なんですが、反面〝大胆トライ〟というのを表面に出さない。ケチつけるとしたらそのくらいじゃないかな。まあ業界屈指の優良企業じゃないですか」

◆芸映プロダクションの概要

所属タレント11組。資本金1200万円。従業員数35名。 社長・青木伸樹 専務取締役・鈴木力

 

この記事のインタビューは1982年10月に行ったものだ。ここで、芸映ほどステキな、居心地のいいプロダクションはないと断言するようにいっていた西城秀樹だったのに、翌年、1983年にその芸映から独立して、自分の個人事務所を開いている。

いったい、なにがあったのだろうか。

 

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このころの秀樹のことを思い出すと、長くヒデキのチーフマネジャーを務めていた秦野さんは岩崎宏美に担当替えしていて、マネジャーはオレの記憶だが、清水さんという人が付いている。この人は、オレはそういうヒデキとの関係を知らなかったのだが、ヒデキが上京して、芸映に所属することになる前、芸能界の名物男のひとりだったのだが、のちに安西マリアのマネジャーになる上条さんという人がいて、この人がヒデキを広島で発見した張本人なのだが、上条さんのところで下宿していたころ、内弟子として同居生活を送った人だった。清水さんは温和で、秦野さんのようなムチャクチャをいってヒデキを引っ張っていくようなやり方の人ではなかった。事務所が秦野さんをヒデキから岩崎宏美に担当替えしたのは、いま、スケールの大きいマネージメントが必要なのは、ヒデキよりも宏美という判断があったのだと思う。

1983年の秋はオレがヒデキといっしょにギリシア旅行をした年で、たぶん、これが独立直後の仕事だったのではないかと思う。ヒデキは、事務所とケンカしたというような話でもなく、将来はこうしたいああしたいというような、いろいろな夢を語っていた。

芸映からの独立の経緯について、著書の『ありのままに』のなかでは、こんなふうに書いている。同書の87ページからの引用である。

 

所属事務所の芸映から独立し、自分の事務所を開いたのは二八歳のときだった。

「そろそろ独立して、経営のほうも勉強して見たらどうだ?」

当時所属していた、芸映の社長がこう言ってくれたからだ。

「もし社員が必要なら、うちの会社から出向させてやろう。三年間はうちの傘下という形で、四年目から完全に独立すればいい」

こうしてなにからなにまで用意してもらい、ぼくは歌手であると同時に、青年経営者になったのである。

「所属事務所から独立すると、芸能界から干される」

こんな話も芸能界ではささやかれていたが、僕の場合は独立後も仕事に恵まれた。

しかし、経営に関してド素人のぼくは、わからないことだらけ。最初の三年間は、軽いうつ状態になったほど事件やトラブルが続発した。頼りにしていた近しい人にお金を持ち逃げされる事件もあった。(略)

高校一年で上京し、いきなり芸能界に飛び込んだぼくだが、この辺で社会勉強をしっかりしなくてはいけない。お金に対して、もっと真剣に、慎重に向き合わなくては。ぼくがしっかりしなくては、ここまでついてきて来てくれたスタッフにも申し訳ない。

ぼくは仕事の合間を縫って、財務や会計の勉強を始めた。それまでお金で苦労をした分、必死だった。おかげで今では、経理のスタッフが倒れても大丈夫。お金に関しては、ぼくは三〇代でちょっとした企業経営者に負けないぐらいの知識は身につけたつもりだ。

 

これを読んで、私がすぐに思いだしたのは、昔、15年ほど前にオレが書いた作品なのだが、『KUROSAWA』という本があるのだが、そのなかで書いた映画監督の黒澤明さんの東宝からの独立の経緯だった。黒澤さんも、昭和34年のことだが、長く所属していた東宝から、無理やり独立させられて、『黒沢プロダクション』を創設、というか、作らされるのである。

その間の事情をオレは『KUROSAWA』の第2巻[映画美術編]の92ページに紹介しているのだが、資料の『映画年鑑1960』のなかで、こんなふうに説明されている。

【藤本取締役の進退伺い事件】とタイトルを付けた次のような記事である。

 

(東宝)製作担当取締役藤本真澄は『隠し砦の三悪人』(黒沢明監督)完成遅延の責を取って、58年12月23日、清水社長に進退伺いを提出した。しかし、清水社長は「過去はいっさい問わず、こんご再びこの種の問題を起こさないよう方法を考究する」ということで進退伺いは却下となったが、この問題の背景が日本映画全体におよぼす影響多大と話題を投げたものである。

黒沢監督の『隠し砦の三悪人』は、58年5月撮影開始、8月いっぱいで完成、製作日数100日間、撮影実働日数83日間、制作費9千万円(封切りは11月第1週)という予定であった。ところが、撮影開始から完成まで実に8ヶ月、製作日数201日、実働日数は147日という大遅延となり、しかも製作費は1億9千5百万円という日本映画界では破天荒のものになった。(略)

したがって、販売原価は製作費1億9千5百万円、宣伝費2千万円、プリント費(116本)1千7百万円、配給費3百万円、合計2億3千5百万円となり、これも日本映画では未曾有のものであった。これに対する配給収入は販売原価の回収が精いっぱいだといわれた。

ここで問題点は(略)「あのようなやり方をされては、映画界全体に影響して困る」という声であった。しかし、黒沢監督には一片の悪意もない。むしろ、会社の営業に貢献するよう娯楽大作を作ろうという、きわめて善意から出発したのであるが、ロケを主体とした同作品が天候に恵まれなかったのと、黒沢監督特有の芸術的良心からくる凝り性に原因があった。(略)映画は商品である以上、経済を無視しては成り立たないということから、森専務(森岩雄)を中心に今後のあり方を検討した結果、59年1月20日、プロフィット・シアーリング(利益分配性)による株式会社「黒沢プロダクション」の設立を決定。黒沢作品は、東宝の別枠に置くことにした。

 

 要するに、予算を守って、計算の立つ映画作りをしてくれ、という話なのである。予算はいちおう立てるが、それが途中でグチャグチャになって、オーバーしてしまう。そういうことがあると、映画監督はしばらく映画をつくらせてもらえないのだが、東宝も〝天皇〟という異名まである黒沢明に対してはさすがに「もう仕事させない」とは言えない。それで、独立採算制にして、もうけを監督と会社とが歩合で分ける、という提案をするのである。もう少し、利益のことも考えてくれという話だ。

たぶん、秀樹の音楽活動でも同じようなことが起こっていたのではないかと思う。

 

なぜ、オレがヒデキの独立話を、アッ、これはコストパフォーマンスの話だなとピンときたのかというと、じつは、オレも黒澤監督と同じで、まことにお恥ずかしい話だが、予算を守って本を作るのが下手な編集者だったからだ。編集長だった『ガリバー』という雑誌を作っていたときは、イタリア特集を作って定価500円で10万部売ったが、これの編集製作費に4900万円かかっていて、いくら売れても赤字の雑誌を作ってしまったし、『平凡パンチ』で韓国特集を作ったときは、2週間発売の合併号一冊で2700万円の編集費を使った。通常号の一冊の編集費は1300万円だったと思う。これはもちろん、オレひとりで使ったお金ではなく、編集部全体のかかりだったのだが、いずれにせよ、完売したり、販売率99パーセントを記録しても、会社はあまり儲かっていなかったり、売れたと騒いだわりに赤字だったりしていたのである。

要するに、コスト感覚がちゃんとしていないのである。これはいまでもそうかも。

 

たぶん、ヒデキも同じようなところがあったのだろう。とくに、秦野さんと組んでいると、話がドンドン大きくなってきて、「それじゃあ、コンサート会場にヘリコプターで舞い降りちゃおうか」みたいなところにいってしまう。このパフォーマンスは確かに人を驚かせて話題になるが、莫大な費用がかかる。それもあって、芸映は秦野さんとヒデキを分けたのかも知れない。

雑誌作りだったら、こういうことが起こると、編集長を辞めさせればよく、そういうわけでオレはキナさん(副社長。木滑良久さん)から「シオザワ、10億円損したから編集長辞めてくれ」といわれて、オレは編集長を首になり、雑誌も休刊することになったが、黒澤明さんやヒデキの場合は人間なのだからそういうわけにはいかない。自分で収支感覚を身につけて、ビジネスとして黒字にしていく仕事の仕方を身につけるしかないのである。たぶん、ヒデキの独立はそういう性格の話ではないかと思う。

 

黒澤さんの『隠し砦の三悪人』はけっきょく、正月に公開されて、大騒ぎになる。

こんな記述が残っている。

 

(東宝は)59年正月は五プロ九作品の陣容で臨んだが、第1週に公開した「隠し砦の三悪人」が全国的に大ヒットし、9億5百39万配収(ブッキング一万八二九〇)をあげ、配収、ブッキングともに前年正月の番線内総収入3億4千264万2千円は戦後における、東宝配給作品の最高配集記録でもある。

 

予算がどうこうとか言っていないで、力のあるクリエーターが思いきりいい仕事をしようと考えれば、金はかかるが、話題になり、それに見合うだけの収益をもたらす作品を作れるのである。この話はそういうとの実例だが、予算を守って短期間で作りあげたら、もう一本、映画を作れたじゃないかという反論もできる。

 

タレント活動も同じで、前号のプログで掲載した芸映の鈴木専務の話でも、「コンサートは赤字だけどやるんだ」という話をしていた。ヒデキになんとなく巨大なイメージがあるのはそういう損得だけで仕事をしないスケールの大きいマネジメントが一役買っているとは思うのだが、それにしても、何万人と集まるコンサートなのだから、黒字にして、利益を生み出す形にしなければ企業活動としては健康な状態とは言えないだろう。

ヒデキ本人がコスト感覚を身につけて、お金の使い方を工夫すれば、もっと利益が出せるのである。芸映から独立するのはデビュー10年後の1983年、彼が28歳のときの話だが、彼の独立劇は円満退社で、ある意味、非常に幸福なことだったと思うが、新しい試練への挑戦であることに違いはなかった。名実ともに[大人の芸能人]として、仕事をしていく時期が来ていた、ということなのだと思う。

 

以上。この話、終わり。

 

またしばらく、沈黙図書館は休館します。

また1週間くらいしたら、なにか書きます。

テレビでのヒデキの扱いがおかしいのではないかというような話についてのオレの考えもそのうち、書きます。テレビは視聴率の走狗、そう考えていた方がいい。

それにしても、この写真、なんだろうね。

Fin.