1975年の郷ひろみくんのジャニーズ事務所からの独立劇は、オレのなかでは何十年もにわたって解明できない謎の一つだった。このあいだまで、あのことは郷くんが9割りくらい悪い、彼のわがままだと思っていた。

そのことが、そうかそういうことだったのかと腑に落ちたのは、二年ほど前に週刊新潮で西城くん、野口くんと三人で集まって話をしている座談会を読んでからだった。そこで、郷くんは「ぼくは若い頃、二人に対してコンプレックスを持ちつづけていた」と発言していたのである。それを読んで、オレが分かったと思ったのは、あの頃の彼は、こちらが考えていたように、自分に自信を持っていたのではなく、むしろ、野口くんや西城くんのように優れた歌唱力がないことにコンプレックスを持っていつも劣等意識に苛まれていたということだった。

この言葉をきっかけにして、オレはいろんなことが分かったと思った。彼はおそらくジャニー喜多川さんが作り上げた[郷ひろみ]というスーパーグレードなイメージのアイドルに対して、ぼくにはそんな力はない、実力がないのにトップに祭り上げられてしまったと、実力とイメージのギャップに苦しんでいたのだ。人気はあるが実力はない、そういう現実のなかで生きるタレントは苦しい。たくさんのそういう芸能人たちが時間のもつ冷酷な淘汰のなかで姿を消していった、そういうこともわかっていたから、彼はいたたまれなかったに違いない。

それに気がついたとき、オレは郷くんがジャニーズ事務所をやめようと考えた、真の理由がわかったと思った。郷くんの両親はジャニーさんにまつわる悪い噂とか、事務所が会社組織の体をなしていないことに対しての不満とか、そういうことで、よその事務所に移った方がいいと考えたのかもしれないが、多分、郷くんの本音は、実力ももともとそんなにないのに自分は幸運なデビューをしてしまった。そのことに対して自分は必ずしっぺ返しされるだろう、と考えて、どうしようかと悩んでいたのだと思う。

ジャニーズ事務所を辞めた後の[郷ひろみ]の戦いは、《原武裕美》という素の人間がジャニー喜多川さんが作り出した《郷ひろみ》という虚像とどう戦い、それをどうやって乗り越えるのか、それへの挑戦だったのではないか。それはジャニーさんと敵対していたというより、素質と容貌に恵まれた一人の若者がジャニーさんが作り出した【郷ひろみ】というスーパーアイドルなイメージと格闘しつづけた、ということだったのではないか。そういう気がする。そのことに気がつくと、ジャニーさんが自分のところから出て行ったあとの郷くんに対して、あまり憎しみを持たず、案外優しかったわけもなんとなくわかる。ジャニーさんにも、[郷ひろみ]というタレントを完全なアイドルとして作り過ぎてしまったという反省があったのではないか。

オレは遠くからだが、40年以上にわたってジャニーさんと郷くんのやっていることを見つづけてきたのだが、ジャニーさんも[郷ひろみ]以上の、ダミーの人形のようではないアイドルを作り出そうと必死で考えつづけ、郷くんは郷くんでジャニーさんの作り出した[郷ひろみ]を、つまりそれは自分をということなのだが、乗り越えようとしてきたのではないか、という気がする。

これは新御三家のひとりである、ということについても同じで、どうすれば、虚勢のアイドルから野口くんのように歌唱に優れた歌手として存在できたり、西城くんのようにエネルギーに溢れた存在であり得るのかを、必死になって模索しつづけてきたのではないかと思うのだ。それでなければ、長期休暇をとって、ニューヨークに発声の勉強にいくなどということはしないだろう。彼は要するに、ジャニーさんがつくった[郷ひろみ]を徹底的に自分の考えているような郷ひろみに作り変えようとしたのだ。

ジャニーズ事務所を離れてからの郷くんとオレは(彼がバーニングに移るのに前後して、オレも雑誌の編集部を移動になった)、職場で顔を合わせても挨拶もしない、冷えた間柄になった。もうだいぶ前のことだが、夜中に女房と二人でキャンティに食事に行ったら、隣のテーブルで郷くんと二谷友里恵さん(昔の奥さん)が口喧嘩していたりしたが、相変わらずバカだなくらいにしか思わなかった。これは、オレに言わせれば、いくら子供の頃からの知り合いでも、別に用事もないし、仕事の関わりもないのだから、それでいいと思っていた。オレがあのときの彼が間違った選択をしたと考えていることを、はっきりと分かるようにした方がいいとも思った。郷くんの方もおそらくオレのことを、人の事情も知らないでなに言ってやがるみたいな反感を持ってみていたと思う。

オレの方からは、郷くんは新御三家のなかでも〝飛び抜けて熱狂的なファンを持っていて、立ち居振る舞いもエネルギッシュ〟にも見えたが、郷くん本人は、自分を野口くん、西城くんと見比べて、いろいろな違いに気が付いて劣等感に苛まれていたのだった。オレはそのことをあらためて知った。それを逆に、野口くんと西城くんは郷くんのアイドルとしての天性のカリスマみたいな輝きをうらやましいと思いながら見ていたというから面白い。

 

付録のような形になるが、西城くんと野口くんについても書き添えておこう。

西城くん、野口くんがデビューした当時、わたしはフォーリーブスを担当していたから、当然、担当編集者になることなく、他の人が担当した。そのあと、郷くんの担当記者になるから、タレント本人たちと直接仲良くなっていくのにはちょっと時間がかかったが、それぞれのマネジャーたち、西城は芸映のハタノ氏、野口はプロダクション名を失念したがコダマさんとはすぐ仲良くなった。

これは先日の西城秀樹さんの追悼記事でも書いたが、オレは野口五郎くんとはそれほど大仕事はしていないが、週刊平凡当時の取材スケジュール帳などを見ると、回り持ちの連載企画で、[マネジャー日記・野口五郎の巻]とかで取材している。また、それとは別にこれはなんの取材で時間をもらったのかわからないが、1982年の2月18日の午後2時から2時間、彼の時間をもらってインタビュー取材している。

西城くんとは、これもゴローと同様に年に何度か、コメントをもらったり、写真撮影をやらせてもらったりしていた。三人を比較すると、野口くんは歌オタクと前述したが、[歌の求道者]と書いてふさわしいような一途な歌手だったと思う。郷くんは逆に自己表現ということに徹底的にこだわって、自分の可能性を追求しようとしたタレントだった。彼についての見方が変わっていったのは、郷くんがテレビで、55歳になったことで、余計勢いづいて面白がって「ゴーゴー!」とやっているのを観て、コイツもやっぱり芸人だな、と思ったことからだった。

そしてヒデキだが、先日の追悼記事で、オレは彼のことをディープ・パープルのイアン・ギランやクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのジョン・フォガディのような不世出、希代の絶叫型ロックンローラーだったと書いたが、それとは別に、彼ほど自分のまわりの弱い人たち、スタッフや新人歌手の人たちを思いやる、優しい人間はいなかった。同じ事務所だった岩崎宏美、川合奈保子、浅田美代子らはヒデキの熱狂的なファンだったし、山口百恵や松田聖子まで本当はヒデキのことが好きだったという。自分が下積みで苦労した分、人を思いやる男だった。

ここの部分から愛称で書くが、ヒロミはジュリーやヒデキ、ゴローのように歌唱力を磨き上げて歌の完成度を追求して、聴く人たちを感動させようとする歌手ではなく、ステージやテレビメディアの前で繰りひろげる一挙手一投足のなかでなにか、生きることに関わるメッセージを表現しようとする芸人なのだ。歌も昔に較べればずいぶんうまくなったが、むしろ、それより、生き方を見せつける、ビートたけしや堺正章などと同じようなタレントなのである。

そのことに気が付いたあと、オレが彼の歌のなかで一番好きな「哀愁のカサブランカ」をあらためて聞き直してみた。何十年か前に聞いたときには、本歌のバーティ・ヒギンスが歌った歌の方がいいやと思ったが、あらためて聞いた彼の「哀愁のカサブランカ」は心にしみた。

 

 抱きしめるといつもキミは洗った髪の香りがした

 まるで若すぎた季節の香りさ 結ばれると信じてた

 セピア色した映画が好き やさしくて悲しい愛があるから

 スクリーン見つめて濡れたその頬を ボクの肩に押し当てていたね

 風吹く胸が探してる きみのためいきぬくもり

 ブリーズカムバックトゥミー もう二度とあんなに誰かを愛せない

 

という歌である。若く、心もまだ汚れていなかったころの自分に引き戻される。

それにしても、当たり前のことだが、今年、オレが70歳になったら、新御三家は63歳になってしまった。それがどうしたといわれると困ってしまうのだが、15歳の中学三年生が48年生きて63歳になった、そしてひとりは亡くなってしまった。それを思うとなんだかため息でもつきたくなる。当たり前のことなのだが、自分も含めて、人間はこうやって成長し、変化し、年老いて死んでいくのだなと思う。そんな無常なことをあれこれと考える。

そして、そんな思いのなかで、長い時間がかかったが、わたしは初めて郷ひろみという人間の生き方が少し理解できるようになったような気がしている。彼もやはり、自分という精神の荒野を疾走しつづけるチャレンジャーのひとりだと思う。ヒデキが死んで、新御三家は永遠に失われてしまったが、このあと、ヒロミとゴローにはヒデキの分までがんばって、元気で活躍してほしいと願っている。

 

  今日はここまで。 Fin.