資料を探していて、偶然なのだが、西城秀樹さんがいまから10年くらい前に「週刊朝日」に連載していたエッセイ【秀樹とヒデキ】のスクラップを見つけた。

自分の父親の思い出話と[結婚問題]について、あれこれとおしゃべりしている。これも彼がしゃべったものを誰かがまとめたのだろうが、こういう内容のものである。

 

僕の父は事業家で、手広くいろいろな仕事をしてた。もともとが商売人の家系だったんだけど、僕はご存知のように音楽の世界に行ってしまったし、兄も姉も家業を継がなかった。でも、きょうだいはみんな、父から大きなものを受け継いだと思う。

僕が音楽をはじめたのだって、父がギターを弾いていたからだ。子供の頃に当時まだ珍しかったステレオ・セットがあり、いつもジャズが流れていた。そんな家だったんだ。おかげで小学校3年生の頃からギターをはじめ、その後がベース、最後にはドラムをやって、兄や兄の友人たちとバンドを組んでいた。父もそんな僕を応援してくれ、楽器を買ってくれたり、音楽スクールにも通わせてくれたりした。

そのうちに、僕もぼんやりと、音楽で食べていけるといいなと考えるようになった。ビートルズの影響もあって、しまいには「絶対にロンドンで音楽をやるんだ!」と思い詰めるようになっていったんだ。

ところが、いざ音楽の道に進もうとしたら、父は突然、大激怒。「趣味でやるのはいいが、音楽なんかで生活していけるわけがない。ホームレスにでもなるつもりか!」と、がんとしてクビを縦に振らない。

父はつくづく戦前の人間だったんだ。誰に対してもはっきりとものを言い、一度言い出したら絶対に意見をまげることはない。結局、父の反対を押し切って上京してしまったけれど、月日がたつにつれて父の怒りもとけ、「じゃあ、息子の様子を見に行ってみようか」ということになった。

ところが、僕が居候していたみすぼらしい3畳間を見たとたんにまた怒りが再沸騰。「こんなところに息子は預けられん」と怒鳴って、無理やり僕を広島に連れ戻そうとした。あのとき必死に抵抗しなかったら、その後のヒデキはなかったわけ。

頑固者でわからず屋の父だったんだけど、おちゃめなところもあった。僕がデビューしてまもないころ、広島の自宅で一緒にテレビを見ていたときのことだ。画面に映った森昌子ちゃんを見て、なんて言ったと思う? 「おいおい、この子いいんじゃないか? 結婚相手にどうだ?」そう真剣な顔をしていうんだ。芸能界にいる人間は、みんな知り合いだと思っていたらしい。僕が驚いて「ちょっとちょっと、おやじ、この子まだ14歳なんだから……」

すると、父は残念そうな顔をしたけど、また思い出したようにこう言った。「そうか。じゃあ、水前寺清子さんはどうだ?」。唖然。それはそれは水前寺さんは立派な人だけど、なんといっても僕より10歳も年上だし……。父は水前寺さんのことをずいぶん気に入っていたらしく、晩年になってからも何度も何度も同じことを言われた。

そんな父が亡くなったのは99年、「寺内貫太郎一家」の舞台が千秋楽を迎えた日のことだ。危篤の知らせを受け、舞台を終えるや、飛んで帰ると、まるで僕の到着を待っていたように逝っちゃった。僕にとって家族の死に遭ったのは初めての経験で、大きな衝撃だった。でも、父がいなくなったことで、自分が父のDNAを受け継いでいることを強く意識するようになったのも事実だね。

それにしても、死ぬまで僕の結婚相手を心配してくれていた父に、妻や子どもたちを見せてやれなかったのはつくづく残念。でもよく考えると、妻は僕より17歳年下だから、僕が父と森昌子ちゃんのテレビを見ていたときには、まだ彼女、生まれていなかったんだよね。ヒデキ、ビックリ。(「週刊朝日」2008年1月25日号 42頁)

 

週刊朝日の日付は2008年1月25日で、2011年の脳梗塞が再発する3年前のことなのだが、このあと、彼が作った本というと2012年の「ありのままに」になるのである。それで、週刊朝日に書いてあったことが、そのあと、「ありのまま」を編集するのにどう使われていたかを知りたくて、同じ[結婚問題]について書いた部分を調べてみた。

 

デビューしてからは、仕事で広島方面に行くとき、時間の余裕があると実家に寄っていた。二五歳の誕生日を迎えた日も、たまたま広島にいたので両親と一緒に過ごすことにした。実家で夕食を食べたあと、父親がちょっと改まった声でぼくに聞く。

「おまえ、結婚しないのか?」

「ええ〜、ぼくまだ二五だよ」

「まだ二五じゃない、もう二五だろう。早く結婚しなくちゃだめだよ」

父ばかりか、結婚についてはマスコミの人からもよく聞かれていたので、正直言ってうんざりだった。結婚願望がなかったわけではないが、「いつか、いい人と出会ったら」ぐらいに、軽く考えていた。毎晩のように友だちと飲み歩くのを楽しみにしていたぼくにとって、「結婚」の優先順位はたいして高くなかったのだ。

「どうなんだ? だれか好きな人はいないのか?」

父がまた聞いてくる。

「結婚なんてまだ考えてないよ」

そう言っても父は引き下がらず、こんなことを言ってきた。

「芸能界にはいい人がたくさんいるだろう。森昌子ちゃんなんかどうだ?」

どうやら父は昌子ちゃんが気に入っていたらしい。

「昌子ちゃん、すごくいい子だよ。でも、彼女にもぼくにも好みがあるし、それが一致しなければどうしようもないでしょ?」

ぼくのこの発言は、頭から却下された。

「好みなんか関係ないんだ! 結婚していっしょに暮らすうち、だんだん相手のいいところが見えて好きになっていくんだ」

と、もうめちゃくちゃ。ぼくがいつまでも抵抗していると、父は別の名前をあげた。

「じゃあ、水前寺清子さんはどうだ?」

まったくもう! ジャズ好きオヤジのくせに、なんで息子の結婚相手は歌謡界の人しか浮かばないんだ。

この日の会話はこれで終わったが、ぼくの両親は作戦を変えてぼくを結婚させようと企んだ。あるとき、ぼくが実家に帰ると、見知らぬ女性が台所に立っている。ん? 怪訝な顔をしているぼくを見て、母がこう言った。

「今日はこのお嬢さんが料理をつくりに来てくれたのよ。美味しいから一緒に食べましょう」

要するに、手料理つきのお見合いをさせようというわけだ。それも一度や二度じゃない。こんなことが何度も続いたので、ある日ぼくは怒りを爆発させた。

「ああいうことは、もういっさいやめてよ。今のぼくは結婚する気もないし、結婚するときは自分で選んだ人とするから」

その後、両親はお見合い作戦を止めてくれたが、ぼくの結婚を今か今かと待ち望む気持ちは変わっていなかったようだ。

父は一九九九年、咽喉がんでこの世を去ったが、その少し前、「これを見逃すと、もうおまえのショーを見られないかもしれない」と言って、ディナーショーを見に来てくれた。看護婦さんがつき添い、点滴を打ちながらショーを見てくれた父を、終了後エレベーターまで見送ったのだが、ドアが閉まろうとする瞬間、それまでだまっていた父がか細い声でつぶやいた。

「おまえ、結婚はまだか……?」

結局、妻となる美紀と出会ったのは、最期までぼくの結婚を気にかけていた父が亡くなってから半年後のことだった。(「ありのままに」89頁)

 

読み比べて、すぐに分かることだが、週刊朝日ではお父さんがヒデキに森昌子との結婚話を持ちかけたのがデビューしてまもないころ、となっている。ヒデキがデビューしたのは1973年のこと。同じ話なのだが、「ありのままに」の方は、父親が彼に森昌子との結婚話を持ち出したのは25歳の誕生日を迎えた日、ということになっている。ヒデキは1955年生まれのはずだから25歳の誕生日というと、1980年のことである。

歴史的な資料の内容が食い違っている。そんなことどうでもいい、という話にしてしまうと、オレが書いているこの原稿自体がどうでもいい原稿になってしまうから、そう考えるのは止めなければいけない。歴史資料が捏造された、というほどのことではないが、これでは後世、ヒデキの伝記を書く人が困ってしまう。それで、オレはあれこれと推理したのである。

まず、本人が適当に話を盛ってウソをしゃべっている可能性だが、オレはそれはないと思う。週刊朝日と「ありのままに」の時差は3年間なのだが、3年のあいだに、本人が17歳のときの話を25歳に作りかえちゃおうとは思わないのではないか。

何度も読んでいると、「ありのままに」の方はけっこうシリアスなお見合い話なども出てきて、これはリアルな話かも知れないなと思わせるが、週刊朝日の方はデビユーしたばかりのころで、本人でさえ18歳、森昌子ちゃんの方は14歳なのだから、話はこっちの方が面白いけど、18歳のムスコに向かって14歳の女のコを結婚相手にどうだというのはちょっと話に無理があるのではないか。週刊朝日が書いていることに合わせてものを考えると、たぶん、父親がデビューしたばかりの森昌子を見て「この子、可愛いね」と言ったことぐらいはあるのだろう。それと、後々の結婚相手選びとがくっついていったのではないか。週刊誌は、ついつい話を面白く書き換えてしまうものなのである。

それでも、この週刊朝日の記事を紹介したいと思ったのには理由がある。ヒデキの話はいつも明るい調子で、ふだんはどんなことでも気楽な、軽い調子でしゃべっていた、それを思い出したのである。「ありのままに」でもそうだが、病気になった後の彼は、少なくとも剽軽で、オレはお気楽モンだよ、みたいな素振りは売りにしなくなった。昔は本当は繊細な心根の持ち主のクセに、みんなの前でバカな男のふりをしてみせ、笑いをとろうとするような、三枚目のところがあったのである。

週刊朝日の記事のなかには、大昔の、明るく楽天的だった彼がまだ、少しだけだが息づいていた。それをみんなに読んでもらいたいと思って、この記事を書いた。

 

今日はここまで。

Fin.