黙黙改過
凡情(はんじょう)の裏(うち)に
人事天命
天に事(つか)うるは、天と二たりといえども、然れども已に真に天命のあるところを知り、但だ惟だ之を恭敬奉承するのみなり。之を俟(ま)つと云う者の若(ごと)きは、則ち尚お未だ真に天命の在る所を知る能わすして、猶お俟(ま)つ所有る者なり。
一曲入魂
相親しみ比するの道、
心より発せずしてこれを言に発し、
己よりせずして人に求むる、
皆 自が徳を失ふ者也。
三輪執斎が、その著書『周易進講手記』の中で水地比の2爻(こう)の象伝「之に比するに内よりすとは、自ら失わざる也」という言葉の意味を解説をした文章です。「比」という漢字は、人が二人並んでいる姿を表しており、人と人が相親しみ、相輔(たす)けるという意味があります。
人と人が相親しみ比する道というのは、心にも思っていない事を言葉にしたり、自分でやろうともせず人に求めたりする。これでは自分が徳を失ってしまう。(よって相親しむ事など出来ない)
◆ 徒然日記
1983年に公開された台湾映画『搭錯車』は、記録的な観客動員数となり、中国、香港、東南アジアでも大ヒットしました。この映画の魅力は、台湾人の心を揺さぶる音楽がテーマとしてストーリーの中に盛り込まれたミュージカル映画という形態になっていることです。この映画の監督である虞戡平は、映画のイメージに合う歌って、踊れて、演技もできるという女優が見つからなかった為、女優が演じる役の歌の声を担当する歌手を別に探すことにしました。監督が目をつけたのは、嘗て台中の米軍キャンプの合唱団に所属して歌を歌っていた蘇瑞芳(ジュリー)という女性でした。当時、台湾のあちこちには、ビアノバーがあり、歌手を目指す若者は、芸能プロダクションの目に止まる事を期待してそこで歌声を披露するケースが多かったのですが、蘇瑞芳は、ピアノバーには、寄り着こうともせず、三十路を超えてもメジャーデビュー出来ない状態でした。映画監督は、嘗て米軍キャンプで耳にしたそんな彼女の歌声を覚えていて、全く無名の三十路を超えた新人を起用するという前代未聞の抜擢をしました。そして、彼女は、米軍キャンプの合唱団で使っていたジュリーという名前を「蘇芮(スーレイ)」と改めて、メジャーデビューすることとなりました。映画の中で披露された彼女の歌声は多くの人の心をとらえ、彼女を押しも押されぬ実力派の歌手へと導きました。彼女は、常に歌の心を大切にし、メジャーデビューの為に媚びるということを一切してきませでした。そんな彼女のこだわりを示すエビソードがノンフィクション作家の鈴木明氏の著書『台湾・香港・韓国 響けアジアの鼓動(サウンド)』で紹介されていますので、以下に引用させて頂きます。
「ピアノ・バー」の特徴は、まず、「自動リズム楽器」と称する電動機が置かれていて、そのリズムに合わせてハモンドや電気ピアノが伴奏をつけ、歌手はこのテンボに従って歌う、ということである。
「歌のテンポは、機械が決める」
これがまず、何よりも彼女の心が許さなかった。歌は心から心へとある情感を訴える声のメッセージである。あるときは遅く、あるときは速く、あるときはささやくように、あるときは叫ぶように、自分の感情を叩きつけてこそ、「歌」というものではないか。
ところが、「ピアノ・バー」は、「電気による寸分も違わないテンポ」が歌を決定する。こんなことでどうして「メッセージ」が送れるのか!
彼女は「自動リズム機」を「悪魔の機械」と呼んだ。客の方も「歌」はそのサロンの「添えもの」にすぎず、熱心に聴いてくれる客などはどこにもいなかった。彼女の眼からみれば、「台湾の歌は死んだも同様」なのであった。
彼女は店の主人に投げつけるように、こういった。
「私は、悪魔と一緒に歌うことはできない」
『台湾・香港・韓国・・・・響け!アジアの鼓動』鈴木 明 著より
台湾映画『搭錯車』の最後の一幕
https://m.youtube.com/watch?feature=youtu.be&v=_hTndOdXL6w#dialog
明朗快活
九川病に虔州に臥す。
先生云わく、病物は亦(ま)た格(ただ)し難し。
覚り得ること如何と。
対(こた)えて曰く、功夫(くふう)甚だ難しと。
先生曰く、常に快活にするが、便(すなわ)ち是れ功夫なりと。
『伝習録』の中の言葉です。王陽明の思想を学んでいた陳九川が虔州で病気になって療養していました。この文章は、お見舞いに行った王陽明と陳九川の会話です。
「病気の時というのは、自己修養が難しいものですが、何か覚ったことはありますか」
「なかなか修養は難しいですね」
「常に快活でいること、それこそが自己修養になるんですよ」
◆ 徒然日記
手相占いは、手の相を見ますが、足相占いをする人もごく稀にいます。昭和30年代から40年代にかけて足相術で運勢鑑定をする今泉天心先生という方がいらっしゃいました。今泉先生の持論は、「足と健康と運勢は、三位一体である」というものでした。
全身を支えているのは足である。歩く、座る、寝る、立つなどの日常生活において足の狂いは、そのまま体の狂いとなる。体が悪くなると気分が悪くなる、この悪い気分が具象化して悪い運勢をつくりだす。だから、足と健康と運勢は、三位一体であるというのが、今泉天心先生の言わんとするところです。
しかし、現実に目を向けると、後世に偉大な思想を残した王陽明は、虚弱体質て肺の持病を持っていましたし、自らの運命を最大限に開いたのではないかと思われるパナソニックグループの創始者、松下幸之助翁も決して身体的には健康的であったとは言えません。
結局、王陽明にしろ、松下幸之助翁にしろ、自らの運命を切り開いていた方々は、快活であったということなのではないかと思います。
そうすると、真に開運を願う人は、快活な気持ちを持つことが何よりも大切だと言うことになるのではないでしょうか?「快活な気持ちを持つこと」は、別の表現を使うなら、「良知を発揮すること」、つまり、致良知と言っても良いのかも知れません。
転禍為福
是、災とて身に生まれつきてある者に非ず。
元来外にある者なるを、手前の不慎より
これをよびとると云う義也。
我より冦(あだ)を致すと云うは、
我妄動にして慎み無きより
呼びよせ至らしめたる者なりと云えば、
如何ほどの災害も我が慎みだにあれば、
必ずやぶれずと也。
我に慎み在るを失わずして、
外にある災何ぞ至るあらんと也。
江戸時代の陽明学者、三輪執斎が『周易進講手記』の水天需の三爻の解説として述べた言葉です。災とは、生まれつき身に備わっているのではなく、慎みを忘れた自分自身の妄動が引き寄せるのだということが説かれています。『易経』の水天需の需とは、「待つ」という意味があります。水天需の項では、「待つ」ことの美学が説かれています。三爻では、あと少しで道が拓けるのに、慎みを忘れてお手つきをしてしまい、これまでの努力が水の泡になってしまう。という日常生活の中で起こりそうな傾向を戒めています。
◆徒然日記
中国の古典では天災を「災」、人災を「眚」という字で区別しています。人為的な要因で生じた過失を表す漢字として眚という漢字があるにも関わらず、三輪執斎は、災という字を使っています。そして、その災さえも、慎みを忘れた妄動が引き寄せるのだと言っています。
災と眚は、完全に区分することはできず、密接な関係を持ち干渉し合っています。例えば、pm2.5の空気汚染やオゾン層の破壊は、眚から災に転じた悲劇です。一方で地震発生後の強奪や詐欺被害の様なケースは、災から眚に転じたものだと言えます。
新型コロナウイルスの蔓延が災なのか眚なのかは究明されていませんが、どちらであったにせよ、妄動による眚にならない様に心掛けていく必要があると思います。