暮らしの中の陽明学 -71ページ目
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浩然之気

吾が氣、浩然、太虚に同じ

何ぞ曾て半点、形躯に落ちんや



備中松山藩の山田方谷は、大政奉還を受けて、無血開城に尽力をし、藩への打撃を最小限にとどめました。明治新政府樹立後は、新政府への出仕要請も拒み、郷土での子弟教育に専念しました。方谷は、その晩年の教育で孟子を中心とした「養気」について指導し、自然の法則に従う直養が大切である事を説いたので、方谷の思想を「養気の学」という人もあります。この言葉は、方谷の漢詩、「吾が氣 浩然」の一部を抜粋しています。



◆徒然日記

  「氣」というのは、目に見えないものだけに、評価が分かれがちです。信じる人は、何でもありがたがって盲信しますし、信じない人は、科学的でないというだけで、研究しようともしません。「氣」については、もう少し中庸のとらえ方があっても良いのではないかと思います。中国や台湾の医学や物理学の分野では、「氣」を科学的に研究しようという動きがあり、そうした団体では、氣を能量(エネルギー)ととらえて研究しているようです。

 さて、小説家や作曲家は、小説や楽曲を創りあげるのに、多大なエネルギーと情熱を注ぎますが、出来上がった作品を自分の分身のように感じるといいます。そして、その分身は、空間と時間を越えて多くの人に感動を与えます。また、一代で企業を築き上げた創業者は、会社を自分の分身のように考えて、発展させていこうと発奮します。こうした創造のために使われるエネルギーは、個人の肉体的、生理的な限界をこえて広がっていきます。

 性命を発展させる為のエネルギーが「氣」であるととらえると、養氣が如何に大切かということが分かります。そして、山田方谷の生き方を学べば、氣の純粋性も大切であることに気づきます。

心即理

已むを得ざるに薄(せま)りて

而る後に諸(これ)を外に発する者は花なり



  佐藤一齋は、江戸幕府官立の昌平黌の塾長(現在の東大学長に相当)をし、山田方谷や吉村秋陽など幕末に活躍した陽明学者を数多く輩出しました。一齋の著した『言志四碌』は、西郷隆盛の座右の銘として、隆盛の行動規範になったとも言われています。『言志四録』は、『言志録』、『言志後録』、『言志晩録』、『言志耊(てつ)録』の四書を総称したもので、この言葉は、『言志録』に記載されています。



◆徒然日記

  人生の岐路に立つこと、究極の選択を迫られることは、誰もが多かれ少なかれ経験することだと思います。私の場合は、人生の岐路というほど大げさなものではありませんが、大学への進学は、大きな転換期であったと思っています。私の父は、建築士で、息子にも建築士を目指して欲しいという思いをずっと抱いていました。そうした父の思いをそれとはなしに感じていたので、高校生の時、コース選択では、迷わず理系を選びました。しかし、進路選択の決断を迫られるにつれ、当時、開放されたばかりの中国に関する関心が高まり、中国語を学びたいという思いが強くなってきました。気持ちは高まるものの、それを父に言い出す機会を掴めずに悶々としていました。

  ある日、夜中に目覚めると、父が一人で読書をしていました。チャンスは今しかないと思い、自分の思いを父に打ち明けました。反対されるとばかり思っていたのですが、父は、自分の気持ちを大切にするようにと、逆に励ましてくれました。已むにやまれぬ思いを打ち明けた夜の光景は、いまでも明瞭に記憶に残っています。

  これを読んでいる方の中にも、進学、転職、結婚、独立など人生の転機を迎えている方もあるかと思いますが、心の中に眠っている花の蕾を開花させるのは、「已むに已まれぬ思い」なのではないかと思います。

 

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