9月4日の、『教員から「ある機関に提出したものだけどネットに公開して」と頼まれました』の先生から、またメールが届きました。
心のこもった内容に、吉田町の子どもたちは幸せだなと感じました。
ここから☆☆☆
はじめに吉田中学校の新間先生の勇気ある行動に敬意を表したい。詳細は9月16日の中日新聞の記事を御覧になっていただきたいが、現職の教員が姿を晒し、氏名も素性も明らかにした上で町の教育施策に対して意見を述べるまでには大いなる葛藤があったに違いない。 現在、非常の多くの教員が吉田町の教育施策に対して正直な思いを語ることをためらっている。その状況から考えても、新間先生の勇気と覚悟は尊敬に値する。
それがどれほどの勇気と覚悟であるかを想像すれば、新間先生の口にする内容が単なる自己都合ではないことは明白だろう。新間先生が語っているのは「夏休みが減ってしまうと自分たちの自由な時間がなくなってしまう」などという次元の話ではないのだ。
新間先生の発する言葉の深層を理解するのと同時に、私たちは決して新間先生に独り相撲をとらせるようなことをしてはならない。私たち教員も覚悟せねばならない。少なくとも私は今、そう自分に言い聞かせている。
新間先生の語る内容は、多くの教員、いやほとんどすべての教員が心に秘めていることと同じである。
今さら繰り返すまでもないが、授業の日数すなわち児童・生徒の登校日数が増えれば、それに伴って私たちの業務は必ず増える。
私たちは前日に準備した授業をまるでシナリオを読むように再現しているわけではない。生身の児童・生徒と会話をし、個別対応を考え、相談に乗り、共感をし、アドバイスし、成長を見届けているのだ。そこにシナリオはない。
児童・生徒がひとたび登校すれば、個々の児童・生徒に全力で接する。その一つ一つの関わりは数日前から準備できるものではない。もはやそれが「業務」だという意識すらなく、当然のこととしてその一瞬一瞬の児童・生徒と向き合う。
前日に児童・生徒が4時間で下校し、午後に多くの授業準備ができたとしても、それは授業準備という作業の配置が整頓されたにすぎない。私たちが多くの時間を費やす『シナリオのない業務』は、日数に比例して増えるだけだ。 働くことそのものが嫌なわけではない。しかし、実際には負担増となるであろうこの施策を、町教委が「教員の働き方改革」「負担軽減」に結びつくものだと公言していることに感じるものは違和感のみである。
9月13日の定例議会では、TCP トリビンス プランの検討の発端は、2016年4月の町長の指示であったという答弁があった。さらに、町長は「夏休みの問題は10年ぐらい前から関心があった」「(長期休業で)学力の低下が起きる」と説明した。
そこには「働き方改革」の色合いも「負担軽減」の気配も何もない。保護者からの要請もない。教員からの願いもない。
もともと町長が関心をもっていた学力向上のためのプロジェクトに、「働き方改革」という言葉を乗せただけだというのは、もう明白なのではないだろうか。しかもそれが、当事者自らの答弁の中に透けて見えているではないか。
トリビンスプランは、2月の総合教育会議によって原案が提示され、合意を得たとされている。その議事録に目を通したが、その内容は協議と呼べるものとは言えないと私は感じた。私には「忖度に満ちあふれた儀礼的な会議」にしか見えなかった。
私は教育委員の方たちのことはよく知らないが、2月の総合教育会議に参加した校長および教員のことはよく知っている。その教員の1人は、実際には総合教育会議の発言内容とは全く逆の意見をもっている。
総合教育会議で本心を言わなかったその教員に問題があるのか、本心を言えない総合教育会議に問題があるのか。
私はそこに参加した教員が本心を語らなかったとしてもそれを責めるべきではないと考えている。町長と教育長の同席する中で、両者の「御意向」に反する発言などできるわけがないからだ。
全国にも類を見ないこれほどの改革を行うならば、行政は総合教育会議での合意をすべてとせず、さらに広く町民からも教員からも声を集めるべきであるように思う。
議会における学校教育課長の「選挙で選ばれた町長が出席する総合教育会議で合意したことは民意の反映」という言葉は、構造上・通念上は間違いない。なのになぜこれほどまでに民意とのギャップが浮き彫りになってくるのだろうか。それは、総合教育会議がすでに町長の「御意向」に応える空間になってしまっていたことを意味するのではないだろうか。
総合教育会議は法的には「協議・調整の場」として位置づけられている。総合教育会議で合意形成されたからといって、なぜここまで頑なにそして粛々と推進する必要があるのだろうか。推測ではあるが、その背後にも「御意向」と「忖度」があるように思えてならない。
民意を問い、民意を反映する段階が不十分だったから、住民や教員がこれほどまでに混乱し、「報道で初めて知った」というコメントまでもが出てくるのだろう。
教員の声が聞こえないなどということが世間で語られ始めて町教委は7月にトリビンスプランに対する教員用のアンケートを実施した。アンケートの実施そのものが後手であることも気になるが、私の知る限りでは町教委によるアンケート作成が7月24日。学校配布が25日。回収が26日である。 本当に教員の声を集約したいと考えているのか、声を集約したという既成事実だけを手に入れたいのか、後者にしか思えないのは私だけではないはずだ。
教育長は「いろいろな意見を踏まえて、よりよいプランにしていく」とことあるごとに発言している。にも関わらず8月30日の出張教育委員会において住民側から要請された教育委員の出席を却下した。そこに矛盾はないのか。行政として決めたことを誰にも邪魔されずに進めたいという意思表示なのだろうか。
それは、教員に対して行ったアンケート調査の期間が極端に短かったことと同じ論理だ。残念なことに、教育長が自ら述べている「いろいろな意見を踏まえて、よりよいプランにしていく」ということに反する行為だ。後付けの説明や調査の重ね塗りばかりでは、「よりよいプラン」には絶対にならない。
私たち大人の合意形成が図られないことの本当の被害者は児童・生徒である。すでに多くのことが語られているので、ここで改めて掘り下げる必要はないが、夏季休業の中には、家族旅行やスポーツ少年団の活動、帰省、ホームステイ、ボランティア、中学校においてはそれに中体連の県大会や全国大会、体験入学などが複雑に絡む。
これらは「夏季休業ならではの活動」「夏季休業にふさわしい活動」として長い年月をかけて培われたものだ。例えエビデンスは乏しくとも習慣として深く根づいていることは確かだ。
町教委は各機関・グループと交渉をして児童・生徒への影響を少なくすることを試みているという。調整作業は無論必要であるが、後発であるトリビンスプランが深く根づいた習慣を押しのけて入り込むのに十分な理由を有しているかは慎重に吟味しなければならない。ましてや学校の授業日と他の活動が重複したために児童・生徒がその選択を強いられることや、スポーツなどの活動を選択した児童・生徒の授業が保障されなくなることは絶対に避けなければならない。
トリビンスプランを推進するのであれば、町教委は、増加した授業日数の中でいかなる児童・生徒をも犠牲にしないという決意と計画を示し、同意を得ることを何よりも先に行うべきだ。
冒頭にも述べたが、自分の立場を晒して本心を語ってくださった新間先生が、不当な扱いをされるようなことがあってはならない。
新聞の記事からは、吉田中学校内の組合組織が新間先生をしっかりと支えている様子が感じ取れ、非常に心強い。しかし、それだけでは新間先生と吉田中学校職員の勇気に、多くの教員が甘えているにすぎない。
私たち教員は、自分にできる形でそれぞれの主張を世の中に発信してくべきだと思う。それは決して混乱を煽り、無駄な争いを起こすためでない。この大きな改革にしっかりと民意を流し込むためだ。
町民のグループも私たち教員に先んじて主張を始めてくれた。
彼らは、児童・生徒を混乱させるようなことが起きないように必死になっている。
そして彼らは、私たち教員の本当の気持ちを聞こうとしてくれている。
見ず知らずの私たちの本当の気持ちをだ。
だからこそ私たち教員は冷静かつ能動的に主張を始めることだ。
そうすることが、勇気を出して行動した人間を孤独にさせないために最も大切なことだからだ。